2009/8/12

恣意的な引用を斬る  
各方面より、ひじょうに力の入ったコメントを頂戴しているが、これらは今後の糧とさせていただくことにして、さっそく本題に入りたい。

 昭和六十年五月、壮年・婦人・男子・女子の四者体制への組織変更が行われた。

これは昨日の「教学部廃止」と前後するが、一つ前の「四者体制移行」の冒頭の文章である。

櫻川氏の見解では、この四者体制への移行は浅井先生の自己保身が目的だという。
だが、しかし、さすがにそれはないだろう、というのが今日の話の結論である。
いくらなんでも昭和六十年の段階で先生がそのような考えを持っていたとは考え難い。何か決定的な証拠でもあれば、まだしもであるが、櫻川氏は何ら具体的な証拠を示していない。こういうのを邪推というのだろう。

 浅井会長は、自分への謀反を何より恐れる。(中略)
 それが現実になったのが、平成元年の高知支部長の離反だった。支部長を解任すると、浅井会長を捨てて多くの支部員が支部長に付いて去ってしまい、高知支部は壊滅状態となった。
 四者独立体制への移行は、そうした実力者を組織内に作らないため、なされたことであろう。それが組織の弱体化をもたらそうが、会長にとって自己の安泰の方が大切だったのであろう。


高知支部の話が具体例として出てくる。しかし、これを証拠とするには弱い。なぜならば順番が逆だからである。
もし高知支部長の離反があって、その後に体制の移行があれば時系列として納得できるが、現実には逆になっている。ゆえに昭和六十年の段階で、先生に自己の安泰を企てるような意図があったとするには、根拠が薄弱と言わねばならないだろう。
さらに言えば、ここで櫻川氏は決定的なミスを犯している。ひじょうに煩瑣ではあるが、次の引用をお読みいただきたい。

 昭和五十九年二月、豊島公会堂に三千人を集めて開催された教学部入部式で浅井会長は、「今こそ、広布のための大教学が興らねばならない。・・・どうか全員が真剣に学び、日本第一の教学部を築き、以て大聖人様に本格的な御奉公を申し上げようではありませんか」(「冨士」第二百四十五号、昭和五十九年三月)と述べ、「仏法を学ばなければ御奉公は叶わない」と力説した。
 「広布のための大教学」、「日本第一の教学部」、この自身の言葉に背いて教学部を廃止したのは何故だろうか。「学ばずに使命が果せるか」(「冨士」第十七号)との使命を棚上げして、浅井会長は何を護りたいのだろうか。


これは320ページから次ページにかけての記述であるが、察しのいい人ならば、わたくしの言わんとしていることがわかるはずである。

櫻川氏は、浅井先生が昭和五十九年の段階で教学の重要性を謳っていたことを証拠をもって示し、後に教学部を廃止したことを責めているわけである。ならば、翌年の四者体制の移行にしても、素直に受け取るべきが筋であろう。単純に言うと、引用意図が正反対になっているのだ。

昭和五十九年の段階では、まだ教学研鑽の重要性を強調していた。しかし、何かしら不都合があって、路線変更した。それが教学部の廃止であり、教学を軽視する今日のいわゆる一念信解路線である。
同様に昭和六十年の四者体制移行は、組織の拡大・発展を期して断行したものであると受け取るべきである。しかし、後に造反事件が起きた。ゆえに、そこで先生の心中に路線変更が芽生えたと考えることは可能である。ちなみに、壮年部はその後も○○支部という名称を付していたが、いつの間にか支部ではなく地区という呼称に変わってしまった。

以上のごとく、櫻川氏の説には無理があるわけだが、あえて修正するならば、支部から地区に変更になった段階に焦点を当てて、先生の自己保身を責めるべきだったと思う。

繰り返しになるが、さすがに昭和六十年の段階では無理がある。まだ先生も若かったし、解散処分から数えても十年程度しか経過していなかった。ゆえに夢も希望もあった。そう考えると、四者体制移行は純粋に組織の拡大・発展を目指してのことだと思われるのだ。

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