2005/11/30

御大会×御会式=御大会式?  
これから書くことは、まじめに調べていないことなので、あまり信用してはならない。

どこの掲示板だったか忘れてしまったが、法華講系であることは間違いない、そこで読んだことを記憶のままに書くと、

「総本山大石寺で行われるのを御大会といい、末寺でのそれを御会式という。顕正会では御大会式などと言っているが、そんな言い方はない」と。

これを意識したのであろうか? 顕正新聞の第1017号に御大会式における浅井先生の講演が掲載されているけれども、本文中すなわち先生の発言は「御大会」ないし「御大会の儀」となっている。わたくしの記憶が正しければ昨年までは先生も「御大会式」と言っていたはずなのだ。だとすると、やはりネット上の情報をけっこう意識しているのかもしれない。

また、同新聞には班長会の記事がたくさん載っており、いつものことながら幹部連中がどれもこれも同じようなことを書いている。当然、御大会式の話題にも触れられていて、どの幹部も従来どおり「御大会式」と書いているのであるが、ひとりだけ「御大会」と書いている幹部がいた。
この人はけっこうネットの情報を熟知しているのかもしれない。

わたくしはこうした動きを歓迎したいと思っている。ようは、聞く耳を持っている、ということだろう。悪いことではない。

もっとも、顕正会が総本山を向こうに回して「御大会」を行うは言語道断、という指摘はいかんともしがたいが、まさかだからといって「御会式」にするわけにもいかないだろう。
困ったものだ。

2005/11/29

礼讃の続き  
今日、所用のついでに本屋に立ち寄った。わが町でいちばん大きな書店である。そこに「本門戒壇の本義」があった。一冊だけ棚に差し込まれて。これが売れてしまえばそれでおしまいなのだろうか?
顕正会員はもちろんのこと、法華講員や創価学会員など、かなりの需要が見込まれると思うが、しかし、わたくしにしても最近は滅多に本を買うことはなくてネットの情報で間に合わせてしまっているところがあるので、驚くほどには売れないのかもしれない。

この開目抄の文を「しうし(主師)父母」と読めない人は、未だ開目する能わずの人でしょう。

わたくしが「本門戒壇の本義」の中で、もっとも感動したところである。
実はこの本を戒壇義の専門書だと思ったら大間違いであろう。いわゆる人本尊開顕の書たる開目抄の重要な御文についての読み方、あるいは法本尊開顕の書たる観心本尊抄の読み方、換言すれば大聖人を御本仏と仰ぐか否か、そして造像の問題、さらには出世の本懐に関する問題まで、すべて網羅されているといっても過言ではない。もちろん戒壇義を中心にすえているので、他の問題には軽く触れている程度であるが、それでもこの本を読めば日蓮大聖人の仏法を概観することができるようになっていると思う。

考えるまでもなく、もし富士の僧俗が読者対象であるならば、これらのことは書く必要のないことではあるまいか?
つまり、昨日も書いたように、富士の僧俗云々は一往の辺であって再往は全日蓮門下を意識しておられること顕然である。

現在の櫻川氏の立場は微妙であるが、少なくとも本書の内容から判断するならば、氏が純然たる日蓮正宗の教義に立脚して論を展開していることは、もはや疑いようのない事実であろう。

2005/11/28

「本門戒壇の本義」礼讃  
櫻川氏渾身の著ともいうべき「本門戒壇の本義」に批判めいたことを書いてしまった。
他人の文章にケチをつけるのは簡単なことであるが、では自分がそれだけの文章を書けるのかといえばまったく書けない。わたくしなどは櫻川氏の足もとにも及ばないのである。

氏は深謀遠慮である・・・とわたくしはにらんでいる。今日はその筋で書いてみようと思う。

正信会あたりが己心戒壇を言い出したのはなぜだろうか?
わたくしは詳しい事情を知らないが、おそらくは御書の真偽問題が絡んでいると思われるのである。三大秘法抄や一期弘法抄は御真蹟が存しない。そして古来より偽書説がある。正信会はこれらの御書を偽書であると断定しているわけではないようだが、偽書の可能性が高いので用いない、というような姿勢をとっているらしいのである。
これらの御書を用いないとなると、いわゆる御遺命の戒壇とは何かがわからなくなる。戒壇を建立せよとの御教示が存在しないことになってしまうからである。しかし、建立せよとの御教示はないにしても、法華取要抄や報恩抄には三秘中の一つとして戒壇が挙げられているわけであるから、この戒壇とは何ぞやという問題が生じてくる。そこであれやこれやと思案した結果が己心戒壇ということなのではあるまいか?

