2006/2/28

御書全集の愛用者  
ところで、御書の件を早速お伺いし、すぐさま返答がございました。

トチロ〜氏のコメントには、どなたにお伺いしたのか書かれていないが、おそらくは御住職であろう。すぐに回答があるというのは有り難いことだと思う。顕正会ではまず考えられないことである。そんなこと聞いてどうするのか、信心は一念信解が大事なのだ・・・などと言われるのが関の山であろう。

本化別頭仏祖統紀

これにはシビレた。富士川氏は守備範囲が広い。わたくしなどは最近になって、ようやく御書の拝読ができるようになってきた程度であって、その先にはまだ踏み込めないでいる。
ようするに、御書がちゃんと読めていないうちから、いろいろなことを読みかじってしまうと軸足が定まらないというか、混乱をきたしてしまうのではないかと思って手を出さないようにしているのだ。
もしかしたら、ずっとこのままかもしれない、という予感がしている。

ひとつの目標はkane氏である。
まあ、迷惑な話であろうが、わたくしはひそかにそのように思っているのである。ともかくも、わたくしはニワカ勉強に過ぎず、kane氏の足元にも及ばない。

その証拠をあげておくと、これは櫻川氏も同様なのであるが、どうやら御書に精通している人というのはいわゆる学会版の御書を愛用しているようなのである。どういうことかといえば、すなわち平成新編が出る遥か以前より御書の研鑽に励んでいるのだ。

わたくしも学会版を持っているし、それはもうずいぶん昔に入手したものである。けれども、あんまり勉強しなかった。
数年前、平成新編を入手して、それから勉強を始めたようなものである。ゆえにニワカ勉強だというのである。

なぜkane氏が学会版を使っているとわかるのか?

実は氏の運営する掲示板すなわち広布最前線に、以前は御書の一節が掲げられていた。そこに「体同異心」と出ていたのである。
また、最近の例では「冑」がある。
これらは学会版の表記であって、平成新編のそれではない。

ともかく、ローマは一日にしてならず、である。

2006/2/27

平成新編御書検索に敬意を表して  
kane氏より、またしても難解なコメントを頂戴したものである。いわく、大聖人が立宗直前に伊勢に立ち寄られたのは参拝ではなく諫暁と拝すべき云々と。

そもそも伊勢に立ち寄られたことの文証がどこに存するのか、わたくしは知らない。しばしば耳にする話ではあるが、その根拠を聞いたことがないと思う。参拝ではなく諫暁というのは、おそらく道理の指すところ・・・つまりそのほうが教学上の整合性がとれるということだろう。
しかし、ひるがえって「なぜ幕府の帰依する東郷御厨が日本第一と仰せか、おわかりですか」がよくわからない。皇室が大謗法だからというが、すでに鎌倉幕府も大謗法なのでは? という疑問がある。少なくともこの御書は弘安二年であるからして、大聖人の三度の諫暁を受け入れなかったことが確定した後の御書となる。

まあ、こうした微妙な見解の相違をあげつらってもキリがないのでこれくらいにして、今日は別のことを書いてみたい。

トチロ〜氏より御書編纂についての御説法を読むように仰せつかっていた。拝読させていただいたが、これがべらぼうに難しい御説法だった。
その続きに大村御尊師の『平成新編日蓮大聖人御書』の編纂についてがあって、最後のほうに「なお、『平成新編御書』について誤字・脱字等その他、お気付きの点がありましたら、教学部までお知らせくださるようお願いいたします」と書かれていた。

わたくしの所持している御書は第二刷であるが、転重軽受法門の中に誤字と思われるところがある。「如来の現在する猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや」である。まあ、これなどはすでに十年近く経っていることだから、わたくしがここで指摘するまでもないだろうが・・・
また、これは誤字ではなくて御真蹟がそのようになっているのだろう、たまたま今回これを書くに当たって気がついたことだが、檀弥栗王というのはこの御書だけの表記であり、他の御書では檀弥羅王となっている。

・・・などと偉そうなことを書いているとひんしゅくを買うことだろうから、少し正直なことを書いておくと、檀弥羅・檀弥栗の違いなどは御書検索を利用させていただいて発見できたわけであるから、ようは他人のふんどしで相撲をとるようなことをやっているわけである。この点は感謝申し上げなければならない。

