2013/7/21

沖浦氏との果てしない議論  
まず、各方面からコメントを頂戴しているが、すべてに行き届かないことをあらかじめご了承願いたい。

浅葱氏よりご挨拶をたまわった。拙ブログは取っ付き難い雰囲気があるのかもしれないが、コメントの投稿そのものはまったくの自由である。ゆえに、何かおっしゃりたいことがあれば、遠慮せずに投稿されるとよい。ただし、わたくしはこのようにきわめてブッキラボウなので、レスポンスをあまり期待してはいけない。

 相撲に勝って勝負に負けた。

さて、沖浦氏である。相撲に勝って勝負に負ける、あるいはその逆の、勝負に勝って相撲に負ける、いずれも大相撲の解説で使われていると思う。
相撲道という言い方がある。単純に言えば、柔道や剣道に合わせたという意味もあるだろうが、より本質的には、相撲は単なる勝ち負けの世界ではない、相撲とはかくあるべき、というような一つの道の追求を意味するのだろう。
沖浦氏には勝てば官軍的な考えがあるのかもしれないが、実はほとんど自爆に近い状態であることに気がつかないといけない。身延は相撲に勝って勝負に負けた。創価学会は勝負に勝って相撲に負けた。相撲道という意味で言えば、創価学会の負けである。

これで沖浦氏への反論は終わったようなものだ。相撲道を仏道に置き換えれば一目瞭然である。

そしてもっとも大事なことは、戸田城聖氏が戒壇本尊本懐論者であることだ。つまり、この部分がもっとも根幹であり、ここで小平氏が負けたのであれば戸田氏の負けであり、すなわち創価学会の負けなのである。

 『宗祖大聖人が、この御本尊も、ただ信心の2字におさまると言われたのである。信心の2字の中にしか、本尊はないんです。本門戒壇、板御本尊、何だ。寛尊は「信心の中にしか本尊はない」と。ただの物です。いちおうの機械です、幸福製造機だから。』
 (第70回本部幹部会H5.9.7)


ひじょうに面白い文証を出してきた。

沖浦氏に要望がある。上掲の出典を教えてほしいのだ。当然、聖教新聞に出ているはずであるが、当該の本部幹部会が平成五年九月七日に行なわれたのであれば、その翌日の新聞だろうか?

http://sudati.iinaa.net/ikeda/wav-mono.html

ところがである。もしかしたら沖浦氏はこのサイトから写し取ったのではあるまいか?

リンク先には仰天スピーチと書かれている。わたくしの想像するに、当時の聖教新聞はこのスピーチをそっくりそのままでは載せなかった。あまりにも過激だからである。それを法華講側がすっぱ抜いたのだ。

いかがだろう。沖浦氏の出してきた文証とは、こういう性質のものなのである。一種の開き直りだろうか?

そこで再度、文証の提示を要求したい。

今度は創価学会側の公式文書としての文証をお願いしたい。聖教新聞やその他もろもろ、創価学会が出版している書籍の中から、文証の提示をお願いしたい。

ちなみに、上掲の池田発言は時期的にひじょうに悩ましい。ようするに宗門との喧嘩が始まってからの発言だからである。当然、相手憎しの意味で、とんでもないことを言い出す、それが喧嘩というものだ。ゆえに、この発言を有効と見るか無効と見るか、わたくしは無効だと思う。ましてや沖浦氏は、池田大作氏を戸田城聖氏の後継者であると強調した上で、くだんの文証を出してきた。この辺がひじょうにイヤラシイところで、あたかも池田氏が戸田氏の遺志を受け継いであのような発言をしたかのように、錯覚させる意図が感じられるところである。

以上で終わりにしようかと思ったが、なんと今朝、再び沖浦氏からコメントが寄せられた。

2013/7/21 6:03
投稿者:沖浦克治
 巌虎さん、おはようございます

>沖浦氏は拙ブログのコメント欄において、それこそ再三再四にわたって戒壇本尊本懐論を否定してきた。いつも決まって言うのは、文証を出してみろ、である。つまり、こちらが文証を出せないことを承知していて、いわばその弱点を突いているわけだ。

 巌虎さんは、興門流で恐らく最初に、戒壇本尊本懐論が、御書に無いことを認めた方ですね。

 貴方はどうして、御書にないことを信じますか?
 出世の本懐が御書に無い道理は無いとおもうのですが?

 私は貴方を責めているのではありません。
 不思議に思えるのでお聞きしております。


弟子分帳をご存知だろう。日興上人は御本尊授与の記録を事細かに残している。もし大聖人においても同様の記録があればいいのだが、残念ながらそれはない。つまり、現存する御真筆御本尊にはその傍証となるべき記録がない。日本全国に御真筆御本尊を所有している寺院がいくつあるか知らないが、そこで聞いてみるがいい。その御本尊は御書に出てきますかと。たぶん、そのほとんどはノーだろう。ゆえに戒壇本尊に文証がなくとも不思議はないのだ。

だが、しかし、沖浦氏は言うだろう、出世の本懐の御本尊なのだから他の御本尊の比ではない、文証があってしかるべきだ、と。

確かに一理はある。一理あるのは認めよう。しかし、ナイモノネダリをしても仕方がない。実際にないのだから仕方がない。そして、他の御本尊においてもその大半は文証がないのだから、戒壇本尊に文証がなくても不思議はない。文証があってしかるべきという意見も相当であるが、しかし、なくても不思議はないのだ。

では、決め手はないのか?

これはやや爆弾発言に近いかもしれないが、最終的には実物を鑑定するしかないだろう。御真筆御本尊が御真筆として認知されているのは、それなりの鑑定結果によるわけだ。すると戒壇本尊も同様のはずである。

しかし、いわゆる秘仏という考え方がある。戒壇本尊は秘仏にてまします。ゆえに鑑定などはもってのほかであると。

これは決して特殊な考え方ではない。

なぜならば他宗の寺院においても秘仏という考え方があって、何年かに一回、御開帳するという秘仏もあれば、絶対の秘仏もある。つまり、絶対の秘仏は永遠に公開されないのだ。

日蓮正宗においては国立戒壇思想を放棄してしまったが、それでも三大秘法抄を否定しているわけではないので、将来的には三国並びに一閻浮提の人たちが拝するようになる。これはある意味、国立戒壇以上の難関が待っているのかもしれない。なぜならば戒壇本尊が国際的・世界的に広く認知されるようになるからで、あるいは世界的な広がりで真贋論争が巻き起こるかもしれないのだ。

さて、この時どうするか、である。

たぶん今の段階で日蓮正宗の僧侶たちはあまり深刻に考えていないと思われるが、もし本気で広宣流布を実現するつもりならば考えておく必要があるだろう。

 貴方はどうして、御書にないことを信じますか?
 出世の本懐が御書に無い道理は無いとおもうのですが?


再掲である。今回はかなり踏み込んで書いたが、それは沖浦氏との議論が面倒臭くなったからだ。つまり、本来は御本尊の真贋を云々するのではなく、出世の本懐とは何かを論ずるのが筋なのである。なぜならば、話は簡単である。戒壇本尊を鑑定したところ、本物であることが判明したとしよう。しかし、ヘソマガリの連中は素直に認めないのだ。今度は戒壇本尊が出世の本懐であるかどうか証明せよという議論を吹っ掛けてくるのだ。ああじゃない、こうじゃない、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う、しょせんはこの繰り返しなのだ。

まったく面倒臭い話である。

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