2005/9/3

「けんきゅう余話」について  
ひじょうに愉快である。

かつて富士宮ボーイ掲示板に、短期間であるが投稿していたことがある。なんとそれはちょうど一年前の今頃のことなのである。そこでは創価学会員の方々と議論をしていたわけであるが、そのひとりに月餅氏がいた。

「けんきゅう余話」はその一連の投稿のひとつである。
文章の中に「大聖人は華厳経の文義を借りた」だの「天台の玄義・止観等を踏襲した」とあることが注目される。
今の月餅法太郎問答とは内容的に異なるけれども、なんとなく輪郭が似ているような気がする。

もう一度、議論のやりとりを読み返してみたいところだが、残念ながら自分の下書きはあっても、対論者の文章までは保存していない。
掲示板のほうに記録が残っていればいいのだが・・・

2005/9/3

恥ずかしながら転載  
けんきゅう余話

「久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経と、我等衆生との三つ全く差別無し」(生死一大事血脈抄)について、これは華厳経の「心仏及衆生是三無差別」と似ているので、大聖人はこの文義を借りたことになるのではないか? ということを書いた。しかし、それは直接的にではなかった。
「妙法の二字は玄義の心は百界千如・心仏衆生の法門なり。止観十巻の心は一念三千・百界千如・三千世間・心仏衆生三無差別と立て給ふ。」(唱法華題目抄)
大聖人は華厳経の文義を借りたのではなく、あくまで天台の玄義・止観等を踏襲したわけである。
日興上人の富士一跡門徒存知事には、唱題目抄一巻を指して「此の書は最初の御書なり、文応年中常途の天台宗の義分を以て且く爾前と法華の相違を註し給へり、仍って文言義理共に爾なり。」との仰せがある。具体的にはどこが「常途の天台宗の義分」に当たるのか、ここには詳細が明かされていないけれども、おそらく上に引用させていただいた部分などが含まれてくるだろうと思う。

そうすると、生死一大事血脈抄の当該御文は、相当に天台づりの御法門といわざるを得ないのではないか?
また、対告衆の最蓮房は天台の学僧だったといわれるが、どうやらそれは御書の法門内容から類推されたごとくである。
してみると、これまた、一連の最蓮房御書は相当に天台づり、換言すれば最蓮房あての御指南には為人悉檀の気味がある、ということになりはしないだろうか?
であれば、これをそのまま大聖人本懐の御法門とするのは危険である。
最近おぼえた言葉でいうと、台当一致ということになる。

この問題をクリアするすべはあんがい簡単のように思う。
すでに外野手さんがお示しのごとく、再往・元意において「久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経」は日蓮大聖人と御本尊のことである、とするのが我々共通の認識である。この拝し方においては、もはや台当一致などとはとうていいえまい。逆にいうと、台当一致の論難を免かれるのは、唯一この地点のみである。
わたくしの知る範囲では、このような拝し方は元来、日蓮正宗をおいて他には存在しない。

これをもってこれを思うに、日蓮正宗とはまことにありがたい御宗門であられる。


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