2005/10/31

日蓮正宗普及用パンフに寄せて  
法華講員の樋田氏が日蓮正宗普及用パンフ第二弾なるものを作成した。

これは罰の現証と臨終の相について、御書・経文の言葉をすべて現代語に置き換えて平易に説明したものである。
顕正会員必見といえる。おそらく顕正会員が読めば思うだろう、なんだこれは顕正会のパクリじゃないか、と。
しかし、違うのである。顕正会は日蓮正宗の伝統教義に基づいている。つまり、浅井先生の著作こそが日蓮正宗からのパクリとなるはずなのである。いわゆる御遺命の問題では対立しているけれども、それ以外はほとんど同じと考えていい。いや、同じでなければおかしいのだ。

このパンフはどうも不評のようである。特に創価学会員はボロクソに批判している。いわく、罰論は時代遅れ、創価学会より七十年も遅れている、等々。
ようは創価学会でも罰論を散々やってきたのである。今はなぜやらないのか?
この辺が先日来書いてきた古典的解釈と現代的解釈の問題なのだろう。

さらに、樋田氏はこの一文の中に、自身の住所・氏名などを明記している。ビデオでは顔まで割れている。これはすごいことだ。
昨日、実名と匿名の問題に少し触れたが、樋田氏はこの実名側の最先端を担っているということになる。
顕正会員は諫暁書に自分の住所・氏名を貼付して送付ないし配布を行っている。これはこれですごいことではあるが、樋田氏はもっとすごいといえる。なにしろ、ネット上ですべて公開してしまっているのだから、さすがにここまでできる人はザラにはいないことだろう。

実名・匿名の問題は個人の裁量にゆだねればいいだろう。やはり問題は古典的解釈と現代的解釈である。
単純に二者択一すれば顕正会は前者である。古典的解釈・・・言い換えれば教条主義的となるだろうか? まさに顕正会はそれなのであるが、ひじょうにやっかいなことには、罰の現証で説明されるところの経文の数々が今では「差別思想」であるとして批判の対象になっているのである。
あまりドギツイ例はよろしくないから軽めのをひとつ挙げると、罰の現証として譬喩品に説かれるところでは、「息が臭くなる」というのがある。これは譬喩品の中では軽いほうであるが、しかし、けっこう口臭を気にする現代人は多くてこれが原因で対人恐怖症などになってしまった例もあるように聞く。問題はなぜに法華経誹謗がこのような罰をまねくのか、その因果関係が明確ではないということだと思う。本当に法華経誹謗が口臭の原因であれば、口臭で深刻に悩んでいる人たちはこぞって入信することだろう。結局のところ、法華経誹謗と口臭との因果関係を確実に証明することはできない。となると、現実に息の臭い人がいたとして、その人に向かって「それは罰の現証である」ということはいわれなき誹謗・中傷となる。
口臭は軽いほうだと書いた。樋田氏のパンフでもいいし折伏理論書でもいいから法華経譬喩品をよく読むべきである。これを読んだ本人が「まじめに信心しなきゃ」と思う分にはいいのであるが、生まれつき障害を持った人にいきなり「罰である」というのは酷な話だと思う。
もちろん法華経には真実が説かれている・・・だからちゃんと話してあげることが慈悲なのである、という考え方もあることは承知している。ただし、現段階では因果関係が明確ではない。少なくとも一般的には証明されたとは言い難い。ゆえに、相手の不幸をあげつらって何でもかんでも「罰」とするのは、相当に問題のあることだと承知しておかなければならないと思う。

本来なら、ここまでをちゃんと教団側で教育・指導すべきだと思うのだが、顕正会ではやっていないのが実情である。

いずれにしてもこの問題はけっこう難しい。

2005/10/30

実名と匿名の狭間にて  
巌虎はいわゆるハンドルネームである。こんな本名の人がそうそういるわけもない。
インターネットの世界では本名を名乗る人はまれであって、こうしたハンドルネームを使うことがいわば慣例となっている。
この匿名性を利用して悪さをする人もいるが、一事が万事というわけではない。
本名を匿しハンドルネームを使うことがイコール悪なのではない。すでに書いたごとく、いわばインターネット文化における慣例なのであるから、これをただちに悪とはいえないはずである。

