2005/12/7

御高徳と申し上げる理由  
何と、「御高徳の上人の御本尊だから有難い」など言っておりますが、この発言は大謗法です。
念のため申し上げておきますが、御本尊様は、大石寺奉安殿にまします戒壇の大御本尊様を根源として、その余の大聖人様直筆の御本尊様も、御歴代上人書写の御本尊も、すべては生身の御仏、大聖人様の御法魂にてまします、と拝するべきであります。
また、御歴代上人猊下の御事績に触れて、その上人のお徳を讃歎する中に、「御高徳」と申し上げることはありますが、「高徳の上人の書写だから有り難い」などとは、全くもって謗法の言葉であります。余の御本尊を蔑む誹謗の言葉であります。
御書写あそばされた猊下様によって御本尊様を差別するこの発言こそ、顕正会の不信謗法を如実に顕わしたものといえます。


前後の文章を省略しているので意味が通りにくいかもしれないが、これは彼の有名な下野正信氏のサイトからの引用である。
ようするに下野氏は、顕正会で日寛上人や日布上人を御高徳の上人と言っているのは怪しからんことだ、と言いたいらしい。
しかし、これはどうだろう。わたくしは、「高徳の上人の書写だから有り難い」などとは全くもって謗法の言葉である、という決め付けは如何なものかと思う。やはり御高徳の上人の御本尊はありがたいのである。これは間違っていない。
うっかりすると下野氏の文章は、御歴代上人にも徳・不徳が存することを認めてしまっているようにも受け取れると思う。つまり、たとえ不徳の上人であったとしても御本尊には差別がない、という論理のように読み取れるのだ。これでは「試練と忍従の歴史」の指導と同じことになる。

わたくしのいわく、富士大石寺の歴代上人はいずれも御高徳にあらざるは無し、なのである。

下野氏に反論するとしたらこれしかないだろうと思う。
ゆえに、日寛上人日布上人が御高徳なのはもちろんのこと、日達上人日顕上人もまた御高徳なのである。。一人として御高徳にあらざるは無し、なのだ。
これなら下野氏も文句はあるまい。

ところが顕正会の場合、日達上人日顕上人を不徳悪徳とするから、おかしくなるのである。その現証が「お取替え」なのだ。結局は下野氏の指摘するごとく、御本尊に差別を設けてしまっていることになる。ゆえにこの文脈で読めば、余の御本尊を蔑む誹謗の言葉、と言われても反論できないと思う。

少なくとも、すでに「試練と忍従の歴史」での見解を反故にしてしまっていることは、どうにも取り繕いようのない事実であろう。


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