2005/9/11

偉そうな文体を書き続けるわたくしの正体  
前に真偽問題の難しさというのを書いた。

日達上人は法華本門宗要抄を真書として扱っている云々と。

ところがトチロ〜氏のサイトに載る上人の御説法では、はっきり「大聖人の御書ではありません」とおっしゃっている。

これはどういうことだろう?

ちなみに真書としての御指南は
http://www.butujoji.jp/houwa/houwa170207.html
これである。

また、法太郎氏の運営するサイトでは、該当する御指南の御説法全文を掲載しているが、途中にいくつか注意書きが挿入されている。
そして問題の箇所については、

法華本門宗要抄は古来から偽書とされている。この書は日目上人の時代前後に製作されたと考えられているが、最も早く偽書と考察したのは北山を出てから西山の開山となった日代師である。だが、御書としては偽書であっても当時の時代の香りを残した『史学資料』としては、第一級のものであることは論を待たない。そのうえからの達師の御指南であるので注意を要する。(編者記)

としている点、さすがは法太郎氏である。

なぜに日達上人の御指南に自語相違があるのか不明だが、いずれにしても今日的には佛乗寺さんの引用はやや不適切なのかもしれない。

それにしてもわたくし自身、妙信講問題を背景とした御説法であるにもかかわらず、トチロ〜氏のサイトを閲覧するまでは知らなかったのである。
偉そうなことを書いているわりには何も知らない、というのがわたくしの正体である。

2005/9/10

法門ビデオならぬ訪問ビデオ  
妙観講の訪問ビデオを見て気になったのは、例えば顕正会員もよく知るところの正木正明氏などは住所までもデカデカと映されてしまっている。プライバシーの問題はどうなっているのだろうか?
十年以上前の映像だから、おそらくすでに引っ越してしまって、そこにはもう住んでいないのだろうと思われる。それゆえに公開に踏み切ったということなのかもしれない。
そのあたりの法律的なことはよく知らないが、そもそも家の中から当人が出てくるのを玄関先でビデオを持って待ち構えているというのは、はなはだ失礼千万な行為ではないだろうか?
法義以前にそのことを断固として指摘すべきだった。
だが、それはヤブヘビなのかもしれない。家の奥にさっさと引っ込んでしまうとか、すぐに警察を呼ぶなり、そのふりをするのが賢明なのかもしれない。

誰だって、いきなり訪問されたら困るものである。ましてや、法論だなどといわれても、それ相応の準備がなければできないだろう。その意味で考えると、いきなり訪問されて、はいはい、どうぞお上がりください、という人は滅多にいないだろう。

ビデオの中でも、創価学会員が妙観講員宅にいきなり訪問してきて困っている意味のことが述べられていたと思うが、おそらく創価学会側が同様のビデオを作れば今度は妙観講員がうろたえている様子のビデオになるのではないかと思う。
いつだったか、創価新報を見る機会があったけど、その記事では、学会男子部長が大草講頭の意表をついていきなり現れた、すると講頭は大いに狼狽した、というようなことが書かれていた。自分の記憶に間違いがなければ、創価新報のいずれの号かにそれが載っているはずである。

さらに対論ビデオについて書けば、ずいぶんとおうへいな口の利き方をする学生部員がいて、これがどうやら宗祖御遷化記録を知らない様子だった、ということを指摘していたけれども、まあ、顕正会員よりはマシであろう。
問題はこの先にある。彼はまだ若かった。ゆえに未熟だった。だが、今も創価学会に在籍していれば、立派な幹部になっていることだろう。あの頃よりもはるかにバージョンアップしているのだ。

浅井先生が泥沼の抗争だと評するのはこれなのである。

学会の宗門誹謗は今後さらにエスカレートして止むことを知らないだろう。

もっとも顕正会だって、今では泥沼に片足を突っ込んでしまったようなものであり、今後エスカレートすれば両足を突っ込むことになりかねないのだが・・・

2005/9/9

ビデオ三本視聴  
法華ちゃんねるにアップされたビデオを視聴した。

池田氏がダジャレを言いまくるビデオと、妙観講員が学会幹部宅を訪問するビデオと、それから各地での対論を集めたもの。

続けて三本も見てしまったので頭が混乱しているが、とりいそぎ簡単に感想を書いておこう。

池田氏の言動はなかなか面白かった。
こういうキャラクターもありかな? ということは言えるだろう。池田氏も最初からこうだったわけではあるまい。キャリアの長い人だし、途中でいろいろあったから、それらを詳細に検証していかなければ読み解けないことだと思う。ゆえに、ビデオのナレーションをそのまま受け取るわけにはいかないと思う。

