2005/6/30

折伏の定義  
摂折論争というのがあって、大聖人の御化導は折伏ではなく摂受であると主張する人がいる。
いわく、折伏というのは謗法者を断命する行為である、大聖人が謗法者を断命したという記録はない、よって大聖人の振る舞いを折伏とはいえない、と。

これは面白い議論である。従来、大聖人=折伏というイメージがあり、また、創価学会の折伏大行進や顕正会の折伏活動も、それが大聖人の御意にかなうものと思って、布教活動に邁進してきたわけである。
これらのことをすべて根底からひっくり返すような驚くべき議論である。

前にも書いたとおり、現実には折伏だろうと摂受だろうと大して差はないように思う。今日、仮に摂受を基本とするにしても、結局のところ熱心に布教活動を展開すれば世間の反発を受けることは同じだろうと思うのである。

それにしても折伏の定義であるが、経文に忠実たらんとすると、謗法者に対してはいわゆるポアをしなければならない、ということになるらしいのである。
皮肉な話、顕正会では毎月、折伏誓願をたてて、月末には折伏成果を発表している、例えば○月度折伏成果の総合計は一万五千名に達しましたパチパチパチ(大拍手)・・・とかいって、本当に一万五千人もポアしたら大事件になる。
百万達成もポアのことだったら歴史的大事件である。
やや皮肉が過ぎただろうか?

2005/6/29

法論について総括的に書くと・・・  
今回の法論はぜひとも実現してほしかった。
わたくしはふたつの意味でそのように思っている。
まず、浅井先生の行動原理とされているものに、今ここに大聖人ましませば何を命じ給うか? というものがある。それを信心の耳で聞き奉って行動を起こす。後はすべて大聖人に任せ奉る、後は野となれ山となれ、といったら語弊がありすぎるか?
ようするに、顕正会は広宣流布に必要なのかどうか? もし必要でなければ、ひとおもいに潰してほしい、という誓願(?)を先生は持っている。というか、そういう気性の人物だと見るべきで、今回の解散を条件とした法論もそのあらわれだとわたくしは思う。
この意味では、ぜひとも日顕上人の御慈悲をもって浅井を一刀両断に処していただきたかった。
もうひとつの意味は、きわめて俗な考えであるが、浅井ごときになめられたらあかん、ということである。どの世界でもあることだろうが、若手の活きのいいのが入ってくる、生意気である、先輩を立てるということを知らない、・・・こういう野郎はガツンと一発かましてやらなければダメなのだ。もしそれができないならば、そこの先輩連中はだらしがない、ということになる。また、その若手は単に生意気なのではなく、本物の実力を備えた人物だということになる。
もっとも、スポーツの世界ならわりと明瞭なのであるが、それ以外の世界ではなかなか本質が見えてこないことも事実であって、ゆえにおのおのが見識を持って正しい判断をしていかざるを得ないのだろう。
とりわけ宗教の世界では正しい判断が難しいのである。

2005/6/28

正宗寺院への諌暁書配布は禁止する旨の内部通達  
いちばん最初に、このブログの方向性について、「定かではない」と書いた。

ここまでご覧になった方は、あるいはわたくしの記述に分裂症状を感じられるかもしれない。まあ、自分でもそうかもしれないとは思っている。ただ、あくまで客観的な視野で書いているつもりであるから、当然、顕正会べったりではないし、その逆でもない。個々の問題で是もあれば否もあるというだけの話である。

さて、諫暁書が出来してからすでに一年が過ぎた。
初めの頃、活動報告でちらほら見られたのが、正宗寺院への配布活動だった。ところが途中から、まったくその手の報告がなくなった。正宗寺院はおよそ六百あるというから、話のタネは尽きないだろう、次から次へと勇ましい活動報告が総幹部会でなされるものと期待していたのだが、どうやら正宗寺院や学会施設への配布はしないようにとの内部通達があったようなのである。
そうこうしている内に、あの幹部大会からの一連の宗門攻撃が始まったわけである。
どうもこの辺がチグハグに思えるのだが、法華講側ではすべて答えがわかっちゃっているようである。これ以上の説明は蛇足であろう。

結論だけ記せば、

今のスタンスからすれば、昭和四十年代の戦いでも、ただひたすら大聖人に任せ奉るべきであって、文書配布などすべきではなかったことになるまいか?