顕正会ではこれを無責任きわまりないものとし、相手にする必要はない、いや、相手にしてはいけない、時間の無駄、信心の障害にしかならない、百害あって一利なし、という風に見ているようである。

「2ちゃんねる」という巨大掲示板がある。
自分は時たま顕正会関連の掲示板を閲覧することがあるが、最初はよくわからなかった。というのは、「おなかいっぱい」とか「三周年」とかいうハンドルネームの人がほとんど独占的に書き込んでいるので、ずいぶんヒマだなあ、と思っていたのである。はたして同一人物がこれほど大量の投稿をできるものなのだろうか? いまでもよくはわからないのであるが、どうやらこれは不特定多数の人が投稿しているらしいのである。
コテハンという言葉がある。自分はネット用語がよくわからないのであるが、どうやらこれは固定ハンドルネームくらいの意味らしい。
ようするに、インターネット上で活躍(暗躍?)している人には数種類いて、まさに正々堂々と本名を名乗っている人もいれば匿名の人もいる。匿名といっても、わたくしのようにハンドルネームを固定して使っている人もいれば、名前をコロコロと変えていく人もいる。また、「通りすがり」というのも実に多い。2ちゃんねるの投稿者の多くは、この「通りすがり」と実質的に同じだと思う。

そういうわけで、わたくしにはそれほどヤマシイ気持ちはない。自分でいうのもなんであるが、けっこう節度のある文章を書いているつもりである。

巌虎は実名ではない。
時たま思うことがある、実名でやるべきではあるまいか? と。
そこまでやってこそ、まったくヤマシイ気持ちはない、と言い切れるのだろう。しかし、今のところはそこまで思いつめていない。

当分はこのままのスタンスで書き続けていこうと思っている。

2005/10/29

実像と虚像の狭間にて  
はじめまして、わたしも顕正会員です。
毎日のブログ拝見させていただいてます。
教学的に随分お詳しいようすですが、
厳虎殿の実像がいまいち、つかめません。
今は活動していない元幹部の方なのでしょうか?



ご質問をいただきました。

顕正会に長くいれば、めざましい活躍をしていた幹部が姿を消してゆくのを、幾度となく見ることになります。ほとんどのばあい、理由は明かされません。いわゆる口コミで、魔に誑かされたとか、その他もろもろのことが伝えられるものの、本人の弁明はまず聞きません。ですから、ネット上で元会員だったとされる人の投稿を読んで、もしやこの人は○○部長だった人ではあるまいか? みたいな感じでいろいろ詮索というか、顕正会からいなくなった人をあれこれ思い出したりすることがあります。

あるいはわたくし自身をこうした幹部のうちの誰かだと、百十万分の一さんは想像なさっているのかもしれませんが、あなたのお名前はわたくしにも当てはまることでして、まさに百十万人のうちの一人に過ぎない存在がわたくし=巌虎なのです。

現在はまったく活動しておりません。
ビデオ放映すら出ていない状況ですから、事実上、脱会者=退転者という扱いに近いかと思います。そんなわけで、御大会式の指導もあるいは直近の総幹部会の指導も知りません。いずれ顕正新聞で読むことになるとは思いますが、換言すればわたくしと顕正会の接点は新聞だけだということになります。新聞が届かなくなったらおしまいでしょう。その時点で顕正会員の名乗りをやめようかとも思ったりします。

また、組織を離れてしまうとやがて信心が薄まってしまい、興味のない世界になっていくものだと思います。ゆえに、かつて華々しい活躍をしていた幹部たちも、現在はまるで別の世界に生きているのかもしれません。
それに比べると、わたくしのばあいは問題意識を持ち続けているわけですが、逆に言うとこうしたブログを日課にすることで問題意識を持続できているのだろうと思っております。毎日、ほとんど思いつきで書いているので、ひじょうにまとまりのない文章になってはいますが・・・

実像が見えてこないのはある意味、こちらとしてもわざと隠している部分があるからだろうと思います。
例えば、壮年・婦人・男子・女子のいわゆる四者のいずれに属するか、それすら書いたことがないのですから・・・
しかし、先の国家意志ではありませんけど、このブログはわたくし個人の意志ないし意思が文章化されているわけで、わたくしは現実の世界に存在する一個の人間でありますから、たとえ実像が見えなくともこのブログに書かれていることはすべてわたくしの発露ということができると思います。

