2013/8/11

更新頻度激減の夏  
ご心配をお掛けしているようなので、ここで久々の更新と参りたい。

まず、このところ更新が滞っていたことの理由について書こう。何だか色々なコメントが寄せられていて、ひじょうに面倒臭い。顕正新聞も溜まりに溜まって手がつけられなくなっている。それから真夏なので、ひじょうに暑い。暑くて頭が働かない。やや多忙でもある。おおむね、こんなところだ。

さて、今日のテーマであるが、やはり流れとしては沖浦氏との議論を継続せねばならないだろう。しかし、膠着状態というか、やや堂々巡りのような雰囲気もあるので、少し違ったところからアプローチしたいと思う。

戒壇の御本尊を本懐中の本懐とする根拠は何ですか?
御本尊と御本尊を比較すると言う事は 詰まる所
御本尊を差別する事にはなりませんか?
熱原の法難は100%弘安2年だと言い切れますか?


上掲は沖浦氏からの質問ではないが、大いに関連があることなので、今日はこれを中心に書くことにする。

戒壇の御本尊を本懐中の本懐とする根拠は?

これは三大秘法抄の次の一節にヒントがある。

三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり。

戒壇本尊は、まさに文字どおり本門戒壇に安置し奉るべき御本尊であるからして、そこには特別の意義が存する。本門戒壇が複数あるならば話は別だが、それが大本門寺の一箇所だけならばそこに懸け奉る御本尊には自ずと特別の意義が存することになる。

戒壇の大御本尊と他の御本尊を比較するのは、他の御本尊を差別することにならないか?

上述のごとく、すでに答えは出ている。いわゆる人種差別などの意味において、差別は好ましくないことであるが、ここではそのような意味を含まない。あえて言い換えるならば、差別ではなく区別だろう。何しろ三国並びに一閻浮提の人々のための御本尊なのだ。いわゆる一閻浮提総与である。一閻浮提総与の大御本尊に特別の意義が存するのは当然である。さりとて他の御真筆御本尊を蔑ろにするものではない。むしろ他の御真筆御本尊に拘泥して戒壇本尊を蔑ろにするような、そういう本末転倒を恐るべきである。

熱原の法難は100%弘安2年だと言い切れますか?

これは質問の意味がわからなかった。熱原法難が弘安二年でないとすると、戒壇本尊の出世の本懐説が崩れるという意味なのかもしれないが、わたくしはここ一連の議論の中で聖人御難事を一度も引用していない。この点に注目すべきだろう。

仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。・・・余は二十七年なり。

戒壇本尊の文証とされる一節である。あまりにも有名な御文なので省略したという意味もあるが、すでに沖浦氏には通用しないことがわかっているので、引用を控えたのだ。

氏のいわく、弘安二年にあらわされた御本尊はたくさんある、よって戒壇本尊が当てはまる確率は百分の一である、と。

すでに述べたごとく、戒壇本尊は本門戒壇安置の御本尊なるがゆえに特別の意義が存する。この論拠は三大秘法抄である。しからば聖人御難事は何を意味するかと言えば、弘安二年に出世の本懐を遂げたことを示唆する意味に他ならない。ここで沖浦氏は百分の一の確率を云々するわけだが、それは違うだろう。弘安二年の御本尊の中で本門戒壇安置に相応しい御本尊は戒壇本尊しかないのだ。もし他に相応しい御本尊があるとすれば、具体的に候補を挙げるべきだろう。

以上、沖浦氏の言うごとく、「余は二十七年なり」を直ちに戒壇本尊に当てはめることは短絡的のソシリを免れないけれども、さりとて百分の一の確率であるとするのも極端過ぎることである。これは明らかに戒壇本尊を否定せんとする意識が過剰に働いた結果と言わざるを得ないだろう。

ちなみに、熱原法難との関係性について私見を申し述べるならば、戒壇本尊は法難を契機にあらわされたとされているが、わたくしは違う意見である。たぶん話は逆なのだ。戒壇本尊の図顕が先である。まず戒壇本尊をあらわさんと大聖人が決意あそばし、さまざまの御準備を始められた。そこに熱原法難が勃発した、という順序である。おそらく日付は別の話であって、弘安二年十月十二日にどれほどの意味があるかわからないけれども、御本尊そのものはそれよりも前にあらわされていたものと考えられる。ご存知のごとく、御本尊もそうだが御書も同様であって、日付が欠落しているものがけっこう存在する。我々の経験上においても、作品の完成日と日付とが一致しない場合が少なくない。こうした観点からして、法難の時期や聖人御難事の日付、そして戒壇本尊の日付に、整合性を持たせようと思っても、それは徒労に近いことである。極論すれば戒壇本尊はすでに弘安元年に完成していたかもしれないのだ。

宗門が絶対にやらないだろうから、しょせんは無意味な話であるが、もし科学的な鑑定を行なったとしたら、弘安元年が一つの候補であり、もう一つは文永十一年ではないかと思う。

10.12 本門戒壇の大御本尊を造立す

平成新編御書の巻末に付された年表の記述である。ここに造立とある以上、最初から板本尊として造立されたわけだろう。ならば熱原法難が勃発して急いで板を用意したなどという、いわばヤッツケ仕事のようなことはあるはずがない。当然、数ヶ月ないし数年前から御準備をあそばしていたはずなのだ。

その候補の一つが弘安元年すなわち一年前であり、もう一つは身延入山の年たる文永十一年である。

以上、しかるべき鑑定を行なえば、偽作論者ならば定めて後年を指し示すものと考えているはずであるが、わたくしは逆に弘安二年よりも早い時期を指し示すはずだと考えているのだ。

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