妙観講員が学会幹部宅を訪問するシーンを見て思ったのは、大幹部でも意外に質素な生活をしていることである。
もちろん、ビデオだけではわからないことだが、住んでいる家のようすが如何にも質素に見える。言葉を選ばずに言えば、貧乏に見えるのである。古参幹部の家が古ぼけているのはいいにしても、如何にも安アパートと思われるようなところに住んでいる大幹部・・・といってもわたくしは学会の内情を知らないのでどの程度の幹部だか知らないが、ともかく意外な感じがしたものである。
もっとも職業幹部がいい家に住んでいると会員からねたまれる可能性がある。ゆえに質素にしているとも考えられる。

三本目の対論ビデオは樋田ビデオに似ている。というか、時系列では樋田ビデオがこれに似ているのだろう。

2005/9/8

月餅法太郎問答は泥仕合か?  
巌虎独白を書き始めてからはずっと引きこもり状態で、よその掲示板などにはまったく投稿しておらなかったけれども、昨日、久しぶりに書き込みを行った。

しかし、無視されてしまったようである。

まあ、それはそれでよい。

そもそも「文は借りるけど義は削り捨てる」というのは、止観についての仰せである。それをただちに大聖人の御書に当てはめる前に、次の御文が優先されるべきなのである。

「当世の念仏は法華経を国に失う念仏なり。設ひぜんたりとも、義分あたれりというとも、先づ名をいむべし。」
「愚者は智者の念仏を申し給ふをみては念仏者とぞ見候らん。法華経の行者とはよも候はじ。」

「名を忌む」ということは文すら借りないということだろう。
月餅氏はごちゃごちゃとたくさん書いているけど、この辺の詰めが甘いという気がしないでもない。

また、伝教大師は中国より天台宗と真言宗を渡した、けれども真言宗の名前は削り捨てた、ということが諸御書に説かれている。
これは言い換えれば、名前は削り捨てたけど中身は残しているということだろう。
この点は、法太郎氏の言わんとする「踏襲」の意味を多分に含んでいるとも思われる。

ただし、先ず名前を忌むべし、であるからして、やたらと顕説すべきことではないのである。

単純化すれば、これだけのことだと思うのだが・・・

2005/9/7

月餅法太郎問答のゆくえ  
少し前に、
「議論を詳細に分析すれば、おそらく双方の認識にそれほど差はないのだろうと思う。ただ創価学会対宗門という構図の中では、安易に相手の意見に同調するわけにはいかないのだろう。それで、ああでもない、こうでもない、ということになるのだと思われる。」
と書いた。

月餅氏が繰り返し引用するのは、十章抄の次のくだりである。

「止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり。爾前の経々をひき、乃至外典を用ひて候も爾前・外道の心にはあらず。文をばかれども義をばけづりすてたるなり。」

一方、法太郎氏は当体義抄の、

「文は他経に有りと雖も、下文顕はれ已はれば通じて引用することを得るなり。」

をよく引用する。

十章抄の「文をばかれども義をばけづりすてたるなり」とはどういう意味であろうか?
文を借りたということは、いずれは返すのだろうか? 人から借りたものを削ったり、捨てたりしたらマズイのではなかろうか?

このように書くと、オマエは大聖人にケチをつけるのか、というようなお叱りを受けることになりそうだが、わたくしはここで言葉の意味を確認しているのである。
つまり、ここで仰せの「借りる」ということは「引用する」の意味に他ならない。

では、文は引用するが義は削り捨てる・・・とはどういう意味か?

いちばん簡略な説明は、華厳経を引用したとしても華厳経第一ではない、ということだと思う。「心仏及衆生是三無差別」の文は引用するけど「心仏及衆生是三無差別」の義は削り捨てる、ということではわけがわからない。であるから、華厳経の文を引用したとしても華厳経第一の義を認めるわけではない、という拝し方のほうがわかりやすいと思う。

当体義抄の「下文顕はれ已はれば通じて引用することを得るなり。」とは、どういう意味か?