案外に己心戒壇というのは魅力的だと思う。これについてのわたくしの考えは別の機会に書くこととしよう。

さて、櫻川氏は三大秘法抄や一期弘法抄に偽書説があることを重々承知の上で論じているわけだが、当然にこれらの問題についての研究にも余念がないものと思われる。ところが本書では、真偽については論じないと断りを入れている。

凡例
七、御抄の正筆・写本の有無等は、本論考の性格上本文中では敢えて言及しない。
九、富士の僧俗を読者対象とする(後略)


第三章 本門戒壇と本国土
この三大秘法抄に、真偽論の種々あることは承知していますが、ここでは立ち入りません。


わたくしの実感するところだが、昨今は真偽にうるさい人が多いように思う。であるから、本論考の性格上言及しない、などということが許されるのだろうかとの疑問がある。いったい性格上とはどういう意味であろう、富士の僧俗にしか通用しないような論考に意味があるのだろうか?
しかし、じっくり一文一句かみしめて読んでいくと、次第に意図するところがわかってくる。ここで本の帯に書かれている言葉を思い出してほしい。

「日蓮大聖人は本門戒壇を詳述されず」とした従来の学説を打破!

おそらく櫻川氏は三大秘法抄の真偽を論じても詮無いことだと考えているのだと思う。結局、疑りぶかい人は、御真蹟が発見されでもしない限り認めようとはしないものなのだ。それでは真偽論の意味はない。時間の無駄である。ならばどうするか?
御書全体から戒壇義を抽出していけばいいのである。大聖人の御書全体が指し示すところがいずこであるか、それがあらわれてくれば個々の真偽論などはさしたる問題ではなくなってくる。
まさに、これでもかこれでもか、というくらいに御書を引用しているのはそのためであろう。逆にいうと、このように状況証拠を積み重ねることによって、三大秘法抄が真書であることを証明しようとしているのかもしれない。

もし、わたくしの読みどおりであるとすると、読者対象を富士の僧俗にするというのは高度な目くらましであり、実に深謀遠慮な手法であると思う。そして実際のところ、この手法は相当の成功をおさめているのではなかろうかと思う。

2005/11/27

トラックバック制限  
これまでトラックバックスパムを手動で削除していたが、一向に止む気配がないので制限を設けることにした。
トラックバックの一切をやめてしまってもいいのだが、まれには送信してくださる方もいらっしゃるので、部分的な制限にした。

よってこれ以降は、ライブドア関係のURLを受け付けないようになっているのでご留意いただきたい。

2005/11/27

わかりにくい文章  
それにしても
「三秘の法門が建立される仏国土とは日本国土ではなく衆生の己心だ」
とか
「現実社会にユートピアが現出するような戯論は宗祖の教えにない妄想だ」
とか。まったくよく言ってくれるものだ。


昨日、櫻川氏に批判めいたことを書いたのであるが、ひじょうにわかりにくい文章になってしまった。慣れないことをするものではない、という好例である。
そういうわけで、少し補足したいと思う。
上記の引用は、昨日の文末に掲示した参考サイトからのものである。宗門がいわゆる正信会に対して発した破折文の一部というか、カッコ書きの部分は正信会で言っているらしく、地の文章が宗門側である。

つまり、単純化してしまえば、櫻川氏は正信会の「三秘の法門が建立される仏国土とは日本国土ではなく衆生の己心だ」との主張には否定的であるけど、「現実社会にユートピアが現出するような戯論は宗祖の教えにない妄想だ」という主張には肯定的であるとの構図になっている。
ゆえに、櫻川氏は己心戒壇論を否定しているけどいつの間にか己心戒壇論に帰着している、というように書いたのである。

