2006/1/7

ごり押しの意味  
昨日の投稿は重箱の隅をつつくような感じの、あまりよろしくないものだったかもしれない。そこで今日はもう少し概括的に論じてみよう。

二「顕正会もすでに広宣流布≠ニ言った」の嘘との虚言を破す

この一段はごり押しぎみだと書いた。
はっきりごり押しと言い切れないのは、わたくしの性格の然らしむるところである。しかし、「ごり押し」か「ごり押しぎみ」かの相違はあってもその傾向にあることは間違いないだろう。

具体的にいえば、邪義破折班の引く文証の乏しさである。

浅井先生は、正系門家における国立戒壇の文証は枚挙に暇がない、よってその一端を示す、として代表的な例を摘記している。九牛の一毛とまで言っているくらいである。
ところが邪義破折班では、妙信講も広宣流布と言っていた、正本堂に賛同していた、との証拠をいったいいくつ並べているかといえば、ほんの二つ三つである。しかも同じ文証を繰り返し引用している。この繰り返しというのがいかにも「ごり押し」に感じられるところである。

これはずいぶん前に書いたことがあるのだが、もし顕正会のことを本格的に研究している者がいるとしたら、ぜひとも昭和四十一年から四十五年に至る浅井先生の言動を詳細に調べて発表してほしいものである。この破折班にしても創価学会の深道氏にしても、昭和四十年あたりの文証を挙げるだけで、それから四十五年の第一回諫暁までがいわば空白みたいになっていて、はたしてこの期間の妙信講は何をやっていたものか、彼らの文章からは見えてこないのである。
この期間、宗門・創価学会は正本堂完成に向かって大騒ぎしていたわけで、その文証は顕然である。では妙信講はどうだったか? これなのである。

わたくしは何ら資料を持ち合わせていないけれども、おそらく攻撃材料になるようなものは他にほとんど見当たらないのではないだろうか? ゆえに同じ文証を繰り返し使うのではあるまいか?

同じ文証を繰り返し使うのは見苦しい。うっとうしい感じがする。
一般には同じ表現の重複を悪文とする傾向があると思う。もちろん韻を踏むだとか、さまざまの理由であえて重複表現を使う場合もある。当然のこと必要に応じて文証も重複して使用することはあるだろう。
それらを考慮した上で考えても、破折班の文証の提示はどうかと思う。他に適当なものがないから仕方なく同じ文証を繰り返し使っているように感じられるのである。

もし違うというならば、ぜひとも昭和四十一年から二年三年あたりの文証を提示していただきたい。



※考慮した上で考えても・・・別にわざとやったわけではない。普段は書き直すのだが、これは重複表現の一例として残した。


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