2012/12/20

宿題の師走  
二氏より懇切なる回答をたまわりましたこと、まことにありがとうございます。

わたくしの感覚では、創価学会員が公明党候補に投票するのは当然としても、自民党候補に投票するのは抵抗があるのではないか、都知事選もまた同様であろうと、こんなふうに思うわけです。ゆえに組織的に動くにしても、ようは会員たちをどのように説得するのか、そこがひじょうに気になるところでした。会員はロボットではない。いわゆる集票マシーンみたいな表現があるけれども、一人ひとりには自分の考えがあるわけですから、公明党には入れるけど自民党には入れない、あの都知事候補は嫌いだ、こういう考えの人もいるはずなのです。

ところが創価学会はこの点において、ひじょうに団結力がある。はたして、その秘密は何なのか? 簡単に答えられるような話ではないのでしょうけれども、ここが物凄く気になるところですね。

もっとも今回の場合、投票率が低かったこと、それから民主党が勝手にズッコケたような意味もあるので、それが自公勝利の主因なのかもしれませんが・・・

いずれにしましても、ご丁寧な回答、ありがとうございました。

さて、いつもの文体に戻ろう。慣れない文体は疲れるだけだ。

新聞やニュースはご覧にならないのですか?

これはなかなか鋭い質問だ。わたくしは一般紙を購読していない。それからテレビを見ない。なぜならば自宅にテレビがないからである。かれこれ三十年くらい、テレビのない生活をしている。

余談ながら、自分ではけっこう面白い話だと思うので、書いておこう。初対面の人に、自分の家にはテレビがないんですよと告げると、たいていの人が信じない。テレビがない? それはウソでしょう? ところがである。しばらくすると、百パーセントの人が信じる。我が家に来訪すれば一目瞭然であるが、来訪しなくても同様である。何しろ会話が通じない。タレントの誰それがどうしたこうしたという話など、まったくわからない。ゆえに、しばらくすると、ああ、巌虎はテレビを見ないらしい。なるほど、テレビがないのは本当のようだ。というわけで、誰もが納得することになる。今まで一人として疑いを持った人はいない。

ちなみにテレビが嫌いなのではない。けっこう好きで、どこかテレビのある場所に行くと、熱心に見入ってしまう。新聞も同様で、自宅では購読していないけれども、喫茶店のようなところに行けば、必ず新聞を読んでいる。

しかし、自宅には新聞もテレビもない。

ようは変わり者である。ヘソマガリなのだ。

昨今の治安情勢に鑑み、少年法の廃止と在日外国人(特に某半島関係の!)の通名を廃止・禁止を公約に盛り込んでくれる政党があったら、それだけで得票率がダントツだと思うのですが……。残念ですね。

ユタ氏のコメントである。既述のごとく、わたくしはヘソマガリの変わり者であるが、テレビ・新聞にあまり毒されていない意味において、けっこう公平な見方・考え方が出来ているのではないかと、じゃっかん自負するものがある。そこで上掲であるが、いかがなものか、というのが第一印象である。少年法の廃止だとか在日云々、これが疑問なのではない。なぜに得票率がダントツなのか、それがわからないのだ。わたくしは現時点で、これらの案件がどのように議論され、どのような意見が多数を占めているのか、まったく知らない。ゆえに虚心坦懐に物を考えられる。そうすると少年法の是非だとかは難しくて答えが出せないけれども、得票率がダントツであるとする意見には納得しかねるわけである。だったらそれを看板に掲げて選挙に打って出る政党があってしかるべきではないか、それがないのはユタ氏が思っているほど有力な意見ではないからではないのか、と思うわけである。

以上、ユタ氏の論理の甘さを指摘させていただいた次第である。もっとも、こんな文章を書いていると、嫌われるだけなのだが・・・

さて、同様の意味で、わたくしは沖浦氏に思いっきり嫌われてもよさそうなものなのだが、どうもそうはならないようだ。

 天下は破れば破れよ 世間は滅びば滅びよ 人はともあれ 我が身さえ富貴ならば。

 以上は、これは天下を二分し11年も争われた「応仁の乱」の直後に記された軍記「応仁記」にありますが、当時の人々の心を示す言葉です。

 今はそう言う時代でも機根でもありません。
 東日本大震災の時の被災者の皆様方の、他者を思いやる行動は、世界中に感動を与えました。

 ある国の報道機関は、

 これは本当に強い国の強い国民だけが示せる振る舞いである。

 以上の様に絶賛いたしましたし、災害で家屋ごと流された金庫は、90%以上が持ち主に戻りました。
 更に、これだけの大災害で、一件の暴動も略奪も起こっていません。

 機根が変化した証拠です。

 現実を認めないといけませんね。


応仁記を知っているとは沖浦氏もなかなかの勉強家であるが、しかし、これは文証としては不可である。いわゆる現証の範疇なのだ。ゆえに現証としては可だが、文証としては不可である。

現実を認めないといけない・・・

なるほど、現証としてはいちおう認めることにしよう。では、文証はあるのか、そこが問題だ。

ようするに、大聖人の御書から証拠を出さないといけないのだ。

されば正法には教行証の三つ倶に兼備せり。像法には教行のみ有って証無し。今末法に入っては教のみ有って行証無く在世結縁の者一人も無く、権実の二機悉く失せり。

わたくしは前々回、大聖人の仏法は正像末の三時を基準に論ずる、それが大枠だ、と書いた。文証は数限りなくあるので上掲が適切かどうかはわからないが、いちおう、ここに提示した。

さて、沖浦氏の回答はいかに。

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