副題にあるごとく、これは愚癡日記です。
ここでいう愚癡は仏法の道理がわからない、教学に暗いという意味でして、わたくしは教学的に詳しいわけではありません。
また、愚痴の意味も含ませております。
毎日書き続けていくのは大変ですが、思いつきでも何でもいいから書いてしまえ、ということで気楽に書いています。おそらくはそのうちネタがなくなって同じことを何度も繰り返し書くことになるだろう、いわゆるグチのひとつのパターンとして同じことを繰り返し愚痴る、愚痴っているほうはそれが一種の精神安定剤になるけど聞いているほうはウンザリしてくる、そのうちこのブログも同じパターンに陥るだろうと思って、あらかじめ副題に含ませたわけです。

考え方としてはネガティブなのですが、あえてポジティブを取り繕うとすれば、「顕正会員の教学向上ブログ」とか「顕正会員の意識変革ブログ」という意義が見出せるかもしれません。
どうも顕正会員は型にはまり過ぎているところがあるようですから、少しは型破りの見本というか、うまくいえば柔軟な思考とでもいいましょうか、わたくしのブログがそのような形で役に立てたら嬉しいことだと思っております。

2005/10/28

未来の大理想  
昨日の投稿は如何にも舌足らずだったので、少し書き加えておきたいと思う。

郵政民営化が実現の方向にあることは確かである。しかし、振り返ってみると、参議院で否決された時点では絶望的だった。ひじょうに流れが悪かった。ここで小泉首相は衆議院を解散するわけだが、これをを自爆解散と評する人も多くあったくらいである。

ところがおよそ一ヶ月の戦いですべてをひっくり返してしまった。

いや、実際は解散を実現させた時点で勝負がついていたようでもある。あの記者会見は見事だった。これで小泉人気が急騰した。
解散なんてできっこないと言っていた議員もいた。解散は単なるこけおどしのパフォーマンス・・・あるいは恫喝の一種とも考えられた。そのように高を括っていた人も多かったのである。ところが本当に解散カードを切ってしまった。
そしてあの記者会見である。国民は小泉首相の決意を聞いて惚れ直してしまったのだった。

そもそも郵政民営化は小泉純一郎ひとりの主義主張だったとも言える。わたくしの知るところでは、これほど熱心に民営化論をうったえ続けてきた人は他に見当たらない。ゆえに、もしこの人がいなかったら郵政民営化はなかった。少なくともまだ先の話だったに違いない。

これをようするに、たった一人の堅固なる意志が国家レベルに至る大きなうねりとなって不可能を可能にならしめたのである。


もし顕正会が戒壇建立の実現を本気で考えているのならば、顕正会から政治家をたくさん輩出して、小泉人気を凌駕するような人物を首相に擁立しなければならないのではあるまいか? 国家意志というのは無機的なものではなく有機的なもの、つまり、具体的には国主に相当する人物の意志なのである。ゆえに、国主に相当する人物が戒壇建立の意志を持たなければ話にならない。顕正会は政治に出ない・・・創価学会のような政治進出はしない、ということをかつて浅井先生は言われたのだが、それはそれでよいとしても、ではどうやって戒壇建立の機運を醸成するのかが見えてこないのである。

早い話、これはまだ顕正会の実力ではそこまでの段階に至っていないということなのだ。

しかし、顕正会ではあと十有余年の戦いだという。

小泉首相の例を見れば、戦いの流れはまさに一瞬にして変わるのだと言える。ゆえに、十有余年もあればそうした瞬間が来るのかもしれない。

現状ではとうてい無理に思えるのだが・・・

2005/10/27

国家意志の正しい表明方法  
今夏、衆議院の解散があった。

この解散を決定するための臨時閣議において、三人の閣僚が反対を表明したという。うち二人は小泉首相の説得に応じたが、ひとり島村農相だけは頑として閣議決定の署名に応じなかった。小泉首相は島村氏を罷免し、首相自身が農相を兼任して閣議決定を行った。

http://www.yomiuri.co.jp/election2005/
news2/el_ne_050809_05.htm


もし全閣僚が反対したら、どうなるのだろうか?
全員罷免して、小泉首相ひとりだけで決定できるのだろうか?
その辺の詳しいことはわからないが、ともかくも衆院解散という国家意志は表明されたわけである。

