2013/10/1

未活動は未来の活動家か?  
たくさんの興味深いコメントを頂戴した。まず、沖浦氏の今朝のコメントから片付けよう。

 今、学校教育の現場で体罰が問題となっています。
 私は反対の立場です。
 トレーニングジムを経営し、多くのアスリートを育てていますが、失敗を責めるなら、生徒は工夫をしなくなります。
 工夫は成功より失敗に終わる確率が多いからですね。

 失敗して責められるなら、最初から工夫をしないでおこう。

 人の心理です。
 所が、あらゆるスポーツの技術は、各人の工夫と失敗の上に積み重ねられて向上いたします。
 体罰はこの機会を奪ってしまうのです。


慧眼だと思う。だが、しかし、この続きがいただけない。

 同じく、罰論では人は育ちません。

これは短絡的だろう。ようするに体罰と罰論を同一視して、体罰では人が育たないのと同様に罰論では人は育たないと言っているわけだ。もしこれが事実だとすれば、おそらくは罰論の運用方法を間違えているのだろう。罰論が間違いなのではなく、罰論の使い方を間違えているのだ。

そもそも罰とは自業自得果の辺である。ゆえに体罰とはまったく異なるものなのだ。

いわゆる懲らしめのために仏が下すものを罰とする考え方がある。ゆえに短絡的には仏罰と体罰が相似をなしていると考える人がいるのだろうけれども、上述のごとく自業自得がその本質である。仮に仏罰が懲罰的な意味合いのものだとしても、いわゆる体罰とは決定的に異なる。

その理由は説明するまでもないことだが、体罰は教師が下すものである。その教師もしょせんは凡夫なのだ。ゆえに間違いを犯す。自分の個人的感情で怒りをぶちまけているような、そういう教師も少なくないわけで、仏の大慈悲の御心から下す罰とは天地雲泥の差があるのだ。

ゆえに罰論そのものには問題はない。もし問題があるとすれば、その運用方法に問題があるのだろう。この点は日蓮正宗も顕正会も気をつけねばならない。

 私は創価学会だけが生き残ったと思っています。
 顕正会、正信会、日蓮正宗は衰退すでしょう。
 何故ならば、拡大する時期を逸したからです。


沖浦氏の昨夕のコメントであるが、これは確かに冷静な分析だと思う。物事にはタイミングというものがある。どれほど頑張っても伸びない。それは拡大する時期を逸したからだ。確かにそれは言えることだ。

だが、しかし、この先もずっと同じだとは限らない。

いわゆる中興の祖という言葉がある。顕正会の場合、いわば浅井先生が教祖である。もっぱら先生がいなくなればオシマイだという見方が強いわけだが、もしかしたら数十年後ないし数百年後に中興の祖が出現して大発展するかもしれないのだ。こればかりはわからない。凡夫には未来のことはわからない。ゆえに沖浦氏の主張も相当であるが、それが必ずしも絶対的であるとは言えないのだ。

 折伏誓願だの、そんなの気にせずマイペースでやること。これが1番ですね。

今のユタ氏は肩の力が抜けていて、思っていることをそのままストレートに言えるらしい。羨ましい限りだ。

たぶん、顕正会の中で上掲のようなことを口にすれば、袋叩きに遭うだろう。もしかしたら法華講の中でも同様かもしれない。

 大丈夫。正しい信仰をしていれば、自ずと仏縁のある人が目の前に現れますよ。そういう人を救って行けばいいんです。

この部分は正論だろう。ノルマに追われてする折伏よりも遥かに価値が高いはずだ。もっとも仏縁のある人が現われなかったらどうするのか、それが問題であるが・・・

人類が滅亡する頃 科学は進歩していて他の星へ移動出来る・・・

深遠なテーマだ。

わたくしはこうしたテーマについてあまり考えたことがない。何となく現実離れしていて考える気になれないのだ。

だが、しかし、わりと身近な話題として環境問題があり、その関連から他の天体への移住を考えざるを得ないような場面もあり得るかもしれないとは思う。
たとえば今夏は猛暑だった。四国のどこぞで観測史上の最高気温が更新されたという。もしこのままどんどん暑くなっていったならば、もはや地球には住めなくなるのではないかと言われたりもする。いわゆる地球温暖化だ。
あるいは放射能で住めなくなる。現に福島の浜通りは相当の地域が居住不能となっているわけで、もし地球規模で深刻な放射能汚染が起これば大変なことになる。

