2005/12/24

不殺生戒の適用範囲  
S@法華講氏からひじょうに示唆に富むコメントをいただきました。
また、つい先だっても富士川氏や会員再び氏よりコメントを頂戴しておりましたが、お返事を申し上げずに失礼いたしました。
いずれも重要なことでありまして、即答しかねる部分もありますので、ここではコメントの一々に言及しませんが、皆さまのご意見は今後の投稿の中に反映させてまいりたいと思っておりますので、どうかご理解くださいますようお願い申し上げます。

以下は独白です。

「たとえ殺意を持っていたとしても、それをひたすら内に秘めて口に出さず、ましてや行為に及ばなければ、それを法律で罰することはできない。仏法では、たとえ行為に及ばずとも、また口に出さずとも、殺意を懐いただけでもそれは罪業となり、そして必ずその報いがある。これが仏法の厳しさでもあり、同時にすぐれている所以でもある。」

引用文の体裁を装っているが、これはわたくしが即興で書いたものである。今まで読みかじってきたこと、聞きかじってきたことを、わたくしなりにまとめたつもりである。

五逆罪と申すは一に殺父、二に殺母、三に殺阿羅漢、四に出仏身血、五に破和合僧なり。今の世には仏ましまさず。しかれば出仏身血あるべからず。和合僧なければ破和合僧なし。阿羅漢なければ殺阿羅漢これなし。但殺父殺母の罪のみありぬべし。しかれども王法のいましめきびしくあるゆへに、此の罪をかしがたし。

この五逆罪の五つは軽重において等価なのかそれとも差別があるのか?
どうも重い順になっているような気がする。殺父がいちばん重罪で殺母が二番目・・・というような順番である。顕正会員はよく知るところだが、四番目の出仏身血がなぜに殺仏ではないのかといえば、「聖人は横死せず」といって仏さまは人に殺されることはないからである。
そして五番目だが、破和合僧は先の四つとやや性質を異にするように感じられる。つまり、仏さまは殺されないといっても相手は殺意を持って仏に対し奉るわけで、ようするに一番目から四番目までは「殺」の概念でまとめられている。だが、おそらく五番目にしても和合僧を一つの生命体と捉えるならば、まさに「破」は「殺」の異名ということができるだろう。

何を言わんとしているか?
不殺生戒との関連で考えるならば、五逆の軽重は順番どおりだと言いたいのだ。もちろん父と母の順番については今日的に問題があるだろうけどそれはさておくことにして、ようは一から三までがいわば「事の殺」で、四と五がいわば「理の殺」である。
事実において殺しを行うことが重罪であることは論をまたない。ただし、仏法では実際に殺人行為に及ばなくても殺意を懐いた時点で罪業となると説く。一昨日、「法華の心を殺す」との表現は不殺生戒との関連を匂わせている、と書いたのはこれである。
当然のごとく、出仏身血は必ずしも出血だけを意味するものではなく、広げていけば仏に殺意を懐くことそれ自体が大逆罪であるということになるだろう。

一昨日、削除ボタンが怖いということを再三書いた。
ようは核の発射ボタンも削除ボタンもボタンそれ自体は同じ重さ・・・いや、もちろん核のボタンには幾重にもセキュリティがかかっているだろうが、わたくしが言いたいのはボタンを押す行為が如何にも簡単すぎて感覚が麻痺してしまいかねないことの怖さなのである。

仮に相手が何かしらの書面を持ってこちらに届けに来たとしよう。たとえその文面が気に入らなかったとしても、それを相手の目の前で破り捨てることができるだろうか? さすがにできないだろう。少なくともわたくしにはできないことである。わたくしならば相手がいなくなってからそっとごみ箱に捨てるのが精一杯である。
ところが削除ボタンともなれば、案外に平気で押してしまえるのである。

話をまとめよう。
罪にはおのずと軽重がある。「事の殺」が「理の殺」より重いことは自明である。しかしながら、現代においては削除ボタンを押すがごとく易々と「事の殺」が可能となってしまった、これはとりもなおさず事と理の境い目がなくなってしまったことを意味する、誰もが殺意を易々と実行できるのである、こうなると殺意を懐くすなわち「理の殺」もまた重罪であり、不殺生戒への重大なる違背となるのではあるまいか?


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