2005/12/31

二而不二は難解な概念か?  
本年最後の投稿である。
だからといって特別な用意があるわけではなく、いつものようにぶっつけ本番の行き当りばったりで書いていくのみである。

いったい我らがいつ阿部日顕(上人)は戒壇の大御本尊と不二の尊体≠ニ述べたのか。昭衛よ、汝の言は文意の歪曲とすり替えである。我らは、大聖人よりの法水を受け継がれる御法主日顕上人の御内証には大聖人の御魂魄(こんぱく)が在されるのであるから、大聖人が御魂魄を墨に染めながして御顕示遊ばされた本門戒壇の大御本尊の御内証と而二不二であると汝に教えているのである。汝は、この而二不二の深意が判らないから、難しい理屈はいらぬ≠ネどと言い訳をしているにすぎないのだ。

「砕破す」からの引用である。
浅井先生の二度目の文書に対する返書に「御当代法主上人の御内証は、本門戒壇の大御本尊の御内証と而二不二にまします」という文言がある。それを先生は「阿部日顕は戒壇の大御本尊と不二の尊体」と言い換えた。これを破折班ではスリカエであり歪曲だというのである。

しかし、これはひじょうに悩ましいところだと思う。なぜならば、いわゆる「能化文書」と呼ばれるものがあって、それに「不二の尊体」という言葉が出てくるからである。能化文書というのは日蓮正宗側の見解であり、そこにこのような表現があるのだから同趣旨のことを言っているのだろうと思われても仕方がないのではないだろうか?

 「本宗の根本は、戒壇(かいだん)の大御本尊と唯授一人血脈付法(ゆいじゅいちにんけちみゃくふほう)の御法主上人であります。具体的(ぐたいてき)には、御法主上人の御指南(しなん)に随従(ずいじゅう)し、御本尊受持の信行(しんぎょう)に励(はげ)むことが肝要(かんよう)です。なぜならば、唯授一人の血脈の当処(とうしょ)は、戒壇の大御本尊と不二(ふに)の尊体(そんたい)にましますからであります。したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません」
                     (大日蓮 平成三年九月号八七頁)


これはいわゆる折伏教本と呼ばれるものから引用させていただいた。

http://homepage3.nifty.com/y-maki/syakbk/260.html

宗門では「法主は大御本尊と不二の尊体である」といっているが、これは謗法の論ではないか・・・との質問が設けてあって、それの回答の中に上掲の文章が出てくるのである。
回答では、あなたの質問は能化文書(のうけぶんしょ)の一部分を曲解(きょっかい)したところから出てきたものだと言い、結論として、 あなたの質問は創価学会の曲解(きょっかい)と捏造(ねつぞう)に影響(えいきょう)されたものだと言うのである。

破折班によれば「申すべき事」は創価学会や正信会の受け売りで書かれているということらしいが、なるほどこの折伏教本の記述からしても浅井先生は創価学会の曲解と捏造に影響されていることになりそうである。

しかし、「汝は、この而二不二の深意が判らない」というが、はっきり言ってわたくしにもわからない、わかりにくい、わかりづらい、わかりがたいのである。もう少し平易な表現ができないものかと思う。

法主が大聖人様の代わりだと、即座(そくざ)にこういうことを言うと、外から非難(ひなん)されますから、よくその点に注意していただきたい

再び折伏教本からの引用であるが、これは日達上人の御指南だという。つまり、法主本仏論だとか法主信仰というような指摘はすでに先々代の時代からあったことがうかがわれる。この「外から非難される」というのは何を指しているのか、興味が惹かれるところであるが、それはともかくとしてようするに日達上人のこの御指南からしても能化文書ははなはだ不明瞭と言わざるを得ないと思うのである。わざわざ誤解されるような非難されるようなことを書く必要があったのだろうか?

ねじれ現象がある。
妙信講は兄貴分だけど弟分から情報をもらって生きている。「申すべき事」の大半が弟分からの受け売りである。
がしかし、いわゆる「法主即大聖人」批判に限っては妙信講のオリジナルといってもいいだろう。であるから、現在は情報を逆輸入しているようなものである。

かつて顕正会では質問会というのをよくやっていた。
その中で、「創価学会員から、猊下は時の大聖人である、と言われたのですがどのように応じたらよいでしょうか?」というような質問があったのである。平成二年以前に顕正会で活動していた人ならば、実際に創価学会員からそのようなことを言われたことのある人はざらにいたはずである。かく言うわたくしにしても創価学会員からそのようなことを言われた経験があるのだから、これは間違いのないことである。