小泉首相は独裁的といわれるが、独裁ではない。なぜならば、最後は国民に判断を委ねたからである。衆院選で負けていれば、それまでだった。

これをもってこれを思うに、小泉首相のような人物がいれば、戒壇建立の必要手続きとされる勅宣・御教書はいつでも申し下すことができるのではないだろうか?
ただし、当然に国民の信を問う必要が出てくる。ここが御在世とは違うところだ。
ようするに、御在世よりも滅後のほうが戒壇建立のハードルが高くなっている。

況滅度後とはこのことなのであろう。

2005/10/26

古典的解釈と現代的解釈の狭間にて  
国立戒壇をめぐる論議は、煎じ詰めれば勅宣・御教書をどのように解釈するかが問題なのだろう。

創価学会などではこれを現代においては不用としているかのごとくである。そして顕正会ではこれを戒壇建立の必要不可欠なる手続きとしている。

どちらの言い分にも一長一短がある。

創価学会でも大聖人を御本仏と仰いでいる。すると、仏の金言には虚妄の言葉はない、という原則からして、御書の御文を現代的に解釈して不用云々とすることはできないはずである。
だが、顕正会のように何が何でも勅宣・御教書というのも無理がある。勅宣は今も発布可能と考えられるが、御教書は鎌倉幕府が滅亡した時点で不能である。当時幕府の令書、今日では国会の議決ないし閣議決定云々というのは、すでに現代的解釈であって創価学会とは解釈の仕方が違うだけの話となる。鎌倉幕府滅亡によって御教書が実現不能ということは、いずれは勅宣すら不能になるかもしれない、ということでもある。
つまり、創価学会では、ここまで想定した上で勅宣・御教書の不用を主張しているのかもしれないのだ。

先に、大聖人が戦争を肯定していたかどうかについて少しく触れたのであるが、これとて表面的には肯定であっても根本的には否定である、という拝し方もあるだろうと思う。
おそらく創価学会の主張がその線であろうと思われる。
つまり、大聖人の御指南でも普遍的な部分とそうでない部分とがある。これを峻別せずして何から何まで御書にこうある、御金言はこうである、大聖人の御指南は絶対である、などとするのは論語読みの論語知らずだということである。

これは創価学会でも宗門でも顕正会でも、あるいは他門でもそうだろうと思うのだが、ある部分ではきわめて字句どおりに拝しているのに、ある部分ではかなり意訳的に拝しているということがあるようなのである。それらをよく調べてみれば、大抵は自分たちの都合に合わせて解釈してしまっている、ということが浮かび上がってくるのだろうと思う。

一々の具体例をあげるのは難しいが、顕正会についていえば勅宣・御教書のうち勅宣は本有の王法で御教書は本有ではないとする根拠はどこにあるのか、これがはっきりしないように思われるのである。言葉を換えれば、勅宣=普遍的、御教書=普遍的でない、とする根拠はどこにあるのか? 結果論的に、鎌倉幕府がなくなってしまった、封建主義の時代が終わってしまった、いうことで今日の民主主義的な枠組みの中で国会の議決ないし閣議決定と解釈せざるを得なくなってしまったのではないのかという気がしてならないのである。

結局、長いスパンで見ると、自分たちの主張どおりに行かないことがいくつも出てくることだろう。その時に、いわば再解釈をせまられるのである。自語相違や何やらはその産物といえるのかもしれない。

わたくしが思うに、自語相違はやむを得ないことであって、さしたる問題ではないのである。何が問題かといえば、その再解釈ないし新解釈がどれだけ説得力を持つかである。再解釈ないし新解釈が万人を納得せしむるものであるならば、かつての発言との齟齬は自語相違というよりバージョンアップというべきものとなるはずである。

2005/10/25

マグマグ氏のこと  
昨日はちょっとした事件があった。

創価学会系の掲示板で活躍のマグマグ氏がとうとう法華講を離脱してしまったのである。本人がその報告の意味を掲示板に書き込んでおられるのだから間違いのない話である。そしてそれに対する創価学会員からの祝福の嵐たるや、まさに氏の人徳をものがたって余りあるものだった。