けれども注意しなければならないのは、櫻川氏が著作の中で「ユートピア」という言葉を使ったのは一回だけである。もしかしたらわたくしが針小棒大に言い過ぎているのかもしれない、単なる揚げ足取りなのかもしれない、ということも考慮しないといけないと思う。
第一に氏が正信会を想定して己心戒壇否定の一文を入れたものかどうかもわからないし、そもそも己心戒壇の統一見解というか共通認識が明確でないのであるから、正信会の主張を持ち出して氏の著述に矛盾・不整合ありとするのは見当違いも甚だしい、ということになるかもしれない。
ゆえにわたくしの文章を信用してはならない。おのおのが「本門戒壇の本義」を購入して、自分の眼で確かめるべきであろう。

それにしても先の参考サイトには別の意味で驚いた。
これは昭和五十九年一月の大日蓮となっている。つまり、当時はいまだ宗門・学会が一枚岩ないし蜜月といわれた時代である。にもかかわらず宗門の記述は案外に顕正会と違わないのではないかと思わせる。正信会との対比で見ると余計にそのように感じられるのである。ようするに宗門では国立戒壇の名称こそ使わなくなったものの、戒壇義そのものはまったくブレていないのではあるまいか、というふうにも読める文章なのである。

もっとも今のわたくしにはそのように読めるけれども、まじめな顕正会員であればまた違った感想を持つのかもしれない。

2005/11/26

「本門戒壇の本義」批判  
わたくしごときが櫻川氏に批判を加えるのは身の程知らずもいいところであるが、今日はあえて批判めいたことを書いてみようと思う。

櫻川氏は己心戒壇論に否定的である。
ところが氏の著述を最後まで読んでいくと、結局は己心戒壇論と同工異曲なのではあるまいかと思えてくる。

少し回り道をしよう。
昭和四十五年十月三日の聖教新聞に和泉理事長談話として、正本堂の意義についての訂正文が掲載されている。もちろん訂正文であると主張するのは顕正会であって、創価学会側がどのように説明しているかはこの際問題ではない。
いわく、正本堂の完成をもって広宣流布達成・戒壇建立の御遺命達成とするのは誤りである。いまだ完結はしていないのである。云々と。(取意)
あれほど大騒ぎをしておいて・・・といってもわたくしはその時代をじかには知らないが・・・実はいまだ達成ではない、完結ではない、というのである。

これをもって思うに、顕正会が近い将来広宣流布を達成し、国立戒壇を建立したとしよう、しかし、その時にも顕正新聞に訂正文を載せることになるのではあるまいか? いや、現実に国立戒壇が建ってしまえばそれは達成であり完結である。まさに事相の上に建立されるのだから否定のしようがない。それでもなお、何かしら訂正文に等しいようなものを出さざるを得なくなるのではないかという気がする。

なぜならば、平成十年に御遺命守護は完結した。しかし、七年後の今日においてもなお、顕正会は御遺命守護の戦いを続けている。つまりは御遺命守護の戦いから脱却できていないのである。ある意味これが顕正会のアイデンティティーでもあるのだが、本当ならとっくの昔に御遺命守護の戦いから卒業して御遺命達成の戦いに突入していなければならないはずなのである。

誤解のないように断っておくが、櫻川氏の本にこのようなことが書かれているわけではない。ただし、先日書いたように、氏は顕正会員が懐いている広宣流布・国立戒壇建立に対する過大な期待に危惧を持っていると思われるのである。広宣流布達成後にも問題は山積しており、種々の課題が待ち構えていることを示唆しているし、端的にいえばユートピア願望をいましめているようにも感じられるのである。

