2005/12/25

五逆罪と殺生罪の関係  
昨日の投稿はあまりよくない、こなれていないという感じが否めない。地震が来ればすぐにでも崩壊しそうである。そこで今日は少しばかり耐震補強工事を施しておきたい。

「事の殺・理の殺」などという法門は存在しないだろう。わたくしが勝手に考えたのである。しかし、整理の仕方としては、それほど悪くないと思っている。
白米一俵御書に、事供養・理供養の法門が説かれている。これは、身命を法華経に奉ることであって、いわゆる殺生とはまったく方向性の違うものであるが、事・理の用法としては援用できるのではないかと思って使わせていただいた。

五逆罪はすべて「殺」の概念に統一されていると思う。五番目の破和合僧はどうかといえば、和合僧を一つの生命体とみなせば「破」は「殺」と同義である。しかし、生命体云々の言い回しを嫌うムキもあるかもしれないので、別の角度から説明をしよう。
報恩抄にいわく、

智証(ちしょう)の門家園城寺(おんじょうじ)と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。

諸人手をたヽき舌をふるふ。在世には仏と提婆(だいば)が二つの戒壇ありてそこばく(若干)の人々死にヽき。

大げさにいえば宗教戦争。控えめには、内紛が激化すれば死人が出ることもある、くらいでどうだろうか?

さて、殺父・殺母・殺阿羅漢はいうまでもなく殺人である。出仏身血はどうかといえば殺人未遂である。いや、殺仏未遂というべきか?
ここで問題になることは、未遂事件を不殺生戒の違犯すなわち殺生罪に適用できるかどうか、これをもっと厳密に考えないといけないだろう。おそらく、「法華の心を死す」という表現はヒントであり、直接の回答ではないに違いない。

残念ながら、現在のわたくしには適切な回答を見出せない。
適切かどうかわからないが、次の兄弟抄の御文は相当に示唆的であろう。肉食の問題とも関連していて、かなり核心に迫っているような気がする。

天は賢人をすて給はぬならひなれば、天、白鹿と現じて乳をもって二人をやしなき。叔せいが云はく、此の白鹿の乳をのむだにもうまし、まして肉をくわんといゐしかば白ひせいせしかども天これをきゝて来たらず。二人うへて死にゝき。一生が間賢なりし人も一言に身をほろぼすにや。各々も御心の内はしらず候へばをぼつかなしをぼつかなし。

罪にはおのずと軽重がある、「事の殺」が「理の殺」より重いことは自明である・・・と昨日書いた。
五逆罪は殺父からはじまって破和合僧で終わるわけだが、基本的にこの五つは等価ではない、すなわち殺父から重い順になっている。しかし、それぞれの差は僅差であってほとんど等価に近い、ゆえに事・理の差もまた僅差である。・・・大体こんなふうに考えている。

なお、もう一つ付言すれば、基本的に重い順ということは、出仏身血よりも殺父・殺母・殺阿羅漢のほうが重罪だということになる。これは面白いことだ。


平成二十二年二月二十五日追記:御書の表記に欠字があったので追加した。


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