「下文」という意味がわからない。
ただし、文脈上はこういうことだろう、すなわち、法華最勝の義が顕はれ已はった後には他経(さらには外道の経書)を引用してもかまわない、と。

十章抄では、法華最勝の前提の上で他経を引用するわけだから他経に「この経は第一である」と書かれていてもその義は削り捨てる。
当体義抄では、法華最勝が宣示顕説された上であれば、他経の文も通じて引用できる。

こうしてみれば、二つの御文は同趣旨の仰せであることがわかる。

それなのに、対立関係にあると何でもかんでも反対してやろうという心理が働いて、同意できる部分があっても容易に同意しないで、ああでもないこうでもないを繰り返している。これは今回の法論に限ったことではない。わたくしはつねづね何とかならないものかと思案しているが、何ともならないもののようである。

2005/9/6

凡夫には先が見えない。  
昨日、「月餅氏は〜日蓮正宗の教義に基づいて論じている」と書いた。しかし、法華講員に叱られるといけないので少し言葉を足しておく。

あくまで、比較的に、である。宿坊氏と比較してみれば、明らかに差があると思う。まあ、しかし、月餅氏も現猊下を悪く言う点では変わらない。

浅井先生の叱呵痴犬抄もまた、純正なる日蓮正宗の教義に基づいて論じている。例の樋田ビデオでは血脈相承の問題でこれを引き、浅井先生の自語相違を責めている。
叱呵痴犬抄はもうかれこれ二十年前に書かれたものであるが、まさにこの間にいわゆる異流儀化ないし邪教化が進んでしまったとも言い得るかもしれない。

創価学会にも顕正会にも共通しているのは、現時点でもなお、日蓮正宗の純正教義に基づく部分も存することである。それは当たり前ではある。日蓮正宗から派生したのだから。
しかし、時間とともに変化していく。いずれはまったく異質のものとなる。そのさきがけを担っているのが宿坊氏なのであろう。

顕正会では先生が率先している。

その意味では顕正会も、まさに今が過渡期なのであろう。いずれは叱呵痴犬抄すら読んだことのない幹部ばかりになる。もう、そうなってしまえば、完全に異質である。

時代の渦中にいる者には見えていないこと、気がつかないことがたくさんある。自分だって二十年の歳月を経て、ようやく最近になって少しばかり見えてきた程度である。

教義に詳しいとかの問題ではなく、今さかんに日蓮正宗攻撃をしている者には、やはり見えていないことがあると思う。そしてそれに気がつくのは、ずうっと後のことなのであろう。

2005/9/5

双頭の蛇  
月餅氏と宿坊氏。
すべての情報を掌握しているわけではないが、おそらくこの二人がネット上における学会系論客の二大巨頭と思われる。

月餅氏はこのところ、法華講の法太郎氏とやりあっていた。
宿坊氏はここ数日、Kane氏の掲示板で暴れている。

しかし、この学会系の二氏は、ずいぶんとスタンスが違うようである。

宿坊氏は、もはや日蓮正宗の教義を完全否定するかのような過激な言動を繰り返している。
ところが月餅氏のほうは、法太郎氏との問答でも明らかなように、一部の御相伝書に疑義を呈してはいるものの、全体としては日蓮正宗の教義に基づいて論じている。以前、どこかの掲示板で自ら、「真偽問題には立ち入らない」という意味を表明していたこともある。

この差はなんだろう?

客観的には脱日蓮正宗の過渡期にあるとでも評するべきかもしれないが、教義の根本部分であるからして、すんなりとは行くまい。明らかに過去との不整合が残るし、現時点で古い学会員の中には動執生疑を起こしている者がいるとも聞く。
ネット上では、よしりん氏などがその典型であろう。

逆に言うと、宿坊氏のようなスタンスはどこから由来するのであろうか、という疑問もある。自分の信念なのか、それとも学会上層部の依頼を受けてのことか、この辺がわからない。

いずれにしても、過渡期とは言うものの、その期間はべらぼうに長いに違いない。いわゆる両義併存の不安定な状態が長く続くものと思われる。

2005/9/4

明治は遠くなりにけり  
どなたの言葉だかよく存じ上げないが、明治は遠くなりにけり、というフレーズがある。

ふと思ったのは、御遺命守護の戦いは遠くなりにけり、ということである。

今現在、ネット上で活躍している人の大半は、顕正会を批判する側にしても批判される側にしても、あの時代をじかに経験しているわけではないと思う。まだ生まれてすらいなかった人も少なくないだろう。
そういう世代の人たちが浅井先生の御遺命守護の戦いを云々しているのである。
先生の立場から見れば、何も知らない若造が何を言うか、という思いにもなるに違いない。
だからといって、わたくしは、こうした若者たちの言論を封殺するつもりはない。というか、わたくし自身も御遺命守護の戦いをじかには知らないのであるから、五十歩百歩なのである。