そこで感謝を込めて御書検索における誤字・脱字を指摘させていただくことにする。

条々御不審の事、私の問答は事行き難く候か。然れば上奏わ経られ、仰せ下さるゝの趣に随って是非を糾明せらるべく候か。

行敏御返事である。「然れば上奏わ経られ」の「上奏わ」は「上奏を」であろう。

また、先日引用させていただいた、富城入道殿御返事では、

又宇治勢田にむかへたる公・・殿上人は甲を震ひ挙げて大音声を放って云はく、義時所従の毛人等慥かに承れ。昔より今に至るまで王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや。

「公卿・殿上人」とするべきところ、「卿」を入れていない。これはおそらく字体が微妙に異なることから異字と判断したためと思われる。実際のところ御書には文字変換できない字がいくつもある。これをどう表記するかは難しい問題である。なにしろヘタな細工をすると文字化けしてしまうからだ。

それから白米一俵御書であるが、どうしたわけか後半部分が白紙状態である。

本日現在の状態をありのままに指摘させていただいた。

2006/2/26

当ブログの基本的スタンス  
現在大石寺信徒ではあられない顕正会員の厳虎様は、御法主の権威など関係ないでありましょうが、我々には重要です。

富士川氏においてはじゅうじゅう承知の上で書いておられることだろうから何も申し上げることはないけれども、他の読者に誤解があるといけないのでいちおう書いておくと、わたくしはあくまで御法主上人を尊崇申し上げているのである。むしろ顕正会員からひんしゅくを買うくらいである。
かつて、御隠尊猊下と法華講員との感動的場面、と題して書いたことがある。これなどは自分で言うのもヘンであるが顕正会員に書ける文章ではないと思う。

そもそも顕正会員ならば浅井先生を尊敬しなければならない。もちろんわたくしの心のうちには先生への尊敬の念がある。
だが、当ブログでは先生すら批判の対象なのである。

わたくしが浅井先生を本格的に批判するようになったのは、一昨年の夏以降・・・すなわち例の幹部大会が終わってからのことである。これは間違いない。

譬えば賢人は国主を重んずる者をば、我をさぐれども悦ぶなり。

これがすべてである。
現在の顕正会ではこの道理がまったく通用しない。ようは狂っているのである。
本有の王法を主張するくらいであるから、さぞや上下関係には厳格なものがあると思われた。ところが先生はみずからそれを打ち破ってしまった。

顕正会にはこれからも新しい人が入ってくるだろう。
彼らは今の顕正会に順応していくのである。御法主上人の権威をないがしろにする今の顕正会にである。
いささか古い顕正会員であるところのわたくしには、違和感をおぼえずにはいられないことだった。明らかに変質してしまった。その文証は顕然である。
ゆえに、わたくしなりに声をあげざるを得なかったのである。

わたくしは、何が正しいか、何が間違っているか、それを自分で確かめる必要があると思っている。
もし、浅井先生の指さされるまま、ということならば自分で考える必要はない。それがまさに今日の顕正会の姿なのであるが、それでいいとは断じて言えないと思うのだ。

そこで当ブログでは自分で考えてみたことを文章化しているのである。
ゆえに、必ずしも顕正会の意見ではないし、また宗門の意見でもない。あくまでわたくしの意見なのである。
はなはだ生意気なようであるが、時には自分で考えることも必要なことであろう。

2006/2/25

「本有の王法=天皇」説の限界点  
もともと頭のいいほうではないので、考えれば考えるほど頭の中がゴチャゴチャになってしまって、もはや収拾がつかなくなってきた。

先日、富士川氏よりコメントをいただいた。
その日のわたくしの投稿と氏のコメントが一致していないのでわけがわからないが、どうやら以前わたくしが「天照皇大神の祭祀継承者というのが如何にも謗法チック」と述べたことについて、「皇室が謗法か?と言う言葉が出てますが、全面的には謗法とはいえまい」として、種々のご説明をなされたようである。

わたくし自身は、仏法と神道との関係性がいまだによくわからない、ということを前にも書いている。さらに突っ込んで書けば、大聖人はあながちに神道を否定していないのでは、という気がしないでもないのである。

去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御くりや、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。

聖人御難事の書き出しである。この後文において大聖人は出世の本懐を御宣言あそばす。ということは、冒頭部分はいわゆる序分の御説法ということになる。大聖人の御出生地には頼朝が立てた天照大神の御厨があり、なかんずく今では日本第一だという。この意味は何か?

