2012/9/3

一病息災を願って  
めずらしい人たちが登場した。ことにユタ氏のコメントは衝撃的だ。これに対し、沖浦氏とおおひがし氏がそれぞれの立場からコメントされているが、いずれも含蓄のあるものだった。

まず、ユタ氏のコメントから拾おう。

早逝&堕獄の覚悟

具体的な病名まではわからないが、以前より難病に罹っていることは聞いていた。それが今回、癌化の恐れだとか入院治療の必要性を医師より告げられたとのことだ。

ウソだと思われるのを覚悟で書いておくと、実はわたくしも難病に罹っている。厚生労働省が指定する四十数個だったろうか、そのうちの一つの病気を患っているのだ。病名については、別に書いても差し支えないと思うが、とりあえず伏せておこう。

幸いなことに、わたくしの場合は元気である。

一口に難病と言ってもいろいろあるわけで、わたくしの罹患した病気はそれほど深刻なものではない。また、同じ病気であっても症状は人それぞれであり、わたくしの場合は至って軽度であり、現在は治療を行なっていない。それどころか経過観察さえ、やめてしまったほどだ。

さて、わたくしがユタ氏に対し言えることは、何もない。その代わりと言ったら語弊があるけれども、大聖人の御指南を掲げておきたい。

命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ。

法華証明抄の一節だ。

この御書は弘安五年二月二十八日に上野殿に与えられた。どうやら上野殿は重病に倒れ、死の危機に瀕していたごとくである。弘安五年は大聖人御入滅の年だ。大聖人御自身も我が身の余命幾ばくもなきことを自覚あそばされていた。また、上野殿の父君は早くに亡くなっている。文永二年だ。そして、上野殿の弟は弘安三年に、わずか十五歳で亡くなっている。つい二年前のことだ。

こうした背景を踏まえて上掲の御文を拝すると、ただ単に字面を追うのとは違った味わいがあるのではないかと思う。

病によりて道心はおこり候か。

妙心尼御前御返事の有名な一節だが、ひじょうに短い御書なので、ぜひとも全文を拝したいものだ。

又人の死ぬる事はやまひにはよらず。

死ぬのは病気に限ったことではない、という意味だ。

当時のゆき・つしまのものどもは病なけれども、みなみなむこ人に一時にうちころされぬ。

いわゆる蒙古襲来によって、壱岐・対馬の人たちはみな打ち殺されてしまった。

病あれば死ぬべしといふ事不定なり。

難病だから必ず死ぬとは限らない。

又このやまひは仏の御はからひか。そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人、仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はおこり候か。

病気の人は仏になることができる? なぜ? おそらくは病気をキッカケにして信心が起こるからなのだろう。

 どうせ今健康でも、100年生きられません。
 最後には死ぬんです。


けだし名言である。

沖浦氏は御書が心肝に染まっているのだろう。だから御書を意訳的にしかも平易に自分の言葉に直すことができる。

ただし、創価の信心の是非は別だ。

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