さて、ここからが氏に対する批判である。
櫻川氏が己心戒壇を否定するのは当然ではある。なぜなら事相の戒壇を大聖人正意の戒壇であると主張する立場だからである。ゆえに氏の著述はほぼ一貫して顕正会ないし浅井先生の戒壇論を敷衍するような形で進行していく。ところが最後にいたって顕正会とは袂を分かつ。それはすでに先日引用・紹介した文章にあらわれていると思う。
別に顕正会と異なる主張であるからいけないというのではない。むしろわたくしのほうが顕正会に対してはより辛辣なことを書いていると思う。
ようするに氏の主張は「国立戒壇の建立をもって、なにもかも完成したように思い、ご遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである」というようにも聞えてしまうのである。
結局こうなると戒壇建立の意義とは何ぞや、というところに立ち戻って考えないといけないことになる。まるで氏は戒壇建立の意義を矮小化してしまっているのではあるまいかとも思えてくるのである。いや、氏の著述ではこのテーマに相当の紙数を費やしているわけであって、ようはわたくしの理解こそが「幼稚・矮小」ということなのだろう。
それはそのとおりなのであるが、そうすると本門戒壇の意義というのはわたくし程度の人間にはとうてい理解の及ばない法門ということになるのであろうか?
そうではなくて、実は櫻川氏の主張こそがいまだ明瞭ならず、ということなのではあるまいかとも思う。換言すれば観念的、観念論に堕している、という気味が感じられるのである。

まとめると、櫻川氏は己心戒壇を否定し事相における戒壇建立を主張するが、戒壇建立後の様相を概観するにいたっては、結局のところ己心戒壇論に帰着してしまっている観がある、とわたくしは思う。

参考サイト
己心に戒壇を建立するという邪説について

2005/11/25

本国土法門  
大聖人の戒壇義の重要な基礎こそ、すなはち本国土法門に他なりません。

このところ櫻川氏の著作ばかりを取り上げているが、これも「本門戒壇の本義」からの引用である。

本国土法門であるが、わたくしはこの言葉を浅井先生の口から聞いたことがある。
わたくしはふまじめな顕正会員なので先生の御書講義をただ漠然と聞いているだけでメモを取ったことなど一度たりともなかった。ゆえにいつのことか、何という御書の講義だったか、さっぱり忘れてしまったのであるが、先生は講義の中で「これは本国土法門といって詳しく論じていけばこれだけで一冊のぶあつい本が書けてしまう・・・」というようなことを言っていたのである。
もし、まじめにメモを取っている顕正会員がこれを憶えているようであれば、ぜひとも教えてほしいと思う。

そういうわけだから、顕正会員はわたくしを含めて本国土法門をよく知らないのである。
しかし、折伏理論書のツケタリにある五綱判であるとか、「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」などにその片鱗を見ることができる。

では、本国土法門とは何か?

これをネットで検索すると、なんと櫻川氏のサイトともうひとつくらいしかヒットしないのである。ようするに、あまりメジャーな用語ではないということだろう。また、浅井先生の講義からも想像できることだが、ようはこの法門を本格的に論じた者はまだいないということでもあるようだ。

櫻川氏のサイトともうひとつのサイト、その両方を開いてみる。すると、本国土法門の出どころがはっきりする。
日蓮正宗系では著名な人物のひとりであろう、松本佐一郎氏の著作に出てくる言葉なのである。しかし、一冊の本が書けてしまうという意味からすれば、松本氏の著作ではいわば名目だけを示すのみで詳述はなされていない。

つまり、今回の櫻川氏の著述において、本国土法門の相当部分が明らかになった、といえるのではあるまいか?

しかしながら、わたくしは現段階において、どうやら本国土法門について書かれているようだ、というレベルの理解しかできていない。ようするに、よく読めていない。仮によく読んだとしても理解できるかどうかはわからない。これがわたくしの実力である。

2005/11/24

顕正会批判に相当する箇所  
 この「不老不死」を皮相に理解して実体論的に捉えたなら大いなる過ちであること、(中略)

 されば、「吹く風枝をならさず雨壤を砕かず」も、同様の意義でありました。広宣流布すれば台風や洪水や地震等の天災もなくなるとか、あるいは天災が生じても被害が起きないといった幼稚・矮小な理解は、当位即妙・不改本位の妙の理に昏きが故でしょう。

「本門戒壇の本義」の第五章「本門戒壇建立の意義」の末文である。
直接に顕正会ないし浅井先生を批判する文言はないが、「幼稚・矮小な理解」というのは少なくとも若い顕正会員に当てはまりそうである。