何がねじれ現象かといえば、何もかもである。
かつては顕正会員がいくら道理を説いたところで、猊下は時の大聖人であるから猊下に背くものは大聖人に背くものである、と創価学会員はこの一点張りだったのだ。
その創価学会が今はご存知のテイタラクであり、顕正会もまた昨年あたりから宗門批判を強め、そのネタを創価学会から輸入しているのである。

また、邪義破折班もねじれ現象を象徴的にあらわしているのかもしれない。
というのは、護法の精神がみなぎっているのかどうか知らないが、彼らの文章の激烈さは文章だけを見るならば天下一品であり、かつての創価学会を凌駕し、また顕正会も舌を巻くところである。ようは口が汚いのだ。
護法の精神はけっこうであるが、もう少し礼節を重んじてもいいような気がする。
ある意味、創価学会や顕正会の悪い部分ばかりを真似しているような印象を強く受けるのである。
言葉はていねいでも内容が鋭ければじゅうぶん破折になるはずであり、それが大聖人の御意にもかなうであろうとわたくしは思うところである。

2005/12/30

孤高=閉鎖的?  
邪義破折班に言わせると、浅井先生の「最後に申すべき事」はその内容の大半が創価学会や正信会の受け売りだとのことである。

おそらくそうなのだろう。これはちょっと面白いことだと思っている。

妙信講が解散処分になったのは昭和四十九年。正信会はいつだろう、昭和五十年代であることは間違いない。創価学会は平成になってからである。
つまり、破門三兄弟(?)の中では妙信講が兄貴分なのである。その兄貴は物知らずで弟たちからいろいろ教えてもらってどうにか生きている。
もっとも実力からすれば、創価学会のほうがはるかに兄貴分であるし、正信会はもともと僧侶主体の組織であるから教義に明るいし、宗門の内情にも通じていて当然である。

また、去るものは日々に疎し、ということでもあるかもしれない。
三兄弟の中では創価学会が末っ子になるけれども、逆に言えば近年まで宗門に属していたわけだから、宗門事情に詳しいのは当然かもしれない。いわゆるパイプがいくつもあるのだろう、ゆえに普通だったらおもてに出てこないような内部情報が次から次へと例の怪文書に載るのだと考えられる。

顕正会はまさに「疎し」であって、おそらくはパイプらしいパイプはもはや何もないのだろう。もっとも口の悪い人であれば、もともと浅井には宗門とのパイプなどなかった、などというだろうが・・・

2005/12/29

やっぱり陰弁慶かも?  
邪義破折班の文書は誰が書いたものかわからない、いわゆる文責がはっきり明示されていない、それゆえに怪文書と同一視されても仕方がないのではあるまいか、しかし、今回は宗務院監修となっているので正式文書である、まことに正々堂々としている、という意味をつい先日書いた。

だが、読んでいるうちにそうでもないような気がしてきた。

「砕破す」では、そこらじゅうに「昭衛よ」という呼びかけがなされている。おそらく知らない人がこの文書を読んだら仰天するに違いない、いったいなんなんだこれは・・・と。

論調というか語調がまるで相手を叱りつけているような印象を誰もが受けるだろう。浅井先生はもう七十を越えた老人である。一方の破折班は青年僧侶をうたっている。別に年齢でどうこういうつもりはないが、一般の人がこの文書を読んでどう感じるか、そこまで考えているのだろうか?

法華講員でも良識派というか穏健派の人たちは、この文書の過激さに嫌悪感すら懐いているのではないかと思う。まさかうちの住職じゃあるまいな、この執筆者がうちの住職だったらイヤだなあ、と思わせるものが文章ににじみ出ている。

何を言わんとしているかというと、やっぱり匿名に等しいのである。さすがに書いている本人も、自分の寺の檀徒には自分が書いているのだとは知られたくないのではなかろうか? ようは匿名性を利用して言いたい放題を言っているようなものなのだ。

それはわたくしも同じではある。

ただし、話を戻そう、「昭衛よ」である。
この文書のそちこちに汝浅井昭衛云々という呼びかけがなされている。ところが、その呼びかけている側の人物像がまったく見えてこないのだ。
ここまで「昭衛よ」を連発している側の人間が隠れていて見えてこない。これはやはりおかしいのではないだろうか?

この文書から伝わってくる過激さが本物ならば、この執筆者こそ浅井先生とサシで対決したらどうかと思う。
それができないということは、やはり今日のタイトルどおりである、という結論にならざるを得ないような気がするのであるが、違うのであろうか?