而るを安房国東条郷は辺国なれども日本国の中心のごとし。其の故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢国に跡を垂れさせ給ひてこそありしかども、国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋りおぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請の文をもってあをかの小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給ひけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ひぬ。此の人東条郡を天照太神の御栖と定めさせ給ふ。されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房国東条の郡にすませ給ふか。例せば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城国男山に移り給ひ、今は相州鎌倉鶴が岡に栖み給ふ。これもかくのごとし。
日蓮は一閻浮提の内、日本国安房国東条郡に始めて此の正法を弘通し始めたり。


新尼御前御返事の一節であるが、顕正会員もよく知る「此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶け万民は難をのがれん」云々の後段に当たる部分がこれなのである。この新尼抄における御本尊の説明というのは、いわば観心本尊抄を達意的に御説明あそばしたような意味が拝せられるが、そのすぐ後ろの一段において上掲のごとくに御指南あそばす。この意味は何か?

また、kane氏からはたびたび重要なるご教示を賜わっているが、氏は一貫して諫暁八幡抄の御指南にもとづいて正直の人こそが真の国主たることを主張されている。
申すまでもなく、八幡抄は八幡大菩薩を主体としての御指南である。ところが新尼抄ではこれが天照太神となっている。さらに別の御書では、頼朝が日本国の大将になることが出来たのは法華経の御利生だとしている。この不整合は何か?

一見すると、ある時は八幡だったり天照だったり法華経だったりと、大聖人の御指南は一定していないように見える。しかし、まさに五字の大曼荼羅を拝するならば、それらがすべて統合されていることは明らかであろう。

大聖人が御本尊のこと、とりわけ出世の本懐を御述べになられる御書において、天照太神を云々されるということの深意は何であろうか?

わたくしごときにわかることではないが、これらの御指南から言えることは天照・八幡がただちに謗法ではないということだろう。富士川氏の言うように、いろいろのことを踏まえて考察する必要があるようだ。

また、新尼抄の「国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば・・・」という、ここでの「国王」は何を意味するのであろうか? 天皇のことであろうか?
だとすると、この天皇の頂には天照太神は住まわれていないことになりはしないか?

「本有の王法=天皇」はここに音をたてて崩れるか!

2006/2/24

一月度総幹部会における浅井先生講演の問題点  
 大聖人様はこの承久の変の翌年に、御誕生あそばされている。仏法守護の王法が衰微し切った時の御出現です。
 これまた重大な意味があるのですね。
 もし賢王・聖主の御代ならば、流罪・死罪の大難は起こらない。この大難がなければ、下種の御本仏の開顕は遂げられないのです。
 まさしく大聖人様は、三類の強敵を用いて、末法下種の三徳を顕わし給うた。三類がなければ三徳を顕わすことができないのです。このゆえに、大聖人ご出現の時には、本来の王法は衰微して、迫害を加える鎌倉幕府が出現しているのです。


顕正新聞第1024号掲載の浅井先生講演から引用した。
また、顕正新聞の翌号には、幹部の何人かがこの部分を受け取って、班長会などで登壇している模様が報道されている。もちろん浅井先生の指導であるから、幹部たちは肯定的に書いている。

そして王法が衰微し切った「承久の変」の翌年に大聖人様が御出現になられたことにつき、先生は「重大な意味がある」として、もし仏法守護の王法であれば大聖人様を流罪・死罪に遭わせない。ここに謗法の毒に染まった鎌倉政権は大聖人様に対し奉り流罪・死罪に遭わせた。大聖人はこの三類を用いて末法下種の三徳を顕わし給うた。三類の強敵がなければ三徳を顕わすことはできないのであるとの指導には、五体が打ち震え、低頭合掌の他はありませんでした。

しかしこの部分はちょっと乱暴というか粗雑な感じが否めないと思う。

こちらも乱暴に書いてしまおう。
相州は謗法の人ではないのである。逆に皇室こそ大謗法を犯したのではなかったか? ゆえに承久の乱で負けたというのが大聖人の御指摘なのだ。
また、大聖人御出現以降、一向に正義に目覚めない、いわば謗法を犯し続けているのが皇室の姿ではあるまいか?

