2010/1/19

冬真っ盛り  
久しぶりの更新となるが、今日は法太郎のサイトの読後感想文である。最初にどうでもいい話を書いておくと、法太郎はスキージャンプの超一流選手たちを間近にして、心臓をドキドキさせただとか、震える手でコーヒーを入れて差し上げたなどと、意外な一面を垣間見せている。

暴力団・創価学会の一面  (小笠原慈聞・狸祭り事件の資料紹介)

そこで本題である。上掲の一文が興味深い。

おそらく拙ブログを閲覧している人たちには説明不要であろうが、かつて狸祭り事件というものがあった。神本仏迹論を唱える僧侶に対し、創価学会側が謝罪を強要した一件である。創価学会側の言い分としては、牧口初代会長が獄死したのはこの僧侶のせいだということなのだろう。また、神本仏迹論は間違いであるから、その邪義を破折・粉砕した、ということなのだろう。

しかし、事件と呼ばれる以上、単なる言論上の問題ではないはずである。それが今回の資料によって明らかになった。

ちなみに浅井先生も、この事件に言及したことがある。二年ほど前にはめずらしく顕正新聞に誤植の訂正記事が出た。ようは神本仏迹論と書くべきところを新本仏迹論としてしまったのだ。また、古くは冨士の二百七十一号、いわゆる試練と忍従の歴史に記述がある。

 さて、学会の宗門制圧の手口は、二代戸田会長の頃は、直接暴力に訴えて僧侶を畏怖せしめた。
 たとえば立宗七百年慶祝法要のおり、総本山において一老僧を数百名の青年部員が裸にし、墓地にかつぎ込み謝罪を強要した、いわゆる狸まつり℃膜潤B


浅井先生はこの続きの文章で、当時の創価学会はまだ陽性でご愛嬌があった、などと書いている。これは先生の見解としては至極当然のことなのだろう。さらに続きの文章では、池田会長の宗門統制の手口は戸田時代と異なり陰湿・・・云々としている。単純化すれば、先生は戸田氏に甘いが池田氏に辛いということだ。ちなみに、『迷走する顕正会を斬る』には、浅井先生を戸田氏の思想的後継者とする記述が見られる。なるほど、さもありなん、である。

法太郎の記事に戻って、わたくしがもっとも興味を惹いた点は、小笠原慈聞師をあながちに悪者とは決め付けられない面があることだ。この際、神本仏迹論の法義上の問題はさておき、次の一文がひじょうに示唆的だと思う。

この資料を見ると、創賊の三文小説からうかがわれる事件とはまったく趣を異にするものである。戸田城聖は小笠原慈聞師を殴打してひと騒ぎを起こし、騒ぎが大きくなり刑事も来たことから、見舞金を出して小笠原師をなだめようとした姑息なことをしている。

対して小笠原慈聞師は意気軒昂で、守護する檀信徒もよく末寺教師の名誉のために奮戦した。そのために水谷日昇上人に法論を挑むなどまさに「壮士」たる意志満々たる気迫である。


これは法太郎の所感部分であるが、ようは当時においても骨のある法華講員が存在したこと、とりわけ小笠原師のもとにそうした人々がいたという点は見逃せないところである。わたくしの思うに、当時すでに旧来の法華講員の間に創価学会に対する不信感のようなものが芽生えていたことを窺わせるものだ。また、この事件そのものがその方向に拍車を掛けた意味もあるだろう。

つまり、このまま創価学会の傍若無人ぶりを看過していたら大変なことになる、われわれも頑張らないといけない、という意識を生じさせたのだ。

『迷走する顕正会を斬る』には次のような記述がある。

 昭和三十一年一月、「法之道」の巻頭言で主管(住職に相当)の早瀬道應師は、「学会の人々に遅れじ」と、五ヶ年計画の四年目にあたる今が分岐点であると述べ、安逸を誡めている。
(中略)
 早瀬主管の五ヵ年計画とは、昭和二十八年を初年度として従来の講中組織の統合をはかり、昭和三十二年に精鋭三千世帯を達成するというものである。

なぜ昭和二十八年がスタートなのか、おそらくはくだんの狸祭り事件がその契機の一端を担っているのだろう。事件はその前年に当たる昭和二十七年の出来事だからである。

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