じつはおよそ一年前、マグマグ氏と某掲示板にて語り合ったことがある。
もともと面識はなかった・・・というか、ネット上ではなんと表現するべきかわからないが、ともかく失礼ながら氏のことは存じ上げなかった。ちょうどその頃、わたくしは法太郎氏と対論もどきをしていた。で、法太郎節ともいうべき、バカだのノータリンだのという暴言を一方的に浴びていた。これを不憫と思われてのことか、マグマグ氏はわざわざわたくしに声を掛けてくださったのである。

それから年末に掛けて、数回にわたってやりとりがあったのであるが、その語り合いの中での氏の印象を一言でいえば、人当たりが柔らかい、ということだった。実際、その後の学会系掲示板での氏の書き込みを拝見していても、法華講員でありながら学会員ともうまく融和していて、ややもすれば八方美人のようにも見えた。しかし、そうではなくて、どういうわけか法華講員でありながら法華講ひいては日蓮正宗にずいぶんと手厳しい発言が目立つことに気がついた。すでにわたくしとの語り合いの段階でも相当に創価学会に肩入れしていることは明らかだったのだが、それがさらにエスカレートしていくかのようだった。

マグマグ氏であれば法華講員であり続けることも一つの選択肢だったのではないかと思う。わたくしが恐れるのは、氏が今まで以上に日蓮正宗をあしざまに言うようになることである。これは創価学会側にしてみれば何の痛痒もないことだろうが、大げさにいえばこれは氏の人徳の崩壊にもつながることだと思う。

八方美人はホメ言葉ではない。
けれども八方美人だった人が一方ばかりを悪口するようになるのは興ざめである。

2005/10/24

大聖人は戦争肯定論者だったか?  
法華講員と創価学会員の論争にはいくつかのテーマがある。

このところはどういうわけか、戦時中の話題でもちきりである。
これは従来、創価学会は軍部の弾圧に屈することはなかったが一方の宗門はいかにもだらしがなかった、というような感じで、どうも宗門のほうが劣勢を強いられていたような印象があった。ところがフライデーの十一月四日号には、創価学会が戦争を翼賛していたとされる証拠写真が掲載されたのだという。
わたくしは現物を見ていないが、某掲示板にて記事の内容が紹介されていたので、それで知ったわけである。なるほど、ここのところ法華講・創価学会双方の掲示板がこの話題で大騒ぎしているのも当然であろう。

創価学会の初代会長は獄死している。
これはいわば創価学会にとっての「売り」なのである。すなわち戦前より一貫して反戦・平和を主張してきたのが創価学会であり、軍部の弾圧に屈することがなかったために初代会長以下、主要な幹部はみな投獄されたのだと。そして生きて獄を出たのちの戸田二代会長は初代の遺志を継ぎ・・・云々と。

結局、フライデーの記事が本当だとすると、創価学会の主張が根底から崩れてしまう。ゆえにフェイクなどでも盛んに反論を書いているし、学会員も否定に躍起になっているのだろう。

しかし、フライデーでは証拠物件の真贋を不明としている。こうなると、文章の大半は意味をなさないようにも思われるが、もともとそういう論旨ではないことは読めばわかるというものだ。
まさに、今日の靖国問題やイラク派兵問題に創価学会がどう対応しているかが問われているのである。
創価学会と公明党は別である、などとごまかしてはいけない。
公明党は政権離脱をする覚悟で首相の靖国参拝を阻止すべきだった。イラク派兵は仏法上どのように捉えるか判断が難しいことだが靖国問題は簡単だろうと思う。少なくとも創価学会員は謗法者を当選させるべきではない。つまり、公明党と自民党の選挙協力には反対すべきであり、ばあいによっては謗法与同の公明党を斬って捨てるくらいでなければ筋が通らないだろう。

これに関連して以前、選挙の話題を書いた。
わたくしは、選挙事務所に神棚をまつっているような立候補者には断じて投票しない、これが正法を行ずる者の最低限の矜持だと思っている。


戦争の話題に戻して、反戦・平和というのはある意味、ただ耳ざわりがいいだけの時流におもねたコピーなのではなかろうか・・・というのがわたくしの考えである。

誤解を恐れずにいえば、日蓮大聖人は好戦的だった、と思われるのである。ようするに、戦争を肯定あそばした上で、戦争に勝つ秘術を大聖人は御用意であられたのだと。
しかし、これは教条主義的云々ということで創価学会員には受け入れられないのかもしれないが、わたくしの思うに、この拝し方でいけば戦時中にいわゆる戦勝祈願をすることは理の当然であって少しもおかしくないし、いわんや創価学会の通牒など取るに足らないことであって少しも問題にはならないのである。

問題は謗法与同であるがそれは置くとして、そもそも大聖人が戦争肯定論者なのかどうか、これの一般的な見解はどのようなものなのだろうか?