ということになる。

2005/6/27

白兵戦  
先生の著作に出てくる言葉である。

正確な意味はわからないが、先生の言わんとするところは、始めは先生ひとりの戦いだったけど、もはや妙信講員にも出動を要請せざるを得ないと判断し、正宗寺院などに講員を派遣し、いわゆる文書配布の活動をせしめた、その様子がまさに敵地(?)に乗り込んでの戦いであり、学会員・法華講員と妙信講員とが混沌と入り混じった様相を白兵戦と表現したものであろう。

おそらくあの当時の妙信講から見れば、今日の顕正会は遥かに兵力が充実していると思われる。
ただ、ここでいう兵力は単なる頭数であり、内容を伴わない。
つまり、数は増えたけど、兵員ひとりひとりの能力が格段に落ちてしまっているのだろう。

今回の法論実現不能を見るとき、もはや道理の通る段階は過ぎたのであり、いよいよ白兵戦の時を迎えたというべきなのである。
ところが現場の顕正会員は甚だ及び腰である。

この逆転現象をどのように考えるべきであろうか?

2005/6/26

もともと拳銃には弾が一発しか入っていない  
こういう理屈はあると思う。

ようするに大将ひとりを仕留めるだけしか用意がない。その一発を使ってしまうと後がない。つまらん相手にぶっ放すわけにはいかない・・・という理屈である。

しかし、宗門では法論する気がない。事実上、法論は不可能である。そうすると、どうなるのか?

まさか先生は、弾を打たずに終わらせるつもりであろうか?

どうせなら、大草講頭に一発お見舞いしてあげたらどうかと思う。

2005/6/25

破邪顕正の精神  
そういえば、先生は共産党にも対決を申し入れたことがあるという。
また、本門正宗の小野寺某とも法論をする予定があって、先方が逃げたということになっている。
それから、これは話に聞いただけであるが、親鸞会とも法論の直前まで行ったことがあるらしい。

けっこうすごいことだと思う。教学力の裏付けとなるし、何より護法の精神は賞賛さるべきものであろう。

こうして見ると、大草講頭との法論を回避する理由がわからない。
賭宗の条件が受け入れられないからか?
けれども、その昔、創価学会との間で、公表しない条件での話し合いが何回も持たれたのではなかったか?
それらは現在すべて公表されている。というか、先生の主張するところの御遺命守護の戦いは、先生によって繰り返し公表されているわけである。

で、重要なことは、この先生の著作によって御遺命の正義に目覚め、学会・法華講から顕正会の戦いにはせ参じてくるものが後を絶たない、ということなのである。であれば、賭宗などと言わずとも、法論を実現させるだけでも相当の効果が期待できるのではないだろうか?

結局、大草氏との法論を回避しているのは逆効果になると踏んでいるからだろう。
それはなぜであろうか?
明らかに負け戦なのか?

2005/6/24

臨時時局懇談会  
浅井先生の教学力は宗門でいちばん・・・みたいなことが顕正会の中ではよくいわれている。
本当かどうかはわからない。
ただし、臨時時局懇談会のようすからして、これはものすごい教学力である、と思う。

日達上人の御説法に対して、反論を加えて、上人を黙らせてしまった。

これはもちろん先生の著作からうかがうところであって、わたくしは他の意見を知らない。当時の日蓮正宗御僧侶約一千名と創価学会・法華講などの代表が何名いたか知らないが、ともかくおおぜいの目撃するところだったはずなのである。なぜに反対意見が出てこないのであろうか?

