2005/12/28

駄文はどっちだ?  
邪義破折班によれば、日顕上人の御許に届けられたものと、後に書籍化されたものでは内容に相違があるという。いわく、何の断りもなく御法主上人に送付した文書に全くない文章が付け加えられている、と。
この相違については、どこかのサイトに対校が載っていたけれども、今はちょっと見つからない。しかし、その時の記憶ではそれほど問題になるところはなかった。まさに完全主義者の面目躍如である。後の文章のほうがより洗練されていることは一目瞭然だった。ただし、完全主義という意味ではさらに、加筆修正した旨の文言を添えるべきということなのだろう。

一、序──これまでの経緯≠破折す

特に書くこともないのであるが、次の文章が面白かった。

大聖人一期の御遺命が、広宣流布の暁の国主立戒壇の建立であることは『一期弘法抄』『三大秘法抄』の聖文に明々白々ではないか。

わたくしは声を出して笑ってしまったくらいである。盗人猛々しいとはこのことか?
浅井先生はどういう気持ちであろう。
国主立戒壇から「主」を抜けば国立戒壇となる。逆に言うと、浅井先生が一貫して叫び続けてきた文言に「主」を加えただけの文章である。

もちろん破折班にいわせれば、顕正会の国立戒壇とは意義も内容も異なる、ということなのだろうが、わたくしはどっちでもいいと思っている。まあ、そうすると、御法主上人が国立戒壇を言わないと決められたのだから、やはり国立戒壇は言わないほうがいいということになる。これはまた後段において論じることになるだろう。

汝の二度にわたる対決≠フ申し入れなるものが、到底実現することは有り得ないことを見越した顕正会員向けの狡猾なパフォーマンスであることは、已に我らが指摘したところであるが、これを証明する出来事がある。

昨年の今ごろ、妙観講の大草講頭と浅井先生との法論が実現せんとしていた、という出来事についてである。

大草氏は即刻喜んで受けて立つ旨を顕正会員に伝えたが、汝は今までの経緯からして勝ち目がないと考えたのであろう、さりとて会員の手前逃げるわけにもいかない。そこで汝は宗門が応じるはずのない無理難題を御法主上人につきつけて対決≠ネるものを要求し、結果的に大草氏との法論対決の回避を狙ったのである。つまり完全に逃げた≠フは汝なのである。まさに汝こそ対決など為し得るはずもない#レ怯者ではないか。

これを持ち出されるとつらいものがある。少なくともネット上ではこの経緯が広く知られているので、会員向けのパフォーマンスだと言われると、確かにそうかもしれないという気にもなるところである。
おそらく先生としては、大草氏などとは法論したくないのだろうと想像する。けれどもここまで言われたら、やるしかないのではなかろうか?

かつて先生は池田会長との法論を望んでいた。しかし当時は、信徒同士で法論をしてはいけないと宗門で制止していた。今ならその障壁はない。
そして、今回の破折班の本は宗務院監修である。その中で、大草氏との法論回避の話題を取り上げているということは、もし浅井先生が大草氏に法論を申し込めば、宗門側がこれを一蹴することはできないという道理にならないだろうか? いわば言質を与えたようなものである。

大聖人の御裁断を仰≠ョべきは御法主上人ではない。天魔その身に入った℃O宝破壊の仏敵、汝、浅井昭衛であると告げておく。

昨日、先生の文章は読みやすいけど破折班のは読みにくい、と書いた。その典型例が上記である。
ともかく破折班の悪いクセは、相手の言葉を使って斬り返す手法を多用しすぎることである。わざわざ色までつけて、余計に読みづらくしている。特に上掲の文章は意味が取りにくく、意地悪く読めばおかしな文章という以外にない。なぜならば、

 以上、用捨は貴殿に任す。小生はただ謹んで
御本仏日蓮大聖人に言上し奉り、御裁断を仰ぎ奉るのみである。


と浅井先生は言っているのである。
先生が御裁断を仰ぎ奉ると言っているのに、どうして上掲のようなことを書くのだろうか?
おそらくは、大聖人の御罰をこうむるのは御法主上人ではなく汝浅井昭衛である、くらいの意味であろう。そのように書けばいいのである。何でもかんでも相手の言葉を奪って斬り返せばいいというものではあるまい。

この部分に限っては、はっきり駄文である。


同日追記:誤解があるといけないので、

さればここに、貴殿の返書における嘘とたばかりを粉砕すると共に、三大謗法を犯して一分の改悔なき貴殿の、天魔その身に入った正体を白日に晒し、以て大聖人の御裁断を仰ぎ奉るものである。

直接的にはこの文章にある「大聖人の御裁断を仰ぎ奉る」を奪って書いたのが既出の破折班の文言であるが、いずれにしてもここでの主語は浅井先生であって日顕上人ではない。


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