折伏論争との関連もあるので、わたくしにとってはひじょうに興味のある問題である。

2005/10/23

正義にめざめて  
顕正会の集会では、体験発表や活動報告のほかに、「正義にめざめて」というタイトルの登壇が行われている。

これは通常、法華講員や創価学会員だったものが顕正会に移籍してきたことを発表するものであるが、当然に元法華講員は日蓮正宗の実態はこれこれこうであるという悪口をいうし、元創価学会員は学会の実態をあれこれとあげつらうような登壇をする。ネット上ではある意味「死に体」同然の顕正会でありながら、今も顕正新聞には「正義にめざめて」の記事が次から次に掲載されている。

これらはヤラセであろうか?

皮肉というべきか、あの樋田ビデオでは法華講の有力者だった人が顕正会に移籍したことを証明しているのである。つまり、これらはヤラセではない。法華講からも創価学会からも今もなお顕正会に移籍してくる人が少なからずいるのである。

顕正会は死に体だと書いた。ネット上ではそのように見えるのである。しかし、これは現実を正しく反映しているのであろうか?
ネットの世界と現実の世界にはギャップがある・・・もし、そうだとすると、ようは情報戦略的に顕正会は負けている、誇大広告宣伝が功を奏して顕正会の劣勢が実際よりもはるかに強調されている・・・ということになるだろうか?

もう一つの視点として、如何なる組織にも不満分子が存在する、法華講員にも創価学会員にも組織に不平不満を持っている人がいる、あるいは不平不満を懐く時期がある、ようはこのタイミングで顕正会員から折伏を受ければ移籍の可能性が高くなるだろう。逆もまた然りで、顕正会員が顕正会の組織に不満を懐いている時に法華講員からあるいは創価学会員から折伏を受ければそちらになびいてしまう可能性は否定できない。

つまり、顕正会のように大規模な折伏をやっていれば、つねに一定の割合で創価学会員や法華講員が「正義にめざめて」顕正会に馳せ参じてくるのかもしれない。これは単なる確率の問題である。

先般の衆議院選挙では雪崩現象が起きたと評される。
法華講員や創価学会員が顕正会に移籍してくるケースもあればその逆のケースもある。しかし、それはおそらく一定の確率に基づくのであって、いずれの組織が圧倒しているとも思われない。もし、どこかが独り勝ちしているというのならば、それは衆院選の自民大勝のごとくはっきりとした姿形を見せなければおかしい。いまだそこまでの雪崩現象は起きていないというのが妥当なところではなかろうか?

いずれは雪崩が起きるのであろうか?

2005/10/22

顕正会は面従腹背者のいない清き集団  
ネット上には、いまだ御大会式に関する情報が出ていないようである。

総幹部会の当日は班長以上、御大会式は支隊長・総班長以上というのがいちおうの決まりである。
つまり、顕正会の幹部にはいわゆる面従腹背の者はいないのだろう、ゆえに情報が流失しないのだと思われる。

宗門のほうでは大概のことが外部に筒抜けのようなのである。というのは、創価学会系と思われるフェイクや大石寺短信には、とうてい外部の人間には書けないような内部事情が事細かに書かれている。
つまり、内部に面従腹背者がいるのだろう、彼らが情報を漏らしていると考えられるのである。

がしかし、これは面従腹背者というより、スパイといったほうが適切かもしれない。

かつて妙信講にもスパイが多く潜入していたといわれる。
現在はそのスパイ集団のターゲットが顕正会から宗門に変わったということなのかもしれない。もやは顕正会にスパイを送り込む必要性を認めなくなった。顕正会など相手にする必要はない。主要敵は宗門である。ということを某教団の首脳たちは思っているのかもしれない

結局これはどういうことかというと、顕正会はいとも簡単に破折できてしまうので、もはや手の込んだ策を弄する必要はないということなのだろう。

ずいぶんとなめられたものである。


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