2005/12/28

駄文はどっちだ?  
邪義破折班によれば、日顕上人の御許に届けられたものと、後に書籍化されたものでは内容に相違があるという。いわく、何の断りもなく御法主上人に送付した文書に全くない文章が付け加えられている、と。
この相違については、どこかのサイトに対校が載っていたけれども、今はちょっと見つからない。しかし、その時の記憶ではそれほど問題になるところはなかった。まさに完全主義者の面目躍如である。後の文章のほうがより洗練されていることは一目瞭然だった。ただし、完全主義という意味ではさらに、加筆修正した旨の文言を添えるべきということなのだろう。

一、序──これまでの経緯≠破折す

特に書くこともないのであるが、次の文章が面白かった。

大聖人一期の御遺命が、広宣流布の暁の国主立戒壇の建立であることは『一期弘法抄』『三大秘法抄』の聖文に明々白々ではないか。

わたくしは声を出して笑ってしまったくらいである。盗人猛々しいとはこのことか?
浅井先生はどういう気持ちであろう。
国主立戒壇から「主」を抜けば国立戒壇となる。逆に言うと、浅井先生が一貫して叫び続けてきた文言に「主」を加えただけの文章である。

もちろん破折班にいわせれば、顕正会の国立戒壇とは意義も内容も異なる、ということなのだろうが、わたくしはどっちでもいいと思っている。まあ、そうすると、御法主上人が国立戒壇を言わないと決められたのだから、やはり国立戒壇は言わないほうがいいということになる。これはまた後段において論じることになるだろう。

汝の二度にわたる対決≠フ申し入れなるものが、到底実現することは有り得ないことを見越した顕正会員向けの狡猾なパフォーマンスであることは、已に我らが指摘したところであるが、これを証明する出来事がある。

昨年の今ごろ、妙観講の大草講頭と浅井先生との法論が実現せんとしていた、という出来事についてである。

大草氏は即刻喜んで受けて立つ旨を顕正会員に伝えたが、汝は今までの経緯からして勝ち目がないと考えたのであろう、さりとて会員の手前逃げるわけにもいかない。そこで汝は宗門が応じるはずのない無理難題を御法主上人につきつけて対決≠ネるものを要求し、結果的に大草氏との法論対決の回避を狙ったのである。つまり完全に逃げた≠フは汝なのである。まさに汝こそ対決など為し得るはずもない#レ怯者ではないか。

これを持ち出されるとつらいものがある。少なくともネット上ではこの経緯が広く知られているので、会員向けのパフォーマンスだと言われると、確かにそうかもしれないという気にもなるところである。
おそらく先生としては、大草氏などとは法論したくないのだろうと想像する。けれどもここまで言われたら、やるしかないのではなかろうか?

かつて先生は池田会長との法論を望んでいた。しかし当時は、信徒同士で法論をしてはいけないと宗門で制止していた。今ならその障壁はない。
そして、今回の破折班の本は宗務院監修である。その中で、大草氏との法論回避の話題を取り上げているということは、もし浅井先生が大草氏に法論を申し込めば、宗門側がこれを一蹴することはできないという道理にならないだろうか? いわば言質を与えたようなものである。

大聖人の御裁断を仰≠ョべきは御法主上人ではない。天魔その身に入った℃O宝破壊の仏敵、汝、浅井昭衛であると告げておく。

昨日、先生の文章は読みやすいけど破折班のは読みにくい、と書いた。その典型例が上記である。
ともかく破折班の悪いクセは、相手の言葉を使って斬り返す手法を多用しすぎることである。わざわざ色までつけて、余計に読みづらくしている。特に上掲の文章は意味が取りにくく、意地悪く読めばおかしな文章という以外にない。なぜならば、

 以上、用捨は貴殿に任す。小生はただ謹んで
御本仏日蓮大聖人に言上し奉り、御裁断を仰ぎ奉るのみである。


と浅井先生は言っているのである。
先生が御裁断を仰ぎ奉ると言っているのに、どうして上掲のようなことを書くのだろうか?
おそらくは、大聖人の御罰をこうむるのは御法主上人ではなく汝浅井昭衛である、くらいの意味であろう。そのように書けばいいのである。何でもかんでも相手の言葉を奪って斬り返せばいいというものではあるまい。

