2012/7/31
三者三様のテーマ
ポリ銀氏のコメントは衝撃的だ。
顕正会の御本尊様の件ですが、前の上長であったKさんの話では御形木様を印刷しているようですね。改竄等はいっさいしてないようなので、顕正会から言えば本物で正宗からすれば不許可の偽物のということでしょう。
樋田さんを無視したのは、あえてこのことを喧伝したくない意図の顕れでしょうね。
僕個人は御形木様が例え本物でも、仮に大石寺も印刷所に御形木様を発注しているにせよ、私製というのは受け入れられないというのが正直な気持ちです。
あっさりと書いてしまっているけれども、物凄く重要な証言である。前の上長だった人の言っていることが事実であれば、それはまさにニセ本尊であることを認めたに等しいことなのだ。
なぜならば、浅井先生は妙縁寺所蔵の御本尊を譲り受けた、常住御本尊はもちろんのこと御形木御本尊もすべて妙縁寺のもの・・・これが現時点での公式発表のはずなのだ。ゆえに、もし顕正会で勝手に印刷したとすれば、今までの説明がウソになるのだ。
ここで根源的な問いを発するならば、顕正会版の本尊に功徳はあるか、ということになる。これは創価学会版も同様である。
当然、宗門は認めないだろう。それはわかり切った話だ。
しかし、これはけっこう難しい問題であって、そう簡単には解決しない。創価学会の場合は平成五年から独自の本尊を下付するようになった。すでに二十年になんなんとしているのだ。ようは既成事実化しつつある。宗門が何を言おうがそれがまかり通ってしまっているのだ。
ゆえに顕正会もこの件に関しては開き直ってくる可能性がある。そうなると物凄く厄介だ。
わたくしの思うに、ここはあくまで自語相違を責めるべきなのだ。顕正会で印刷しているのであれば、それは完全な自語相違であり、ウソとなる。長い間、会員をも欺いていたことになるのだから、これは創価学会よりも遥かに悪質だ。そんな連中が御遺命を云々したところで、説得力はない。
以上、くだんの上長の言っていることが本当ならば、顕正会もオシマイである。
2012/7/31 1:38
投稿者:山門入り口
【道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む。彼は外道也、道士也。】
真言の師による、調伏をさしてるのですよ。
さて、今度は山門入り口氏だが、どうも要領を得ない。出し惜しみをしているのではないかと勘ぐりたくなるところだ。
そこで今回は問いを二つ設けよう。
問一、上掲の御指南が真言師による調伏を指していることは何によって知ることができるのか?
問二、前問がクリアできたとして、では、それがなぜに真言批判に当たるのか?
以上、山門入り口氏には出し惜しみすることなく、お答え願いたい。
一大秘法とは、一切衆生が元々持っている己心の妙法である、南無妙法蓮華経のこと。
この事実を一大事の秘法と言います。
三大秘法は、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇、ですが、この中で本尊と題目は同じものの捉え方の異なりで、衆生己心の南無妙法蓮華経。
そして、その己心は身体が無いと保てませんね。
それで、身体を宝器と言って、これが本門の戒壇です。
ひとまとめにして、一大秘法ですが、私共自身の事です。
大聖人は御義口伝を始めとして、多くの御書で繰り返してご指南です。
釈迦は虚空に宝塔を思い描いて、その私共の己心の妙法を説明いたしました。
それを、そのまま曼荼羅に顕したものが、大聖人のご本尊。
ですので、ご本尊は私共の己心の妙法の青写真です。
本体は私どもが備えています。
あらゆる宗教と、大聖人仏法の異なりが、この部分です。
生命至上主義です。
命が南無妙法蓮華経如来ですから、根本尊敬せねばなりません。
最後は沖浦氏だ。
まず、簡単なところから入ろう。上掲の戒壇の説明は御書のどこから導き出されるのだろうか?
自分の身体が本門の戒壇?
たぶん己心戒壇の一種というか、おそらくはわたくしのために平易に説明下さったのだろう。言わんとしていることはわからなくもないが、反証はいくらでも可能だ。
霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。
自分の身体が戒壇だったら、わざわざ最勝の地を尋ねて建てる必要はない。つまり、沖浦氏の主張は三大秘法抄の御指南と真っ向から対立するのだ。さあ、どうする?
命が南無妙法蓮華経如来ですから、根本尊敬せねばなりません。
これは単に、一切有情悉有仏性とか、不軽菩薩の但行礼拝とか、そういう次元の話ではあるまいか?
