2010/10/19

現役会員諸君への質問  
山門手前氏から長文のコメントを頂戴した。一読して、じゃっかんの危惧をおぼえた。正宗批判と受け取れる文言が散見されるからだ。正宗の御信徒としてはいかがなものかと思った。いや、もちろん、言論の自由はあって然るべきであるし、かく言うわたくしも顕正会員でありながら顕正会批判を書いているのだから、人のことをとやかく言えたものではないのだが・・・

旦氏は顕正会に対して好意的である。また、コメントを拝見すると、改憲論者のようでもある。もしそうだとすると、この辺は現宗門のスタンスとはじゃっかん異なるのかもしれない。

類は友を呼ぶ、というが、わたくしが変わり者だからだろうか、失礼ながら拙ブログのコメント投稿者には変わり者が多いようである。nabe氏もその一人だろうか?

 御供養は真心から行われるものですから、権力とは関係ありません。

国家権力と仏法との関係性について、わたくしは無関係とは言えないと書いた。これについてnabe氏は御供養の観点から異論を唱えてきた。

確かに御供養の精神から言えば、権力は無関係だろう。税金と御供養はまったく性質の異なるものである。
なぜに国家が税金を徴収できるか、それはぶっちゃけ権力があるからだろう。脱税でもしようもならばお縄頂戴となる。ゆえに払わざるを得ないのが税金である。強制力が働くのだ。
一方の御供養は、強制されるべきものではない。ゆえに国家権力とは無関係である。

しかし、それは御供養の話であって、いわゆる政治と宗教の関係をその一点だけに集約して論じてしまったならば本意を見失うことにもなりかねないだろう。

王法仏法に冥じ、仏法王法に合して・・・

いわゆる王仏冥合の文証は三大秘法抄に求めることができる。この一文を曲会して、王法をさまざまに解釈したとしても、そこに国家権力が含まれないとすることはできないだろう。また冥合の意味においても、これをいじくり回したところで無関係という結論にはならないだろう。

是の故に諸の国王に付嘱して比丘・比丘尼に付嘱せず。何を以ての故に。王のごとき威力無ければなり。

ここでの威力が権力に相当することは論を俟たない。これまた解釈をこねくり回したところで、正反対の結論にはならないはずだ。

以上、大聖人の仏法が国家権力と無関係というのは言い過ぎである。より正確に言えば、現時点では他の宗教と同じ土俵にいるけれども、広宣流布の暁には国家と密接な関係を結ぶことになる。問題はその具体的なビジョンとして、どのような関係性が望ましいかである。たとえば浅井先生は上掲の経文などを根拠としているのだろう、広宣流布の時には仏法守護のための国軍を設けるべきだ、というようなことを発表している。わたくしは正直、これには抵抗がある。さりとて他のビジョンがあるわけではなく、何となく危険な発想のように感じてならないのだ。

九月度総幹部会の話題に入ろう。今頃になって九月の話もどうかと思うが、ちょうど内容的にも今日の話題に当てはまる部分があるので、取り上げたい。テキストは顕正新聞第1185号である。

 いいですか。国立戒壇というのは、国家・国土を成仏せしむる唯一の秘術、仏国実現の唯一の秘術なのです。
 個人が成仏させて頂く秘法は、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉る本門の題目。そして国家・国土を成仏せしむる秘術が本門の戒壇、すなわち国立戒壇の建立なのであります。
 そして本門の題目も、本門の戒壇も、ともに本門の本尊の功徳・妙用を本としている。よって「本門戒壇の大御本尊」を三大秘法総在の本尊と申し上げる。これが三大秘法の根本義であります。


浅井先生が正本堂について、国家と無関係に建てられた正本堂が御遺命の戒壇のわけがない、という意味のことを言い続けてきたのは上掲のような思想を持っているからである。

わたくしはこの説明をひじょうにうまいと思っている。平易であり、なおかつ整理整頓が行き届いていて、要点がしっかりと伝わってくるのだ。図示すれば次のごとくなるだろう。

        本門の題目=個人の成仏
本門の本尊
        本門の戒壇=国家・国土の成仏


しかし、今のわたくしは、これに疑問を感じないわけではない。本門の題目を唱えて成仏させていただけるというのはいいだろう。では、本門の戒壇を建てることによって、国家・国土が成仏するというのは、何を根拠に言っているのだろうか?

今号の顕正新聞一面の大見出しには次のごとくある。

国立戒壇の本義 全員心腑に染む

顕正会の活動会員たちは全員が国立戒壇の本義を心肝に染めているわけだろう。ならば、わたくしの疑問にもスラスラと答えられるはずだ。わたくし自身は、国立戒壇建立が国家・国土の成仏と聞いて、かつてはそのまま結論だけを鵜呑みにしていた。しかし、今は自分で御書を拝読するようになって、はたしてこれでよいのだろうかという疑問が湧いてきた。ようは国立戒壇の本義が心肝に染まっていなかったのだ。心肝に染まっているはずの活動会員諸君であれば、わたくしの疑問に答えられるはずである。

そういうわけで、これを現役活動会員への宿題としたい。

とは言っても、残念ながら拙ブログへコメントを寄せる会員は少ないので、ある程度は話の筋道をつけておく必要がある。

 近来の学者一同の御存知に云はく「在世滅後異なりと雖も、法華を修行するには必ず三学を具す。一を欠いても成ぜず」云云。

三学というのは戒定慧の三学のことだ。上掲は四信五品抄の冒頭の一節であるが、御相伝書の上行所伝三大秘法口決によれば、戒は文字どおり戒壇、定は本尊、慧は題目に相当するごとくである。つまり、三大秘法と戒定慧の三学には密接な関係があるわけだ。

わたくしの疑問は単純である。戒定慧の三学のうち、なぜに戒が国家・国土の成仏に相当するのか、ということだ。国立戒壇すなわち国家的に建てるから国土に感応があらわれるという説明をする人もいるかもしれないが、それはそれとして、ここでは戒定慧の三学の上から、どのような説明が可能であるかを知りたいと思う。


十月二十二日追記:脱字を補った。

トラックバックURL

トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