この部分に限っては、はっきり駄文である。


同日追記:誤解があるといけないので、

さればここに、貴殿の返書における嘘とたばかりを粉砕すると共に、三大謗法を犯して一分の改悔なき貴殿の、天魔その身に入った正体を白日に晒し、以て大聖人の御裁断を仰ぎ奉るものである。

直接的にはこの文章にある「大聖人の御裁断を仰ぎ奉る」を奪って書いたのが既出の破折班の文言であるが、いずれにしてもここでの主語は浅井先生であって日顕上人ではない。

2005/12/27

「砕破す」ついにネット公開す  
なかなか公開されないので何か都合の悪いことでもあるのだろうかと勘ぐっていたが、ようやく「自称冨士大石寺顕正会会長浅井昭衛の最後に申すべき事≠砕破す」がネット公開された。

執筆者名義は毎度のことながら日蓮正宗青年僧侶邪義破折班。そして日蓮正宗宗務院監修となっている。
これはすごい。今までは単なるネット上の怪文書と同列・・・とまではいかないにしても、巌虎独白と大差ない・・・とまではいかなくても、どなたが書いたものかはっきりしない意味では同一視されても仕方がないところがあったと思う。
しかし、今度は宗務院のお墨付きであるから、まことに正々堂々たるものである。

そもそもわたくしは浅井先生の「最後に申すべき事」をまだ読んでいなかった。顕正会員のクセにこの本を持っていないのである。そのうちどこかのサイトが全文アップするだろうと期待していたところ、案の定というべきか、邪義破折班のサイトにおいて参考資料として掲示されたのである。

参考資料<浅井昭衛の駄文『「最後に申すべき事」』全文>

駄文は余計なお世話であろう。
それはともかくわたくしの感想であるが、身びいきを承知でいえば浅井先生の「最後に申すべき事」はよく書けていると思う。もっとも、こんな感想では顕正会員からぶっ飛ばされそうである。先生に対してよく書けているとは何たる言い草か、と言われれば弁解の余地はない。まあ、しかし、ぜんぜんダメである、というよりはマシであろう。当ブログではけっこう先生に批判的なことを書いているので、今回の感想は良心的ではないかと自分では思っている。

先生の文章は読みやすいと思う。
一方の邪義破折班の文章は読みにくい。長ったらしくていけない。読んでいて疲れてくる。
しかし、それは文章のうまいヘタの問題だから、本当は除外しないといけない。内容的にどうかが重要なのであるが、先生の文章では相手の言葉を要約して「取意」のかたちで引用することが多い。これを突っ込まれるとひじょうにつらいところがある。つまり、破折班ではそんなことは言っていない、書いていないというのである。結局、先生のその要約はスリカエであるとか改変であるとか言われてしまうのである。これはつらい。
なぜならば、先生の文章が読みやすいのはこの要約にあるからなのだ。

今日は朝から先生の「申すべき事」を読み、続いて破折班の「砕破す」を読んだのだが、さすがに途中で疲れてきてイヤになってきた。それは分量の問題もあるが、やはり文章が読みにくいからだと思う。
いずれにしても文章のうまいヘタは抜きにして内容を吟味しないといけない。
これは追々やっていこうと思う。

先生の文章で誤字がいくつかあった。
わたくしは日顕上人の御許に送付された原文を知る由もないし、先に書いたごとく顕正会版の本も持っていない。よって、これは破折班の入力ミスかもしれないが、いちおう気がついたところを指摘しておこう。

 だから、虫払法会の説法を細井管長の信念にもとずく「御本意」のごとくいうのも、訓諭が「僧俗一同を慰撫教導するため」に出されたというのも、またこの意を体して汝が「国立戒壇諭の誤りについて」を書いたというのも、すべては真っ赤な嘘である。


ゆえに日興上人の「大石寺大坊棟札」には
 「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」
と記され、この相伝にもとずいて第二十六世・日寛上人は
 「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。御相承を引いて云く『日蓮一期の弘法 乃至 国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』と云々」(報恩抄文段)とお示し下されている。



 汝は、国立戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊を、国立戒壇を抹殺するための正本堂に長きにわたって居え奉ったが、これはどの不敬冒涜があろうか。