賢王・聖主どころの話ではない。
浅井先生の文脈では鎌倉幕府=愚王であり、皇室=賢王・聖主となりそうだが、必ずしも歴代天皇すべてが賢王・聖主というわけではないことはわかりきったことである。結局、先生の文脈ではまず結論ありき、すなわち本有の王法ありきになってしまっている感が否めないと思う。

ところで、某幹部の「五体が打ち震え、低頭合掌の他はありませんでした」とは、いったいどなたに低頭合掌するのであろうか?
顕正会の中ではこのフレーズをよく耳にするけれども、会長本仏論との誤解をあたえかねない、まぎらわしい文章だと思う。
もしどうしても使いたいのであれば、「主語」をはっきりと書くべきであろう。

2006/2/23

本有の本当の意味  
昨日の投稿では、本有の王法をさぐるカギとして、大聖人が人王以前すなわち天神七代・地神五代のいわゆる神代のむかしについて、どのように御指南下さっているかが注目されるところであろう・・・などという意味のことを書いた。

しかし、これは考え過ぎかもしれない。
というか、すでに浅井先生によって答えが示されていることを、わざわざ難しい方向に持っていってしまっているだけのことかもしれないと、だんだん思うようになってきた。

大聖人が経・論・釈ないし外典等を引用あそばす時、それが肯定なのか否定なのかをわれわれは正しく拝さなければならない。昨日は、公卿・殿上人らが言った言葉を大聖人は肯定の意味で引用されていると考えられる、しかしそれが世間普通の義によるものか仏法上の意義を持つものなのか判断が難しい、という意味を書いたわけであるが、浅井先生が一月度総幹部会において引用した諸御書を素直に拝せばその指し示すところは明らかではなかろうか?

天照太神は久遠下種の守護神であり、その本地は教主釈尊である。ゆえに日興上人は仏法と王法は本源体一であると仰せになられたのであろう。
また、事の広宣流布の時に出現される国主は無辺行菩薩の化身である。だからこそ本化国主と御表現あそばすのであろう。

これらはもはや世間普通の義を超越している、まさに仏法の領域である。

だが、これで終わるとまた批判を受けることになるだろうから、もう少し話を進展させてみよう。

「本有の王法」は存在する。
なぜならば十界本有常住だからである。最近の顕正会員は知らないだろうが、昔の経本には十界本有常住と書かれていた。おそらく今でも大石寺蔵版の御経本にはあることだろう。
単純に言えば、御本尊には十界のすべてが認められている、そのうちの天上界に属する聖衆こそ、まさしく本有の王法なのではなかろうか? そして天照太神・八幡大菩薩は日本における本有の王法ということになる。

つまり、本有の王法というのは永遠に天照・八幡なのである。皇室はその子孫であり、王法に他ならないが、あくまで「王法」であって「本有の王法」ではない。これでどうだろうか?

天照太神の本地は釈尊である・・・はたして、そこに血のつながりがあるのか?
八幡大菩薩にしても、むかし霊鷲山で法華経を説いたというけれども、そこには血のつながりがあるのか?
三大秘法抄には大聖人が二千余年前に釈尊より付嘱を受けたことが説かれている、すなわち上行菩薩であられることを御みずから宣言あそばす、だが二千余年前の上行菩薩と大聖人に血のつながりがあるとは聞かない。

それはそうである。いわゆる化身とか権化というものは、そのような表面上の血統などを問題としていないのである。

してみると、天照・八幡の子孫というだけでは本有の王法たり得ないことは自明であるし、未来においても無辺行菩薩の化身とされる御方が皇室の血統とは必ずしもならないのかもしれない。