そういう意味で、他の天体への移住を考えざるを得ない事態が起こり得ることは、否定できない。

しかし、さしあたって言えることは、現時点では移動手段がないこと、そしてもし仮に技術の進歩によって移動が可能になるとしても、逆にその頃には同じく環境を浄化する技術が格段に進歩しているだろうこと、であれば移住する必要がなくなることが考えられるのだ。

問題は地球が壊れる時である。

しょせん凡夫は自分を中心とした狭い範囲でしか物を考えない。いわゆる生老病死にしても、自分とその家族・友人などといった狭い範囲しか見ていないのだ。

そんなわけでニーズの問題からか、御書を拝していても地球が壊れる時にはどうしたらよいのか、それがどこにも説かれていないようなのだ。
いわゆる壊劫という言葉があって、御書の各所に出てくる。これは文字どおり、地球が壊れるようなニュアンスだと考えられるが、しかし、さらりと出てくるだけであって、あまり詳しくは説かれていないのだ。
やはりニーズの問題だろう。当時の人々にとっては目前の三災七難が重大問題なのであって、ずっと先の壊劫の時のことなど、心配する余裕すらなかったのだ。

しょせん現代人も同じであって、目前の経済苦や病苦、あるいは人間関係の悩みなど、こういうことのほうが重要なのである。

いや、もちろん、心に余裕がある人が思索を重ねることは大いに結構なことである。人間は考える生き物である。もし地球が壊れる時にも人類が存するとしたら、その瞬間、人々は何を思い何を考えるだろうか?

確かに興味深いテーマである。

 今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。

わたくしの教学上の関心から言えば、この御文が重要な意味を持ってくる。しかし、難し過ぎてさっぱりわからない。おそらくは死ぬまでわからないだろう。

2013/9/29 16:07
投稿者:諸般の事情通
未活動っておかしいね。非と未の違いわからないかな。昔は活動したけど今は未活動?


なるほど、これは鋭いツッコミだ。

未活動はもともと創価学会で使っている用語である。それを顕正会がパクッたわけであるが、考えてみればあまり適切ではないようである。浅井先生は退転者という表現を適切ではないとして未活動を採用した。しかし、上掲の指摘を受けてみると、俄かに失敗だったような気がするのも事実だ。

ただし、顕正会には百万人以上の未活動者がいるので、このまま使い続けてもさしたる不都合はなさそうである。

すなわち入信報告書を書いて、一回きり勤行をしただけの名ばかりの会員がたくさんいる。この人たちは一度たりも活動していないので、文字どおりの未活動である。そこで、かつて熱心に活動していたが今は活動していないという人は厳密に言えば違うのだろうけれども、何しろ百万人以上もの未活動が存在するのだから、それらをジッパヒトカラゲにして未活動と言ってしまってもそれほど困らないのではないかと思う。

ともかく公称数と実数の乖離が著しい組織である。そこで改めて整理すると、おおむね次のごとくなるのではないかと思う。

・現役活動会員
・元活動会員
・未活動会員

現役活動会員はおよそ数万人。五万前後だろうか? 十万足らずであることは間違いない。

未活動会員は百万人以上と書いた。

では、元活動会員は何人くらいだろうか?

二十万? 三十万? あるいは五十万?

わたくしはあくまで当てずっぽうを書いているに過ぎない。まったくデータがないのだ。ゆえに、元活動会員はせいぜい十万人だろう、と言う人もいるかもしれない。

しかし、それはあんまりだ。

ようするに現役が十万足らずで元が十万だとすると、残りの百四十万以上が未活動会員、より正確に言えば入信勤行を済ませただけの名ばかりの会員、いわゆる幽霊会員となるのだ。百六十万人中の百四十万人が幽霊会員の組織って、いったい何なんだ、ということになる。

それはあんまりだ。

そうは言っても、これがいちばん真相に近いのかもしれない。悲しい現実だが・・・

そして今日のタイトルのごとく、この人たちが一人残らず未来の活動家になることを期待して掘り起こし作業を行なっている、それが現役活動会員たちである。

トラックバックURL

トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