もとずく、もとずいて、これはど・・・完全主義の浅井先生がこのような間違いをするとは思われない。

2005/12/26

一切の諸戒の中の第一は不殺生戒  
 不殺生戒と申すは一切の諸戒の中の第一なり。五戒の初めにも不殺生戒、八戒・十戒・二百五十戒・五百戒・梵網の十重禁戒・華厳の十無尽戒・瓔珞経の十戒等の初めには皆不殺生戒なり。儒家の三千の禁めの中にも大辟こそ第一にて候へ。其の故は「遍満三千界、無有直身命」と申して、三千世界に満つる珍宝なれども命に替る事はなし。蟻子を殺す者尚地獄に堕つ、況んや魚鳥等をや。青草を切る者猶地獄に堕つ、況んや死骸を切る者をや。是くの如き重戒なれども、法華経の敵に成れば此を害するは第一の功徳と説き給ふなり、況んや供養を展ぶべきをや。故に仙予国王は五百人の法師を殺し、覚徳比丘は無量の謗法者を殺し、阿育大王は十万八千の外道を殺し給ひき。此等の国王・比丘等は閻浮第一の賢王、持戒第一の智者なり。仙予国王は釈迦仏、覚徳比丘は迦葉仏、阿育大王は得道の仁なり。

秋元御書である。
不殺生戒の大事を仰せられる段であるが、注目すべき御指南がたくさんある。

まず、青草を切る者は地獄に堕ちるという、これは驚きである。すると大聖人は肉食どころか草食すらなさらなかったのであろうか? こうなるといったい何を食べればいいのかわからなくなる。
また、いわんや死骸を切る者をや、というのがよくわからない。この御論法では、青草よりも死骸のほうに価値があることになる。一見すると逆のような気がするのであるが、わたくしの理解の仕方が間違っているのだろうか?

さて、不殺生戒とはきわめて重要な戒であるが、法華経の敵に成れば此を害するは第一の功徳、と仰せられる。
これはまさにそのとおりなのだろう。ただし、現代においてはこれをどのように適用すればいいのかが問題になってくる。立正安国論における斬罪の用否の御指南を拝すればおのずと答えは出てくるのだろうが、それにしても「覚徳比丘は無量の謗法者を殺し」云々には驚かざるを得ないところである。
ここは有徳王の誤記であると言えなくもない。しかし、すぐ後ろに「此等の国王・比丘等は」云々とあるごとく、単なる誤記ではないのである。ようするに、大聖人はあえて意識的に、比丘が殺人行為に及んだことを強調あそばしておられると考えられるのである。

実際に覚徳比丘が武器を手にとって相手を殺したとの御意であろうか?
少なくとも現代的に考えて、有徳王に殺人行為を命じた、あるいは教唆というのだろうか、その意味では覚徳比丘も同罪となるのだろう。
もちろんここでいう同罪は一般的な概念であって、大聖人の仰せではまさに第一の功徳ということになる。一般的に殺人は罪であるが、謗法者を殺すことは功徳となる。
これはいわゆるポアの考え方であって、現実に某教団がこれを実行して大事件となった。
さすがに今のわたくしには難しい問題である。よって、今後の課題ということでこのくらいにしたいと思う。

ちなみに秋元御書の文末のほうには次の御文がある。

木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし、春は蕨を折りて身を養ひ、秋は果を拾ひて命を支へ候ひつる程に、

これは先の不殺生戒の段にある、

青草を切る者猶地獄に堕つ、況んや死骸を切る者をや。

これと矛盾しないだろうか?
菓実を拾うということは生っているものを採るのではなく落ちるのを待つのだろうから、これはいいとしよう。しかし、蕨や木の皮はどうだろう。それから鹿の皮にしても、死骸を切る者に相当するようにも考えられる。
まるで大聖人にケチをつけているようなものだが、しかしどうだろう、という素朴な思いがわたくしにはある。

2005/12/25

五逆罪と殺生罪の関係  
昨日の投稿はあまりよくない、こなれていないという感じが否めない。地震が来ればすぐにでも崩壊しそうである。そこで今日は少しばかり耐震補強工事を施しておきたい。

「事の殺・理の殺」などという法門は存在しないだろう。わたくしが勝手に考えたのである。しかし、整理の仕方としては、それほど悪くないと思っている。
白米一俵御書に、事供養・理供養の法門が説かれている。これは、身命を法華経に奉ることであって、いわゆる殺生とはまったく方向性の違うものであるが、事・理の用法としては援用できるのではないかと思って使わせていただいた。

五逆罪はすべて「殺」の概念に統一されていると思う。五番目の破和合僧はどうかといえば、和合僧を一つの生命体とみなせば「破」は「殺」と同義である。しかし、生命体云々の言い回しを嫌うムキもあるかもしれないので、別の角度から説明をしよう。
報恩抄にいわく、

智証(ちしょう)の門家園城寺(おんじょうじ)と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。

諸人手をたヽき舌をふるふ。在世には仏と提婆(だいば)が二つの戒壇ありてそこばく(若干)の人々死にヽき。

大げさにいえば宗教戦争。控えめには、内紛が激化すれば死人が出ることもある、くらいでどうだろうか?

