2005/12/8

顕正会における達師顕師本尊の取り扱いについて(改訂版)  
当ブログは一話完結を基本としている。しかし、このところ少しばかり話題が錯綜ぎみになっていて、初めての方やたまにのぞいてくださる方にはわけのわからない話になってしまっていることだろうと思われる。そこで今回は、他の投稿を一切参照しなくてもわかるように書いてみたいと思う。むしろ今までの投稿をきれいさっぱり忘れて読んでいただきたい。

顕正新聞第1015号に驚くべき記事があった。
それはある古参会員が今まで所持してきた日達上人の御本尊を日寛上人の御本尊に取り替えたというのである。何が驚くべきことかというと、わたくしの知る限りこれは顕正新聞では初出の記事なのである。つまり、日達上人→日寛上人というケースは今まで報道されたことはなかったと思われるのだ。
従来は日顕上人の御本尊を取り替えたという記事ばかりが目立っていたように思う。
いや、もっとひどい例もあるのだ。
ようするに、法華講員が顕正会に入会するにあたって日顕上人の御本尊を寺院に返してしまうというのである。この事例は顕正新聞第1012号に掲載されている。

「妻の入会後、阿部日顕の本尊を返却するため、○○総班長・班長と共に寺院に行きました」(巌虎註:新聞では○○に個人名が入っている)

「本尊を返却」云々と、これではまるで物扱いである。

いわゆる平成十一年の「御相承の断絶」発言以来、日達上人日顕上人の御本尊を取り替える動きが顕著になったように感じられるが、ことに日顕上人の御本尊を忌み嫌う傾向がより顕著のように思われた。
それは先の「阿部日顕の本尊を返却する」という言葉にもあらわれているし、一年ほど前の新聞では日達上人と日顕上人の御写真を並べて掲示しながら、なんとキャプションには細井管長・阿部日顕と明確な差をつけたこともあったくらいである。
こうした事例を勘案した上で、うがった見方をすれば、言外に「ニセ貫首の本尊はニセ本尊」と言っているに等しいとも思われたのである。

しかし、このちょうど一ヵ月後の新聞に例の古参会員の記事が出る。

有難くも本年七月十六日、浅井先生のご配慮により、我が家でご奉持してきた細井管長の御本尊を、日寛上人御書写の御本尊様に取り替えさせて頂くことが叶いました。
 長年気になっていたことだけに、それよりは朝晩の勤行が本当にすっきりと、また「なんとも有難い」との感激の思いで行うことができるようになり、感謝の思いでいっぱいであります。


あるいはさすがに行き過ぎに気づいたのかもしれない。
最近の創価学会系の掲示板を見ると、いよいよ日顕上人が引退するということで、次の法主についてあれこれ書いている。いわんとしているところは「ニセ法主から相承を受けてもしょせんはニセ法主である」ということのようだ。つまり、日蓮正宗は永遠にニセの血脈を相承していく邪教なのだ、創価学会こそが大聖人の仏法を正しく継承していく唯一の教団なのだ、と言いたいらしい。
創価学会の論理で行くと、もはや日蓮正宗から御本尊をいただくことは今後永遠にないのだろう。ゆえに、独自に本尊を下付するようになったとも考えられる。

しかし、顕正会は違うはずなのだ。
あくまで真の意味での御遺命守護完結の暁には時の御法主上人より御本尊を賜わることを夢見ているのである。だからこそ「ニセ貫首の本尊はニセ本尊」とは口が裂けても言えないし、断じて言ってはならないのである。
ここまで来ると、日達上人の御本尊を取り替える事例を報道した意味が見えてくるのではなかろうか?

つまり、日顕上人は御相承を受けていないから御本尊を書写する資格はない、ゆえに日顕上人の御本尊は認めない、ということではないのだろう。あくまで御遺命違背の貫首なるがゆえに用いない、ゆえに日達上人の御本尊も用いない、という意味なのだと考えられる。

もしこのとおりだとすれば、そこそこ一貫性は保たれているように思う。しかし、厳密には過去の見解と相違しているのである。

ことの序に、このことについて謹んで所信を述べておく。
御本尊七箇之相承にも聞こえるごとく、御本尊を書写・活眼遊ばすお立場は、正しく「代々の聖人悉く日蓮」であらせられる。なればこそ嫡々代々の御本尊に御利益があらせられるのである。
但し、正法に魔障は付きものである。まことに恐れ多いが、御付属とは別な次元で問題の起こることも稀にはあろう。かかる正系門家の非常事態に備えて、日興上人は
「時の貫首たりといえども、仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざること」
と厳誡されたのである。但し、いかなる事態が起ころうとも、清浄の法水にはいささかの変化もない、これが本宗の有り難いところである。
初信の者が見れば、御本尊七箇之相承の御文と、日興上人の御遺誡とは一見矛盾するように見えるが、決してそうではない。まことに、このところに、本宗の令法久住の有り難さが存するのである。しかしながら、初信の者が感情にまかせて軽々しく判断することは厳に謹まなければいけない
(冨士271号)

言うまでもなく、用いないのはその己義であって、御本尊ではなかったはずなのである。しかし、今は明らかに御本尊を用いないという方針に転換している。

この方針が一時的な措置なのか、あるいは今後ますますエスカレートして創価学会のような路線を歩むのか、それは定かではないけれども、顕正会がかなり危いところにいるのは間違いないだろう。

顕正会員は冷静に自己観察をするべきだと思う。


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