それにしても、最近はこればっかやっているなあ。

2006/2/22

本有の王法を探る鑰  
さすがはkane氏である。

わたくしは昨日の投稿において、少しミスを犯した。誰かに指摘されるかもしれないとは予想していたけれども、やはり御書に精通しているkane氏が指摘してくださった。

言い訳がましいことを承知で、いくつか書いておこう。
まず、引用の御書がやや長いので、どのように切るか迷っていた。わたくしが利用させていただいている御書検索では、三箇所の王法が全部いっぺんには出てこない、というか文字化けしてしまっていて、そのままでは使えない。ようするに、横着して検索だけで済ましているわけではなくて、ちゃんと原文を拝読して引用範囲を決めているのである。
もう一つの理由としては、実は今日の話につなげるつもりがあって、少し課題を残しておいたのである。・・・というのは、当ブログは今でこそコメントをたくさんいただくことができて有り難い限りであるが、はじめの頃はそうでもなかった。ほんとの独白だった。そこでネタに行き詰まらないように、わざと課題を残して置くという書き方をしていたのである。今でもその手法を使っていることは、最近の投稿をご覧いただいてもわかることだと思う。

で、今日はまさに「本有の王法=天皇」の可能性というタイトルで書こうと思っていた。
ようは、昨日の投稿では必ずしも「本有の王法」とはしていないわけであって、当時の一般的・平均的な認識が「王法=天皇」なのであろう、といったところで筆を止めたつもりだったのである。ゆえに最後に書いたことは、大聖人が皇室に厳しい眼差しをそそいでいらしたのはもしかしたら本有の王法なるがゆえなのかもしれない・・・との可能性を論じつつも、これでいいかといえば不安が残るというようなことを書いて締めくくったわけである。

そもそも浅井先生ほどの人がこの御文を見落としたとは思えない、もしかしたら切り札として残しておいたのではあるまいか? とわたくしは思ったりするわけである。

昔より今に至るまで王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや。狗犬が師子を吼えて其の腹破れざること無く、修羅が日月を射るに其の箭還りて其の眼に中らざること無し。遠き例は且く之を置く。近くは我が朝に代始まって人王八十余代・・・

すなわち先生が三十八用例から漏らしてしまった御文がこれなのである。
ここでは「遠き例は且く之を置く」として、人王以前の例が示されていないことが注目される。つまり、最初の「昔より今に至るまで」というのは、まさに「久遠の昔より」という意味を含んでいるのではないのかと思われるのである。もしそうであれば、まさに「本有の王法」の有力な文証となるのではあるまいか?

ところがkane氏の指摘どおり、

又宇治勢田にむかへたる公卿・殿上人は甲を震ひ挙げて大音声を放って云はく、義時所従の毛人等慥かに承れ。昔より今に至るまで王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや・・・

このような文脈になっているわけであって、これは大聖人の御言葉ではなく、公卿・殿上人のセリフなのである。ゆえに、これをもってただちに「本有の王法」の文証とすることはできない。さて、どうしたものであろうか?

ひとつの考え方として、大聖人が引用文をどのように扱っていらっしゃるか・・・つまり、肯定的な引用なのか否定的な引用なのか、ということがあると思う。例えば、未有一人得者などは否定であるし、理同事勝もそうであろう。逆に当然のことながら亦於現世得其福報・当於今世得現果報などは肯定である。
また、例は悪いが、浅井先生は創価学会と妙信講の実力差を「竹槍で戦車に向い、小舟が戦艦にぶつかる」ごとくに表現する、これなどは創価学会の実力を認めている意味では肯定になるわけである。
つまり、大聖人は公卿などが言ったとされる言葉を御引用あそばしているわけであるが、この部分に関しては肯定の意味で引用していると考えて差し支えないのではないかとわたくしは思う。

その上で問題となることは、これが世間普通の義によるものなのか、仏法上の意味を持つものなのか、それをどう判断するかであろう。

そのカギは遠き例である。
すなわち「遠き例は且く之を置く」として省略されている部分がカギなのだと思う。これが具体的にどのような内容であるか、それがわかれば結論が出るに違いない。

このことについての具体的な御指南を、はたして大聖人はどこかに御残し下さっているのであろうか?
残念ながら現在のわたくしには思い当たるところがない。

2006/2/21

「王法=天皇」の文証  
富士川さん、できますればコメントは適切な場所に入れていただきたいと存じます。
サイドバーのところに最新順でコメントが並ぶようになっておりますので、古い記事についてのコメントであっても見落とすことはないと思います。ただし、申し訳ないですが、お返事のようなことは出来かねる場合が多くございますので、そこのところはどうかご理解くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