さて、殺父・殺母・殺阿羅漢はいうまでもなく殺人である。出仏身血はどうかといえば殺人未遂である。いや、殺仏未遂というべきか?
ここで問題になることは、未遂事件を不殺生戒の違犯すなわち殺生罪に適用できるかどうか、これをもっと厳密に考えないといけないだろう。おそらく、「法華の心を死す」という表現はヒントであり、直接の回答ではないに違いない。

残念ながら、現在のわたくしには適切な回答を見出せない。
適切かどうかわからないが、次の兄弟抄の御文は相当に示唆的であろう。肉食の問題とも関連していて、かなり核心に迫っているような気がする。

天は賢人をすて給はぬならひなれば、天、白鹿と現じて乳をもって二人をやしなき。叔せいが云はく、此の白鹿の乳をのむだにもうまし、まして肉をくわんといゐしかば白ひせいせしかども天これをきゝて来たらず。二人うへて死にゝき。一生が間賢なりし人も一言に身をほろぼすにや。各々も御心の内はしらず候へばをぼつかなしをぼつかなし。

罪にはおのずと軽重がある、「事の殺」が「理の殺」より重いことは自明である・・・と昨日書いた。
五逆罪は殺父からはじまって破和合僧で終わるわけだが、基本的にこの五つは等価ではない、すなわち殺父から重い順になっている。しかし、それぞれの差は僅差であってほとんど等価に近い、ゆえに事・理の差もまた僅差である。・・・大体こんなふうに考えている。

なお、もう一つ付言すれば、基本的に重い順ということは、出仏身血よりも殺父・殺母・殺阿羅漢のほうが重罪だということになる。これは面白いことだ。


平成二十二年二月二十五日追記:御書の表記に欠字があったので追加した。

2005/12/24

不殺生戒の適用範囲  
S@法華講氏からひじょうに示唆に富むコメントをいただきました。
また、つい先だっても富士川氏や会員再び氏よりコメントを頂戴しておりましたが、お返事を申し上げずに失礼いたしました。
いずれも重要なことでありまして、即答しかねる部分もありますので、ここではコメントの一々に言及しませんが、皆さまのご意見は今後の投稿の中に反映させてまいりたいと思っておりますので、どうかご理解くださいますようお願い申し上げます。

以下は独白です。

「たとえ殺意を持っていたとしても、それをひたすら内に秘めて口に出さず、ましてや行為に及ばなければ、それを法律で罰することはできない。仏法では、たとえ行為に及ばずとも、また口に出さずとも、殺意を懐いただけでもそれは罪業となり、そして必ずその報いがある。これが仏法の厳しさでもあり、同時にすぐれている所以でもある。」

引用文の体裁を装っているが、これはわたくしが即興で書いたものである。今まで読みかじってきたこと、聞きかじってきたことを、わたくしなりにまとめたつもりである。

五逆罪と申すは一に殺父、二に殺母、三に殺阿羅漢、四に出仏身血、五に破和合僧なり。今の世には仏ましまさず。しかれば出仏身血あるべからず。和合僧なければ破和合僧なし。阿羅漢なければ殺阿羅漢これなし。但殺父殺母の罪のみありぬべし。しかれども王法のいましめきびしくあるゆへに、此の罪をかしがたし。

この五逆罪の五つは軽重において等価なのかそれとも差別があるのか?
どうも重い順になっているような気がする。殺父がいちばん重罪で殺母が二番目・・・というような順番である。顕正会員はよく知るところだが、四番目の出仏身血がなぜに殺仏ではないのかといえば、「聖人は横死せず」といって仏さまは人に殺されることはないからである。
そして五番目だが、破和合僧は先の四つとやや性質を異にするように感じられる。つまり、仏さまは殺されないといっても相手は殺意を持って仏に対し奉るわけで、ようするに一番目から四番目までは「殺」の概念でまとめられている。だが、おそらく五番目にしても和合僧を一つの生命体と捉えるならば、まさに「破」は「殺」の異名ということができるだろう。

