2006/1/14

妙信講が世間に認知された時期  
昭衛よ。汝の目は節穴か。日達上人は昭和四十五年四月六日の御虫払会の御説法において、
有徳王・覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並に御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから私は未来の大理想として信じ奉るのであります。(日達上人猊下御説法七頁)
と御指南遊ばされ、「未来の大理想として信じ奉る」とのお言葉をもって正本堂建立がただちに御遺命の達成ではないことを示され、創価学会の行き過ぎを矯正遊ばされるとともに、
今将に世間で噂されておる国立戒壇などという言葉に惑わされず(日達上人猊下御説法八頁)
とも述べられて、汝の国立戒壇論の誤りも破折されておられるではないか。
 汝はこの説法が、その三日前に小生が細井管長と対面した際の強き諫めによって実現したものであることは、汝こそよくよく知っているではないか≠ニいうが、もしも汝の強き諫め≠ノよるものであるならば、なぜ日達上人は国立戒壇を否定されているのだ。それとも汝が日達上人に国立戒壇を否定するよう強く諫めたとでもいうのか。


わたくしはこの部分にかなり驚いた。きわめて重要な問題をはらんでいると思う。
つまり浅井先生は顕正会員をあざむいているかもしれないのである。

「未来の大理想」云々は顕正会の書籍に出てくる。あらゆる書籍に出てくると言ってもいいくらいである。
ようは三日前に浅井先生は日達上人を諫めた、上人は諫めを聞き入れ三日後の御説法において正論を述べられた・・・ということなのである。これを先生は再三再四どころか、これまで何十回にもわたって繰り返し筆に口にあらわしてきた。

ところが邪義破折班によって、この御説法の続きの文章が明かされた。
破折班の指摘は、先の「汝は知らなかったとでもいうのか。そんな姑息な言い逃れは通用しない」と同じものと考えていいだろう。浅井先生は都合の悪い文言を隠していたことになる。

本当にそうなのだろうか?

不思議なことは、今までこのような破折を読んだことがないことである。
もしこんな単純な破折でことが済むならば、とっくの昔に顕正会はつぶれていたのではないかと思う。どうも釈然としないものを感じてならないのである。

どうやら邪義破折班は危ない橋を渡っているようである。

有徳王・覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並びに御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから私は未来の大理想として信じ奉るのであります。(中略)「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」のお言葉を良く拝しますれば、時代に於て王の名称も変ってきます。国に於てそれぞれ変りがあります。然し乍らその言葉は、即ちみんな全部の人が共に信心をするという広宣流布の姿を申されておるのでございます。今将に世間で噂されておる国立戒壇などと云う言葉に惑わされず、ただ広宣流布の時に始めてできる戒壇であります。それが王立であろうが国立であろうが民衆立であろうが全ての正信の信者が集まって戒壇の大御本尊を拝し奉る処こそ、何処でも事の戒壇でございます。(日達上人猊下御説法七〜八頁)

どういうわけか、同じ御説法が最後のほうにまた出てくる。前にも指摘したが、破折班の文章は重複が多すぎるのである。しかし、引用範囲が少し広くなっているので、煩瑣ではあるがここに掲げさせていただいた。

それにしても「今将に世間で噂されておる国立戒壇などと云う言葉に惑わされず」というのは妙信講に当たらないのではないか?

妙信講がメジャー(?)になったのはおそらく創価学会本部襲撃事件からであろう。日達上人の御説法は、妙信講が宗門諫暁を開始したばかりのことであるから、世間でウワサになるわけがないのである。
これはまさに創価学会批判としての国立戒壇批判が世論に上っていたことを示していると考えるのが自然である。そしてこの時期にいわゆる国立戒壇の放棄がなされた。
このように捉えるならば、浅井先生にヤマシイ気持ちは微塵もないだろうと思う。

他にも議論の余地はある。
ここで日達上人は王立だとか民衆立と並べて国立を御説法であられる。もちろん国立を肯定する意味ではない。さりとて否定もされていないのではないかと思われるのだ。
破折班でもいっているように、時代によって変化する部分、流動的な部分なるがゆえに限定的には考えておられない、ということだろう。

ひるがえって先の御指南を拝するならば、今世間でウワサになっている国立戒壇批判は誤解に基づくものであるから惑わされてはいけない、との文脈になるだろう。
ただし、国立に固着しない、拘泥しない、という流れの御説法になろうかと思われる。

もう一点、重要な意味が拝される。

「広宣流布の時に始めてできる戒壇」「戒壇の大御本尊を拝し奉る処こそ、何処でも事の戒壇」

浅井先生によれば日達上人は、
「戒壇の大御本尊まします処は、いつでもどこでも事の戒壇である。したがて正本堂は事の戒壇である」(折伏理論書)
とのごとく、いわゆる事の戒壇の定義を変更してしまったという。

ところが当該御説法では違うことを御指南されている。
広宣流布の時を待って建立するとの御意は従来どおりの定義に適っているのではないか?
しかしながら場所については特定されておられない。天生原を否定なさらないと同時に大石ヶ原とも限定しないのである。

この辺はどのようにも会通が利くところであるが、顕正会員の端くれとして申し上げるならば、日達上人の御説法には三日前の影響が少なからず残っていると言えるのではなかろうか?

結論として、この部分の邪義破折班の指摘はやや表層的であろうと思う。


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