以下は昨日の続きです。

昔より今に至るまで王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや。狗犬が師子を吼えて其の腹破れざること無く、修羅が日月を射るに其の箭還りて其の眼に中らざること無し。遠き例は且く之を置く。近くは我が朝に代始まって人王八十余代の間、大山の皇子・大石の小丸を始めとして廿余人に、王法に敵を為し奉れども一人として素懐を遂げたる者なし。皆頚を獄門に懸けられ、骸を山野に曝す。関東の武士等、或は源平或は高家等、先祖相伝の君を捨て奉り、伊豆の国の民たる義時が下知に随ふ故にかゝる災難は出で来たるなり。王法に背き奉り民の下知に随ふ者は、師子王が野狐に乗せられて東西南北に馳走するが如し。今生の恥之を何如。

朱文字で示したごとく、ここには三箇所にわたって「王法」が出てくる。
ところが平成二年の諫暁書には、このうちの一つが出ていない。完全主義者の浅井先生にしてはめずらしいミスではなかろうか?

それはともあれ、この御文はものすごいと思う。
浅井先生は王法の定義として、「王法とは、広義にいえば仏法と対置する国家の存在そのものであり、狭義にいえば王の威光勢力すなわち国主の統治権・国家権力・政治・国法等を意味する」としている。
しかし、そんなまどろっこしい説明を必要としないくらい、王法の何たるかを端的にあらわした御文が弘安四年の富城入道殿御返事なのである。
申すまでもなく、ここでの王法はイコール天皇であって、他の会通はあり得ないと思うがどうだろうか?

ただし、顕正会員は安心できない。
御書は文脈を正しく拝さなければ意味がない。すなわちkane氏の指摘どおり、ようはこれほどの権威ある皇室であっても真言の悪法を信用したがゆえに大変なことになっちゃった・・・というような文脈になっているのである。御書を読むのが苦手というのならば、浅井先生が示した三十八箇所の引用部分だけでも確認してみるといいだろう。ことに仏法と王法の関係を論じている御文は、その大半が同じ結論になっているのである。

これをどう会通するか、よく考えないといけないだろう。
いちおう逆説的に、大聖人は皇室が本有の王法であるからこそ「何をやっておるか!」との厳しい眼差しをそそいでいらしたのだ・・・という説明は可能かもしれないが、はたしてこの程度の説明でよいものかどうか、わたくし自身は少し不安を懐いている。

2006/2/20

王法の用例が三十八箇所というのは本当か?  
今日あたりは何を書いていいものか迷うところである。
多種多様のコメントが寄せられて、しかも現在進行形でもあるから、どのように応じてよいものやら・・・

・・・こういう時は得意の独白モードに限る。

御書における「王法」が、果して阿部教学部長のいう「あらゆる社会生活の原理」を意味するか、あるいは「国家・王の威光勢力・国主の統治権・国家権力・政治・国法」等を意味するかは、御書における用例を拝する以外にない。重要なことなので、繁をいとわず御書中の全用例を拝することにする。
(中略)
以上が、御書中の全用例三十八箇所である。

「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」からの引用である。
今日でこそ、御書検索は容易なことであるが、平成二年当時はどうだったであろうか? 浅井先生においては自分で御書を丹念に拝読して、王法の用例をピックアップしていったのであろうと想像する。これは大変なことである。

自分はこの平成二年の諫暁書を何度となく読んでいるが、はっきり言ってこの部分はすっ飛ばして読んでいた。実は案外に、御書を読まない顕正会員が多いように思う。折伏理論書でも同様に、御書をすっ飛ばして読んでしまっている人が多いようなのである。
ようするに、御書は古文であって取っ付きにくい、それで理論書で言えば、地の文すなわち浅井先生の言葉だけを読んで、御書は飛ばしてしまっているような読み方の会員が少なくないようなのである。わたくしもそうだったのだ。