何を言わんとしているか?
不殺生戒との関連で考えるならば、五逆の軽重は順番どおりだと言いたいのだ。もちろん父と母の順番については今日的に問題があるだろうけどそれはさておくことにして、ようは一から三までがいわば「事の殺」で、四と五がいわば「理の殺」である。
事実において殺しを行うことが重罪であることは論をまたない。ただし、仏法では実際に殺人行為に及ばなくても殺意を懐いた時点で罪業となると説く。一昨日、「法華の心を殺す」との表現は不殺生戒との関連を匂わせている、と書いたのはこれである。
当然のごとく、出仏身血は必ずしも出血だけを意味するものではなく、広げていけば仏に殺意を懐くことそれ自体が大逆罪であるということになるだろう。

一昨日、削除ボタンが怖いということを再三書いた。
ようは核の発射ボタンも削除ボタンもボタンそれ自体は同じ重さ・・・いや、もちろん核のボタンには幾重にもセキュリティがかかっているだろうが、わたくしが言いたいのはボタンを押す行為が如何にも簡単すぎて感覚が麻痺してしまいかねないことの怖さなのである。

仮に相手が何かしらの書面を持ってこちらに届けに来たとしよう。たとえその文面が気に入らなかったとしても、それを相手の目の前で破り捨てることができるだろうか? さすがにできないだろう。少なくともわたくしにはできないことである。わたくしならば相手がいなくなってからそっとごみ箱に捨てるのが精一杯である。
ところが削除ボタンともなれば、案外に平気で押してしまえるのである。

話をまとめよう。
罪にはおのずと軽重がある。「事の殺」が「理の殺」より重いことは自明である。しかしながら、現代においては削除ボタンを押すがごとく易々と「事の殺」が可能となってしまった、これはとりもなおさず事と理の境い目がなくなってしまったことを意味する、誰もが殺意を易々と実行できるのである、こうなると殺意を懐くすなわち「理の殺」もまた重罪であり、不殺生戒への重大なる違背となるのではあるまいか?

2005/12/23

人間の生命だけが貴重なのか?  
 では幸福とは何か。“人によってさまざまである”などという曖昧なものではなく、万人に共通する普遍的な幸福とはいったい何であろうか。
(中略)
 すなわち、生命の維持・発展が妨げられない状態を「幸福」といい、妨げられている状態を「不幸」というのである。
 ゆえに死は最大の不幸であり、またこの死をもたらすもの、すなわち生命の維持・発展を妨げるものを、人は不幸として本能的に恐れそして忌みきらう。大地震・戦争等が恐れられ、また病気・貧乏・家庭不和・仲間はずれ・軽侮されるなどが忌みきらわれるのも、これらが直接・間接あるいは肉体上・精神上の差はあっても、生命の維持・発展を妨げる要因になるからにほかならない。


顕正会員にとってはおなじみの、折伏理論書の一節である。

正直に書くと、わたくしはこの文章に少々不満がある。「生命の維持・発展が妨げられない状態が幸福である」といわれれば、そりゃそうだ、って思うけれども、しかしどうだろう、これでは消極的な意味での幸福論に過ぎないと思うのだ。つまり、「発展」はいいにしても「維持」というのはただ生きているだけのニュアンスが強いし、さらに「妨げられない」というのがまた消極的な表現である。

いわばこれは幸福のためのスタートラインであって、ここからが本当の勝負なのであろう。それぞれ自分の志望がある。けれども多くは志望どおりに行かないのが人生である。それはなぜならばライバルがいるから、競争があるからである。つまり、生命の維持はともかくとして、発展していくためには競争に勝ち抜いていかなければならない。

自利利他という言葉があるけれども、実相としては自利害他なのではあるまいか?
しょせん、多くの人は自分を利することばかり考えて他人のことなど考えはしないものである。ましてや競争相手ともなれば、どうやって相手をやっつけるか、ポストが一つしかなければ相手を蹴落とすしか己れの立身出世はないのであるから、自利利他とはならないだろう、これが世の実相である。

確かに、生命次元においては折伏理論書の説明どおりだろう。
しかし、世俗的な意味での幸福論ないし幸福観からすれば、生命の維持発展云々は如何にも場違いであって、わたくし自身はあまり実感を持てないのである。
まあ、こういうことを書くと、オマエは世俗的な名聞名利を追求しているだけの三毒ヤロウだ、みたいなことになるのだろうか?
そうすると、仏法は世俗的な意味を超越したところにある、いわゆる現世利益を否定するものだろうか?
そうではないはずだ。なぜなら顕正会員の体験発表にはきわめて即物的な利益を「功徳の体験」として発表しているものが少なくないからである。

