2005/12/22

削除ボタンと殺生罪  
リセットボタンをご覧あれ。

思っていること、考えていることを文章化するのはけっこう難しい。
書きあぐねていることがたくさんある。こうした時に自分の思っていたこと、考えていたことをうまく手短にまとめた文章に出会うと、ヤラレタという思いになる。実際には自分が不勉強なだけで、古今東西のあらゆる文献を渉猟すれば、同趣旨の文章に多く行き当たることだろう。

この筆者(筆名=大愚)は銀行マンだったようであるが、本を何冊も出しているところを見ると、もともと文章家の資質にすぐれている人なのだろう。
それにしても、「学校給食でも自分が食べる牛や豚、鳥などは生徒に屠殺させた方が良いと筆者は考えている。自分の食べ残すフライドチキンに命の重さを実感できる子を育てるべきである。」というのは少々過激であるが、しかし考えさせられるところである。
なぜならば、大抵の人は毎日のように肉を食べているはずである。肉をまったく食べない人もいる。それは例外にしても、普通の人ならば何らかの形で肉を食べているだろう。数えようがないけれども、一人当たりにしてもおそらく累算すればものすごい数の牛・豚・鳥の命を奪っているに違いないのだ。それにも関わらず自分で食肉処理をしたことのある人は皆無に等しい。
事実は自分が手を汚していないだけであって、殺しに加担していることに変わりはないのである。

大愚氏の文章とは順序が逆になるが、核のボタンであるとか、パソコンのキーとりわけリセットボタンは「殺し」に他ならない、ようは簡単すぎること、体を張っていないことがかえって怖いのだ。
つい先日も証券市場で大混乱があった。なんと大愚氏のこの文章は二千年の一月のものである。「インターネットの株取引なども危険である」云々と。まるで予見していたかのごとくである。
わたくしなどは単に駄文を毎日書いているだけであって屁にもならない。けれども、パソコンの入力ミスだけで大事件に発展するということは、わたくしとて他人事ではないのかもしれない。

伝教の「法華経を讃むと雖も還って法華の心を死す」という言葉が頭の中を渦巻いている。
ここでの死す(コロス)というのは殺すと同義なのだろう。ようは殺生ということ、不殺生戒との関連を匂わせているような印象を受ける。これは直接的に殺人であるとか食肉処理を意味するわけではないが、心を死すということは現代的にいえば精神を殺すことに他ならない。

もし不殺生戒の概念をここまで広げるならば、たとえばリセットボタンなどを押す行為も殺生罪になるかもしれない。
当ブログにもスパムがたくさん来ていた。それらをわたくしはすべて削除している。削除ボタンを押すのは簡単である。マウスを目的の位置に合わせてクリックすればいい。それだけで削除できてしまうのである。実に簡単である。体を張っていない。これが怖いのだ。

もし自分の手で殺さなければ牛も豚も鶏鳥も食べてはいけないということになったら、肉食を断念する人が多く出るのではあるまいか? 動物たちだって黙って殺されてはくれないのである。必死に抵抗するだろう。牛は巨大であるから、うっかりすると人間のほうが返り討ちに遭う可能性もある。わたくしとて肉食は諦めざるを得ないかもしれない。

逆にボタンひとつで削除できてしまうこと、ようは抹消・・・ひいては抹殺であるが、あまりにも簡単すぎて実感が持てない。これが怖いのだ。

不殺生戒については今一度考え直す必要がある。


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