正直に書くと、わたくしは先生の言うことにも懐疑的である。
正本堂関連、国立戒壇関連であるとはいえ、当日、日達上人がどのような御説法をするものか、その詳細まではわかりようもないだろう。それに対して、あのような理路整然たる反論を、しかも御僧侶方おおぜいが注視しているなかで、はたしてできるものだろうか?
つまり、本を書く段階でずいぶんと脚色しているのではないのか、という気がするわけである。

現場に居た人の目撃証言が待たれるところである。

2005/6/23

妙信講作戦  
浅井先生の著作に必ず掲載されているのが妙信講作戦であるが、このメンバー表に出てくる「阿部」は日顕上人であると先生は断定している。

これについて宗門側ではどのように反論しているのであろうか?

阿部という姓名はめずらしいものではない。当時の創価学会は八百万人を豪語していたわけだから、その中に阿部姓の会員がいてもおかしくはない。ただ、あの妙信講作戦に名前を連ねているのはそうそうたる大幹部ばかりである。はたして学会幹部の中に該当する「阿部」がいるものかどうかと考えると、どうやらいそうもないのである。
また、現在の状況からすれば、創価学会が日顕上人をかばう必然性はないわけであり、学会側から、あの「阿部」は日顕上人であるという証言が出ないとも限らない。

それはさておき、この妙信講作戦というのは、作戦そのものではない。
いちばん不自然に思えるのは表題のすぐわきに、(S47.3〜S52.5)と記されていることである。まさか、作戦開始の時点で終了予定を決めていたわけではあるまい。普通に考えれば、これは事後報告的な文書である。つまり、昭和五十二年五月の時点で作戦を終了ないし打ち切らざるを得ない事情が出来して、その後に記録されたものだと考えるのが自然であろう。
ただ、あれだけ細かい記録を記憶だけで書けるものではないだろうから、元の資料が存在するのかもしれない。作戦にしても、もっと具体的なことが記されたものがあるかもしれない。

もしそれらの資料が存在するとして、いずれは陽の目を見るのであろうか?

2005/6/22

先生もお年を召された  
わたくしは現在、顕正会の活動には参加していない。
自宅で勤行をし、御書(大石寺版)を拝読し、あとはインターネットで情報収集しているのみである。

またしても某掲示板からの情報であるが、いわく「最近の先生は表情がさえない」(取意)と。
彼は顕正新聞の写真を見て、先生の顔色が悪いことを指摘しているのである。

確かに、そのように見える。

仮に自分が顕正新聞を編集する立場であれば、いやいや、誰でも同じであろうが、ともかくいちばんいい写真を載せるはずなのである。

やはりそうすると、某掲示板での指摘は単なるヒガメというものではないのだろう。
悲しいけど、先生も年を取ったのである。
いや、そういう問題ではなく、後頭部に砂が詰まっている状態なのかもしれない。

2005/6/21

二度目の訂正文  
聖教新聞に和泉理事長談話として掲載されたものを、顕正会では訂正文と理解している。
すなわち第一回目がいわゆる確認書。そして二度目がこの理事長談話。創価学会は妙信講の指摘を受けて二度にわたって訂正している、というように教わってきた。

ところがこの二度目には裏がある。浅井先生は絶対に口にしないが、二度目の法論でも御報告と題する文書が作成されていた、ということらしいのである。

このことは創価学会員のサイトでも法華講員のサイトでもいわれていることである。
その文面まで紹介されている。

ただし、わたくしは今のところ、その原本を見ていない。
はたして学会員・法華講員ともに、その原本写真を見ているのだろうか? ひょっとしたら、何かの丸写しではあるまいか?
このあたりに疑問がある。

こうして見ると、浅井先生の著作というのは確実な資料のみを掲載していることがわかる。そもそも第一回目の御報告にしても、もともとは日達上人に奉った文書であって、写真など存在するわけがなかったのだ。同じく二回目の御報告にしても公表しない前提で作られたものであれば、写真は存在しないだろう。しかし、すでにネット上でかくも盛大に顕正会破折の資料として用いられている以上は、原本の写真がどこぞにあってもおかしくない。

実際はどうなのだろうか?


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