さて、生命次元においては折伏理論書の説明どおり、とすぐ上に書いたわけだが、ここで問題になるのが不殺生戒なのだ。
われわれは生命の維持発展のために食事を必要とする。そして昨日書いたごとく、食事のために牛・豚・鳥などの多くの命を奪っているのである。つまり、人間の生命の維持発展のために、動物たちの生命を奪っている。彼ら動物たちは人間のために、生命の維持発展が妨げられてしまっているのだ。

折伏理論書の理論で行くと、食肉となるために生まれてきた動物たちは不幸である。これはどうにも覆らない事実であろう。
僧侶の肉食妻帯を批判する投稿を目にすることがあるけれども、妻帯はともかくも肉食に関してはもはや僧侶だけでは済まない問題なのではあるまいか、という思いをわたくしは懐いている。
つまり、不殺生戒をまじめに考えるならば、もはや肉食はできないのではあるまいか、と思うのだ。

これは大変なことになってきた。どうしたものだろうか?

わたくしは大の肉好きなのである。

2005/12/22

削除ボタンと殺生罪  
リセットボタンをご覧あれ。

思っていること、考えていることを文章化するのはけっこう難しい。
書きあぐねていることがたくさんある。こうした時に自分の思っていたこと、考えていたことをうまく手短にまとめた文章に出会うと、ヤラレタという思いになる。実際には自分が不勉強なだけで、古今東西のあらゆる文献を渉猟すれば、同趣旨の文章に多く行き当たることだろう。

この筆者(筆名=大愚)は銀行マンだったようであるが、本を何冊も出しているところを見ると、もともと文章家の資質にすぐれている人なのだろう。
それにしても、「学校給食でも自分が食べる牛や豚、鳥などは生徒に屠殺させた方が良いと筆者は考えている。自分の食べ残すフライドチキンに命の重さを実感できる子を育てるべきである。」というのは少々過激であるが、しかし考えさせられるところである。
なぜならば、大抵の人は毎日のように肉を食べているはずである。肉をまったく食べない人もいる。それは例外にしても、普通の人ならば何らかの形で肉を食べているだろう。数えようがないけれども、一人当たりにしてもおそらく累算すればものすごい数の牛・豚・鳥の命を奪っているに違いないのだ。それにも関わらず自分で食肉処理をしたことのある人は皆無に等しい。
事実は自分が手を汚していないだけであって、殺しに加担していることに変わりはないのである。

大愚氏の文章とは順序が逆になるが、核のボタンであるとか、パソコンのキーとりわけリセットボタンは「殺し」に他ならない、ようは簡単すぎること、体を張っていないことがかえって怖いのだ。
つい先日も証券市場で大混乱があった。なんと大愚氏のこの文章は二千年の一月のものである。「インターネットの株取引なども危険である」云々と。まるで予見していたかのごとくである。
わたくしなどは単に駄文を毎日書いているだけであって屁にもならない。けれども、パソコンの入力ミスだけで大事件に発展するということは、わたくしとて他人事ではないのかもしれない。

伝教の「法華経を讃むと雖も還って法華の心を死す」という言葉が頭の中を渦巻いている。
ここでの死す(コロス)というのは殺すと同義なのだろう。ようは殺生ということ、不殺生戒との関連を匂わせているような印象を受ける。これは直接的に殺人であるとか食肉処理を意味するわけではないが、心を死すということは現代的にいえば精神を殺すことに他ならない。

もし不殺生戒の概念をここまで広げるならば、たとえばリセットボタンなどを押す行為も殺生罪になるかもしれない。
当ブログにもスパムがたくさん来ていた。それらをわたくしはすべて削除している。削除ボタンを押すのは簡単である。マウスを目的の位置に合わせてクリックすればいい。それだけで削除できてしまうのである。実に簡単である。体を張っていない。これが怖いのだ。

もし自分の手で殺さなければ牛も豚も鶏鳥も食べてはいけないということになったら、肉食を断念する人が多く出るのではあるまいか? 動物たちだって黙って殺されてはくれないのである。必死に抵抗するだろう。牛は巨大であるから、うっかりすると人間のほうが返り討ちに遭う可能性もある。わたくしとて肉食は諦めざるを得ないかもしれない。

逆にボタンひとつで削除できてしまうこと、ようは抹消・・・ひいては抹殺であるが、あまりにも簡単すぎて実感が持てない。これが怖いのだ。

不殺生戒については今一度考え直す必要がある。


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