少し難しいが、当体義抄の御文をぶつけてみよう。沖浦氏がどのように答えるか、ひじょうに興味深いところだと思う。
問ふ、一切衆生皆悉く妙法蓮華の当体ならば、我等が如き愚癡闇鈍の凡夫も即ち妙法の当体なりや。
沖浦氏の考え方で行くと、勿論なり、ということになりそうだが、大聖人は違うことをおっしゃっている。当然、大聖人の仰せに従うべきである。
ご本尊は私共の己心の妙法の青写真です。
沖浦氏が言うここでのご本尊は曼荼羅本尊のことだろう。つまり、私共の己心の妙法こそが真実の本門の本尊であって、曼荼羅本尊は青写真に過ぎない、というのが氏の主張だ。
しかし、これは間違いである。前掲は問いの部分しか紹介しなかったが、その答えの部分を拝すればよくわかることだ。ここではあえて切り文を紹介しよう。
妙法蓮華の体と云はるべからず。
妙経の体に非ず。
さらに当体義抄の後半には次の一節がある。
凡そ法華経の意は、譬喩即法体、法体即譬喩なり。
直接的な意味はわからないが、当該御文は沖浦氏の言う青写真を真っ向から否定しているごとくである。
顕正会の御本尊様の件ですが、前の上長であったKさんの話では御形木様を印刷しているようですね。改竄等はいっさいしてないようなので、顕正会から言えば本物で正宗からすれば不許可の偽物のということでしょう。
樋田さんを無視したのは、あえてこのことを喧伝したくない意図の顕れでしょうね。
僕個人は御形木様が例え本物でも、仮に大石寺も印刷所に御形木様を発注しているにせよ、私製というのは受け入れられないというのが正直な気持ちです。
あっさりと書いてしまっているけれども、物凄く重要な証言である。前の上長だった人の言っていることが事実であれば、それはまさにニセ本尊であることを認めたに等しいことなのだ。
なぜならば、浅井先生は妙縁寺所蔵の御本尊を譲り受けた、常住御本尊はもちろんのこと御形木御本尊もすべて妙縁寺のもの・・・これが現時点での公式発表のはずなのだ。ゆえに、もし顕正会で勝手に印刷したとすれば、今までの説明がウソになるのだ。
ここで根源的な問いを発するならば、顕正会版の本尊に功徳はあるか、ということになる。これは創価学会版も同様である。
当然、宗門は認めないだろう。それはわかり切った話だ。
しかし、これはけっこう難しい問題であって、そう簡単には解決しない。創価学会の場合は平成五年から独自の本尊を下付するようになった。すでに二十年になんなんとしているのだ。ようは既成事実化しつつある。宗門が何を言おうがそれがまかり通ってしまっているのだ。
ゆえに顕正会もこの件に関しては開き直ってくる可能性がある。そうなると物凄く厄介だ。
わたくしの思うに、ここはあくまで自語相違を責めるべきなのだ。顕正会で印刷しているのであれば、それは完全な自語相違であり、ウソとなる。長い間、会員をも欺いていたことになるのだから、これは創価学会よりも遥かに悪質だ。そんな連中が御遺命を云々したところで、説得力はない。
以上、くだんの上長の言っていることが本当ならば、顕正会もオシマイである。
2012/7/31 1:38
投稿者:山門入り口
【道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む。彼は外道也、道士也。】
真言の師による、調伏をさしてるのですよ。
さて、今度は山門入り口氏だが、どうも要領を得ない。出し惜しみをしているのではないかと勘ぐりたくなるところだ。
そこで今回は問いを二つ設けよう。
問一、上掲の御指南が真言師による調伏を指していることは何によって知ることができるのか?
問二、前問がクリアできたとして、では、それがなぜに真言批判に当たるのか?
以上、山門入り口氏には出し惜しみすることなく、お答え願いたい。
一大秘法とは、一切衆生が元々持っている己心の妙法である、南無妙法蓮華経のこと。
この事実を一大事の秘法と言います。
三大秘法は、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇、ですが、この中で本尊と題目は同じものの捉え方の異なりで、衆生己心の南無妙法蓮華経。
そして、その己心は身体が無いと保てませんね。
それで、身体を宝器と言って、これが本門の戒壇です。
ひとまとめにして、一大秘法ですが、私共自身の事です。
大聖人は御義口伝を始めとして、多くの御書で繰り返してご指南です。
釈迦は虚空に宝塔を思い描いて、その私共の己心の妙法を説明いたしました。
それを、そのまま曼荼羅に顕したものが、大聖人のご本尊。
ですので、ご本尊は私共の己心の妙法の青写真です。
本体は私どもが備えています。
あらゆる宗教と、大聖人仏法の異なりが、この部分です。
生命至上主義です。
命が南無妙法蓮華経如来ですから、根本尊敬せねばなりません。
最後は沖浦氏だ。
まず、簡単なところから入ろう。上掲の戒壇の説明は御書のどこから導き出されるのだろうか?
自分の身体が本門の戒壇?
たぶん己心戒壇の一種というか、おそらくはわたくしのために平易に説明下さったのだろう。言わんとしていることはわからなくもないが、反証はいくらでも可能だ。
霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。
自分の身体が戒壇だったら、わざわざ最勝の地を尋ねて建てる必要はない。つまり、沖浦氏の主張は三大秘法抄の御指南と真っ向から対立するのだ。さあ、どうする?
命が南無妙法蓮華経如来ですから、根本尊敬せねばなりません。
これは単に、一切有情悉有仏性とか、不軽菩薩の但行礼拝とか、そういう次元の話ではあるまいか?
少し難しいが、当体義抄の御文をぶつけてみよう。沖浦氏がどのように答えるか、ひじょうに興味深いところだと思う。
問ふ、一切衆生皆悉く妙法蓮華の当体ならば、我等が如き愚癡闇鈍の凡夫も即ち妙法の当体なりや。
沖浦氏の考え方で行くと、勿論なり、ということになりそうだが、大聖人は違うことをおっしゃっている。当然、大聖人の仰せに従うべきである。
ご本尊は私共の己心の妙法の青写真です。
沖浦氏が言うここでのご本尊は曼荼羅本尊のことだろう。つまり、私共の己心の妙法こそが真実の本門の本尊であって、曼荼羅本尊は青写真に過ぎない、というのが氏の主張だ。
しかし、これは間違いである。前掲は問いの部分しか紹介しなかったが、その答えの部分を拝すればよくわかることだ。ここではあえて切り文を紹介しよう。
妙法蓮華の体と云はるべからず。
妙経の体に非ず。
さらに当体義抄の後半には次の一節がある。
凡そ法華経の意は、譬喩即法体、法体即譬喩なり。
直接的な意味はわからないが、当該御文は沖浦氏の言う青写真を真っ向から否定しているごとくである。
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