しかして本門戒壇の建立の後に於いて、空想のユートピアの世界が来るのでもなければ、キリスト教で説くような想像の千年王国が到来するわけでもありません。(中略)

 広宣流布の後の世には、個人のレベルでも仏法を世渡りの道具にする輩、また横行することでしょう。信心薄くして、自身の欲望達成のためあたかも信心強盛の如く振る舞う人の多いこと、雲霞の如くとなりましょう。(中略)

 さらにまた組織に於いては、慣習・制度として自己目的化が正当化されるだけ、ますますその弊害は大きいことでした。批判と評価が働かない組織では、必ず私物化と自己目的化が進展することでしょう。(後略)

これは第六章すなわち最終章「本門戒壇への障礙」のいちばん最後の部分である。
ここでもあからさまな顕正会批判にはなっていないが、内容的には批判と取れなくもない。
少なくとも現在の顕正会員は広宣流布達成以後に過大の期待を懐いている。それはユートピア願望とも言い得るであろう。櫻川氏はこれを真っ向から否定するのである。
また、最後の引用文については、顕正会は広宣流布達成の後に解散することになっているから当てはまらない、ということになるのかもしれないが、そんな先の話ではなくて今現在の顕正会を批判しているようにも感じられるところである。

どのみち、あと十有余年という掛け声を受けて顕正会員はシャカリキになって活動しているわけである。その年限が着々と縮まっていけばいいけれども、いつまで経ってもあと十有余年といい続けていたとしたら、まさに私物化と自己目的化の批判は免かれない。
また逆に、あと五年、三年、一年と縮まっていくとしたら、これはこれで恐いことだろう。なぜならば、顕正会員の期待するものが何であれ、その期待が大きければ大きいほど落胆はそれ以上に大きいからである。つまり、ユートピアの到来はない、というのが櫻川氏の指摘なのである。

さて、どちらが本当だろうか?

櫻川氏の懐く広宣流布観が正しいとして、それにどれほどの魅力があるのか? いわゆる観念的との批判に相当するのではあるまいか?
氏は「幼稚・矮小な理解」というが、もし御書の字句どおり・・・氏の言葉を借りれば実体論的ということになろうか・・・つまりは大聖人の仰せのとおりになったらどうだろうか? これはこれですごいことではなかろうか? この時、実は櫻川氏こそ「幼稚・矮小な理解」だったということにならないだろうか?

わたくしの思うに、顕正会の理解は幼稚である。ただし、矮小ではない。現時点では希望的観測に過ぎないにしても、顕正会の理解の仕方は矮小ではなく、その対極にあるのではないか?

もちろん、ユートピアの到来はない、という結論が絶対的なことであり、わかりきったことだという認識の上からいえば、より現実・・・すなわち実相ということだろう・・・に即して物事を考えていかなければならないことは当然であろう。すでにその地点に立っている者から見れば、やはり幼稚にして矮小な理解ということなのかもしれない。

2005/11/23

「本門戒壇の本義」読後感想文  
あらためて櫻川書林をご覧いただきたい。どうやら昨日、更新されたようであるが、基本的には前と変わっておらず、トップページに書籍の画像がアップされている。その書籍の帯には、

富士の僧俗、
必見の書。
「○○○○○○○○○○○○○○○○」○○○
従来の学説を打破!


この文言は、先月の十七日にも紹介した。けれども三行目の文字が画像では判読できなかった。これは、

「日蓮大聖人は本門戒壇を詳述されず」とした

だった。つまり、

「日蓮大聖人は本門戒壇を詳述されず」とした従来の学説を打破!

