2006/1/12

法華講員に人気のある巌虎独白  
富士川氏よりさらなるコメントを頂戴しました。

いったい浅井先生は何をしくじったのか、それについては詳しく書いていらっしゃいませんが、解散・除名ということがその筆頭に上がるのだろうと存じます。
わたくし自身はその時代を知りませんのであまり実感がないというのが正直なところでして、先生の書籍からうかがう範囲ではそれらはいわゆる想定内のことだったのだろうと思っています。むしろそれ以降の前進こそ、道なき道を行くがごとくであって、まさに前途多難であり、暗中模索の前進だった。ゆえに各所において「しくじり」を犯しているようにも感じられるところです。
この辺のことは今までにも書いてきましたが、またこれからも折を見て書いて行こうと思っております。


さて、富士大沢崩れ氏より少しばかり挑発的なコメントを頂戴した。

未来の大理想?はぁ?国主立戒壇が大理想なのか?

昨日の夕方、このようなことを書いておきながらそれに飽き足らず、夜遅くになってまたコメントを入れてきた。

法華講の方々に同意され褒めてもらって、はしゃいでいるのがとても滑稽です。

ある意味これは想定内の出来事であり今さら驚くには値しないのであるが、いい機会なので思うところを書いておきたい。

まず、このところのわたくしの投稿は、どちらかというと邪義破折班の「砕破す」に批判を加えているのである。けっこう辛らつなことを書いているつもりである。特に昨日の投稿では文末において「姑息といわざるを得ない」とまで書いたのである。
しかるに上記の文章は、この投稿のコメント欄に入力されている。これでいくと、法華講員はわたくしの「砕破す」批判に同意して、しかも褒めてくださっているかのごとくである。これはおかしな話である。

はしゃいでいる・・・これはいくぶんかは当たっていると思う。ただし、より正確にいえば、法華講員に褒められたから、というわけではない。実はその昔、法華講員に叱られたことがある。なぜならその頃、わたくしは創価学会員とも同じように親しく接していたからである。つまり八方美人である。
法華講員の中には厳格な人がいて、謗法団体の創価学会の人間とよしみを通じるとは怪しからん、というのだった。この点は立場が違うだけで考え方としては顕正会も同じであろう、ゆえに想定内であり驚くに値しないと書いたのである。

創価学会の人は懐が広いのか、あるいは謗法に対する潔癖さがないのか、そのような指摘をする人はいなかった。
ただし、先の富士川氏の言葉からすれば、旧来の法華講には清濁併せ呑むといった懐の広さをうかがわせるところがあるわけで、これをあながちに悪いことだとは言えないとわたくしは思っているのである。

現在ネット上で顕正会員を名乗って毎日のように発言している人は、わたくし以外にはいないのではないだろうか?
ゆえにひじょうに目立つのだろうと思う。しかもその内容たるや、顕正会員にあるまじき発言を多分に含んでいる。おそらく真面目な顕正会員ならば、これに反発心を懐いたとして不思議はないだろう。それは大いにけっこうなことである。

わたくしを批判するのは大いにけっこうである。
ただし、どうせならば、法華講員であるとか創価学会員を破折したらどうかと思う。インターネットに接続できる環境にいるからこそ、わたくしのところにもコメントを寄せることができるのだろう、それならば法華講員や創価学会員の運営するサイト・・・掲示板なりブログなり、あるいはメールなりにどんどんと法論でも何でも申し込めばいいのではなかろうか?

さて、これはウヌボレもいいところだが、わたくしは平均すると法華講員に人気がある。人気は大げさにしても、わりと好印象をあたえているように感じている。それはなぜだろうか?

わたくしは御法主上人を誹謗したことがないのである。

教義上のことで自分なりの考えから猊下と違うことを申し上げることはあったと思うが、悪口・中傷のようなことはひと言たりとも発したことがないのである。これは断言できる。
顕正会でもかつては阿部管長と呼んでいた。これはそれなりに節度のある呼称だったと思う。ところが一昨年から阿部日顕になってしまった。しかも唐突にである。
わたくしはネット上において一貫して日顕上人と申し上げている。これはおそらく顕正会員としては異例中の異例であろう。しかし本来はそのようにお呼びしなければならないのである。これは浅井先生の言っていたことでもあるのだ。

ところが下方修正ともいうべきか、今日に至って呼び捨てになってしまった。
もはや浅井先生には、日顕上人と申し上げる期は到来しないのであろうか?

あるいはこれが最大のしくじりだったかもしれない。


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