浅井先生は凡夫である。

先生は、わたくしよりも遥かに人生経験が長く、教学にすぐれ、世間的な見識もあって、立派である。しかし、先生は凡夫である。
なぜならば、さすがに今日のような時代は想像すらできなかったと思うのである。
先生いわく、インターネットは便所の落書きである、と。
確かに、何もわかってないような若者が言いたい放題できる、無責任な世界である。しかし、そうは言っても、もはやそれを止める手立てはない。

すでにネット慣れしている人たちはよくわかっている、この世界が玉石混淆であることを。
であるから、ひとつの情報を鵜呑みにせず、反対意見の書かれているサイトなどもよく参考にした上で、自分なりの判断を下すわけである。こうした習慣が身に付いている者の意見であれば、たとえ若輩たりといえども、その当事者でなくとも、決してあなどることはできないと思う。

むしろ、先生に間違いはない、先生は絶対である、先生の指さされるまま、みたいなことはナンセンスと言われても致し方がないであろう。

2005/9/3

「けんきゅう余話」について  
ひじょうに愉快である。

かつて富士宮ボーイ掲示板に、短期間であるが投稿していたことがある。なんとそれはちょうど一年前の今頃のことなのである。そこでは創価学会員の方々と議論をしていたわけであるが、そのひとりに月餅氏がいた。

「けんきゅう余話」はその一連の投稿のひとつである。
文章の中に「大聖人は華厳経の文義を借りた」だの「天台の玄義・止観等を踏襲した」とあることが注目される。
今の月餅法太郎問答とは内容的に異なるけれども、なんとなく輪郭が似ているような気がする。

もう一度、議論のやりとりを読み返してみたいところだが、残念ながら自分の下書きはあっても、対論者の文章までは保存していない。
掲示板のほうに記録が残っていればいいのだが・・・

2005/9/3

恥ずかしながら転載  
けんきゅう余話

「久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経と、我等衆生との三つ全く差別無し」(生死一大事血脈抄)について、これは華厳経の「心仏及衆生是三無差別」と似ているので、大聖人はこの文義を借りたことになるのではないか? ということを書いた。しかし、それは直接的にではなかった。
「妙法の二字は玄義の心は百界千如・心仏衆生の法門なり。止観十巻の心は一念三千・百界千如・三千世間・心仏衆生三無差別と立て給ふ。」(唱法華題目抄)
大聖人は華厳経の文義を借りたのではなく、あくまで天台の玄義・止観等を踏襲したわけである。
日興上人の富士一跡門徒存知事には、唱題目抄一巻を指して「此の書は最初の御書なり、文応年中常途の天台宗の義分を以て且く爾前と法華の相違を註し給へり、仍って文言義理共に爾なり。」との仰せがある。具体的にはどこが「常途の天台宗の義分」に当たるのか、ここには詳細が明かされていないけれども、おそらく上に引用させていただいた部分などが含まれてくるだろうと思う。

そうすると、生死一大事血脈抄の当該御文は、相当に天台づりの御法門といわざるを得ないのではないか?
また、対告衆の最蓮房は天台の学僧だったといわれるが、どうやらそれは御書の法門内容から類推されたごとくである。
してみると、これまた、一連の最蓮房御書は相当に天台づり、換言すれば最蓮房あての御指南には為人悉檀の気味がある、ということになりはしないだろうか?
であれば、これをそのまま大聖人本懐の御法門とするのは危険である。
最近おぼえた言葉でいうと、台当一致ということになる。

この問題をクリアするすべはあんがい簡単のように思う。
すでに外野手さんがお示しのごとく、再往・元意において「久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経」は日蓮大聖人と御本尊のことである、とするのが我々共通の認識である。この拝し方においては、もはや台当一致などとはとうていいえまい。逆にいうと、台当一致の論難を免かれるのは、唯一この地点のみである。
わたくしの知る範囲では、このような拝し方は元来、日蓮正宗をおいて他には存在しない。

これをもってこれを思うに、日蓮正宗とはまことにありがたい御宗門であられる。


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