ということである。
このキャッチコピーは本書の全体像を端的に物語っているといえる。

要を取って言えば、大聖人の戒壇義は三大秘法抄・一期弘法抄の他にたえて見られないとされているがさにあらず、御書のいたるところに説かれているのだ、というのが櫻川氏の主張である。しかも氏がこのロジックをどこから導き出したかというと、大聖人の御金言からなのである。すなわち撰時抄の、最大深秘の正法は経文の面に現前である、ということを御書の拝読に援用したものといえる。ようは単に字面だけを追って、戒壇をキーワード検索しているようなレベルの人には一向に見えてこないことなのだろう。ゆえにまえがきにおいても「小輩等の唯願説之の一念もし紙背に迫ることあれば」云々と書いておられるし、本文中「文字・単語の数を勘定する学者・諸師には理解を絶する」とも言うのである。

さて、基本的に櫻川氏はいわゆる学会版・・・日亨上人御編纂の御書を使われているようであるが、表記で気になったところがいくつかあるのでここに書いておきたい。

最大の深密の正法、経文の面に現前なり

撰時抄の御文。これまでうっかり気がつかなかったが、学会版では「深密」となっている。平成新編では「深秘」であり、浅井先生も「深秘」としている。
では、櫻川氏は先生に反抗的なのかというと、そうでもないのである。

三大秘密

三大秘法抄のこの部分は、学会版も平成新編も「三秘密」である。櫻川氏は本書の中で、一貫して「三大秘密」を使われている。

事相為る故に、一重の大難之れ有るか。

文永十年七月の土木殿御返事であるが、表記そのものは学会版とも平成新編とも違っている。巻末の参考文献には「平成新修日蓮大聖人遺文集」とあるから、あるいはこれに倣ったのであろうか?
少なくとも「事相」か「事法」かという意味では平成新編ないし浅井先生に準じていることは間違いない。

いずれにしても櫻川氏のことであるから、すべて一文一句にわたって詳細なる検討がなされていることだろう。
本書ではその辺の根拠なり説明が省かれているが、機会があったらぜひとも聞いてみたいものである。

2005/11/22

「本門戒壇の本義」読了  
といっても、本日入手したばかりであり、一気に読破したとはいえ、まだちゃんとは読み込めていない。よって、詳細は追々書いていくこととして、ここでは取り急ぎ数点だけ書いておこう。

櫻川氏はきわめて論理的な思考をする人である。実はこの論理的思考というのは、わたくしのもっとも苦手とするところである。おそらく論理的な人が氏の文章を読めば、引き込まれるようにして一気に読めてしまうのではなかろうかと想像する。ただし、御書が嫌いな人はつらいだろう。逆にわたくしは論理的ではないけど御書に慣れ親しんでいるので、理解度は低いにしてもとりあえず通読は難なくできた。

この本ではそこらじゅうに御書が引用されている。というか、氏の文章よりも御書のほうが多いくらいである。といっても、長々と引用されることはない。きわめて簡潔な引用である。また、全体的な傾向として、混然一体とでも表現したらいいのだろうか、御書と氏の文章が交錯するような書き方をしていて、これが不思議な効果を生み出しているようにも感じられるのである。

ただし、わたくし個人としては、地の文章で「なを」「いはんや」「すなはち」などと表記していることに違和感をおぼえた。御書は原文尊重が当然としても、自分の言葉まで御書の表記にあわせるのはどうかと思った。あるいはこれが混然一体の秘密なのかもしれない。

それから以前、わたくしがこの書について触れた時に、櫻川氏はこの書を発刊しようとして除名になったとのコメントが寄せられた。ゆえにわたくしは本の内容にずいぶんと興味を持っていた。除名が本当ならば、顕正会ないし浅井先生を批判するような内容が書かれているのではないか? という予想が立つからである。
ところが直接に、そのような批判の文言はなかった。強いていえば、暗にとでもいうべきか、あるいは間接的というべきか、批判とも取れる部分が二箇所ほどある。これは後日詳しく書こうと思う。

どちらかというと、顕正会ないし浅井先生批判の本ではない。
むしろ、これまでの浅井先生の所論を踏襲したもの、先生の論が略だとすると櫻川氏のは広というべきか、ようは先生の年来の主張を詳説ないし敷衍したものということができるのではないかと思う。

であるから、富士の僧俗必見の書とするのはもちろんのこと、顕正会員必読の書でもあるのではないかと思うのだ。

ともかくも、顕正会にとって悪い本だとはとうてい思えない。


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