2008/10/27

本当のボスは誰か?  
前田氏より懇篤なるコメントを頂戴した。なお、他にも各方面から種々のコメントが寄せられているけれども、いつものことながら対応し切れないので、省略させていただく。

佐久間氏談なるものが貼り付けてある。これについては大いに異論があるけれども、詳細は別の機会に譲りたいと思う。
ともかく前田氏の意図は、真偽不確定の引用は避けるべき、ということなのだろう。ようするに、前回の拙稿では諸法実相抄を引用したわけだが、おそらくはそれがあたかも自説を正当化するための強引な手段のようにも感じられるところなのだと思う。
いわば前田氏は、そこにクギを刺したわけである。

けれども、わたくしはそれほど単純な人間ではなく、相手の主張をじゅうぶんに理解した上で論を組み立てているつもりである。ゆえに、あらかじめ反論を予想して、それなりの補強材料を用意してあるのだ。今回はそれを書く。

そうそう、その前に確認しておきたいことがある。前田氏は丁寧にも御書の引用を、わたくしが省略してしまった部分まで紹介し、さらには現代語訳まで付けておられる。これはひじょうに素晴らしいことではあるが、ひとつ疑問に思ったことがある。すなわち、この現代語訳は前田氏自身のものなのか、それとも何か他の資料を使っているのかである。その点を教えていただければと思う。
別にそれを聞いてどうするわけでもないのであるが、わたくしは「満足」という訳語が少し気になった。広い意味では満足でもいいだろう。だが、現代語訳なのだから、現代感覚に即して表現すべきだと思う。そうすると、満足というのはちょっと違うような気がするのであるが、まあ、これはまた煩瑣になるので別の機会にしたいと思う。

例えば
大王が我が子、太子を数多くの臣下に命じて守護をさせるようなものだとあります。

父がわが子の頭を撫で、衣で包んでくださるんです。まもるのです。


「みづから来り給ひて、昼夜十二時に守られ給はん事のかたじけなさ申すばかりなし。」

巌虎さんの言うとおり、当然、諸天、善神の守護は当然なのですが、わが子の事なので大王(釈迦牟尼仏世尊)自らお出ましになるのです。
パシリだけでなくボスのお出ましなのです。


いよいよ本題である。ようするに、わたくしは釈尊をパシリであると書いたわけだが、これについての前田氏からの反論が上掲である。

一見すると、よくまとまっている。というよりは、日蓮宗における教義信条に則った模範的な説明なのだろう。その意味では正しいのかもしれない。
諸天善神が守護の役目を担っているのは当然である。けれども釈尊は我が子すなわち仏子ないし釈子、まあ、いろいろ言い方はあるわけだが、ともかく釈尊は諸天善神(パシリ)だけに守らせるのではなく、自分自身(ボス)が直接、守りに来て下さるというわけだ。
これはまさに、かたじけなさ申す計りなし・・・という御文を拝すれば、なるほどそのとおりである。

ただし、前田氏は知ってか知らずか、重要な点を見逃している。

又かたじけなくも釈迦・多宝・十方の諸仏のてづからみづから来たり給ひて、昼夜十二時に守らせ給はん事のかたじけなさ申す計りなし。

上野殿母尼御前御返事の当該御文では、いわゆる三仏が並列的に論じられている。釈尊一仏ではなく、そこに多宝・十方の諸仏が並ぶのである。

この点は日蓮宗の人がよく引用する南条兵衛七郎殿御書の、

ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。

と事情が異なるのだ。

このことは母尼御前御書の続きの御文を拝すれば、さらに明瞭となるだろう。

 抑いかなれば三世十方の諸仏はあながちに此の法華経をば守らせ給ふと勘へて候へば、道理にて候ひけるぞ。法華経と申すは三世十方の諸仏の父母なり、めのとなり、主にてましましけるぞや。

諸法実相抄では、釈迦多宝は用の仏であって妙法蓮華経こそが本仏である、と仰せになっている。上掲の御書では、法華経は仏にとって父母であり、乳母であり、主であると、実質的に主師親の三徳を仰せられているのだ。これは往いては同じことである。
つまり、通常であれば仏がいわゆる三徳者なのだけれども、法華経においてはその上位概念として法華経そのものが三徳者なのである。
それを裏付ける御指南はたくさんあるが、その中でもいちばんわかりやすい御文を紹介しておこう。

「応化は真仏に非ず」と申して、三十二相八十種好の仏よりも、法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給ひ候へ。

これは建治元年の御衣並単衣御書であるが、ほぼ同時期の妙心尼御前御返事がまた興味深い。

 このまんだらを身にたもちぬれば、王を武士のまぼるがごとく、子ををやのあいするがごとく、いをの水をたのむがごとく、草木のあめをねがうがごとく、とりの木をたのむがごとく、一切の仏神等あつまりまぼり、昼夜にかげのごとくまぼらせ給ふ法にて候。

この御文を踏まえて上野殿母尼御前御返事を改めて拝読するならば、ことに、釈迦・多宝・十方の諸仏のてづからみづから来たり給ひて昼夜十二時に守らせ給はん・・・の一段においては、大曼荼羅御本尊の相貌が彷彿としてくること請け合いである。

結論として、前田氏はボスを釈尊であるとしているが、当該御文においては文脈上、法華経そのものがボスなのである。

かく見れば、諸法実相抄における妙法蓮華経が本仏という考え方にしても、けっして特殊なものではないことがわかるはずだ。

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