今はようやく拝読ということがわかってきた。ようは理解できるかできないかではなく、大聖人の御説法を復唱できるということの有り難さなのである。
通常、文章というのは意味がわからないとつまらないし、読めないものである。しかし、御書は意味がわからなくても、有り難いとの思いだけで、読めてしまうのだ。
別の言い方をすると、つまらないと思っているうちは、本心から有り難いとの思いを懐いていないわけであって、いわゆる一念信解に至っていないということなのだと思う。

これはまた叱られそうだが、折伏理論書は地の文を読むのではなく、引用の御書を読むべきなのである。

さて、今日は宿題にしておこう。
浅井先生いわく、「王法」は御書に全部で三十八箇所あると。
わたくしは、もう一箇所あるような気がするのだが・・・

2006/2/19

護法の精神みなぎる顕正会員のコメント募集中  
本有の王法説などというニセの教義を発明
本有の王法説などというウソの教義を発明


kane氏のコメントである。

浅井先生ないし顕正会の主張する「本有の王法」をニセの教義、ウソの教義とまで言い切っておられる。
誤解のないように書いておくと、おそらく浅井先生の発言に「本有の王法説」はないと思う。しかし、だからといって、kane氏の批判が当たらないわけではない。顕正会員は、「本門戒壇の本義」に見る本有の王法論に付されている氏のコメントをよく読む必要があるだろう。

わたくしの読むところ、どうやら浅井先生の主張は氏によってあらかた破折されてしまったように感じるのであるが、違うであろうか?

もし護法の精神みなぎる顕正会員がおられるのであれば、ぜひともここに反論のコメントを寄せられることを期待したいと思う。
いや、別にわたくしは中立を装っているわけではない、すでに何度も書いてきたように、今回の皇室典範改正論議の中で出てきた女系天皇の問題については法義上の反対理由が見出せない、というのがわたくしの立場なのである。ゆえに部分的にはkane氏の主張に近い、よって氏に対して真っ向から反論を書く立場にはないと考えているのである。

ただし、つい先日、わたくしは次のように書いた。

天皇が戒壇建立の意志を持てば天皇たった一人であっても戒壇建立は可能なのではあるまいか?

当然に、これはkane氏の意見と異なるだろうし、顕正会でもここまで言う人はいないだろうと思う。
現実問題としては、天皇に戒壇建立の意志を持たしめることは簡単なことではなく、あるいは日本国民全員を折伏するに匹敵するくらいのことかもしれない。つまり、往いては同じということになる。

だが、もしかしたら日本人全員が戒壇建立の意志を持ったとしても、天皇一人がダメだと言えば戒壇建立は不可能なのでは? ということまでもわたくしは考えたりしている。つまり、日本国民の総意に基づくとされるのが天皇の地位であるが、わたくしは日本国民の総意を上回るのが天皇の権威であろうと。
ここまで書く以上はそれなりの根拠を示さないと叱られそうであるが、実はkane氏のコメントにそれは記されているのである。

同様に、御書の中で、日本のことを「神国」と称えたり、日本開闢当時の国主として天神七代・地神五代に言及されたり、天神の子孫である皇室に背いて滅んだ者の歴史上の先例を列挙されたり等、皇室の力と徳の絶大さ・皇室の不滅性をことさらに強調する御記述をなされているその御真意というのは、「それほどまでに力と徳に優れる日本の皇室でさえも、仏法に背けば必ず滅ぶのだ」という仏法の厳しさを明確に示すための一種の修辞なのです。

「力と徳に優れる日本の皇室」というのが大聖人の御認識であられる。もちろん「仏法に背けば必ず滅ぶ」ことは道理であるが、仏法に背かなければ「力と徳に優れる日本の皇室」にゆるぎはないのではないか?

大聖人の御誕生は承久の乱の翌年とされている。
ゆえにもっぱら大聖人は鎌倉幕府への諫暁に終始された。しかし、三度目の諫暁を終えられて、身延に入山あそばす。

之を申すと雖も未だ天聴を驚かさヾるか。事三箇度に及ぶ。今諫暁を止むべし。後悔を致す勿れ。

あまり指摘されないところであるが、大聖人が三大秘法を開顕されたのはこの未驚天聴御書の後である、いや、もちろんそれ以前にもあることはあるけれども、通常は法華取要抄を指すと思う。より具体的に言えば、本門の題目は立宗時に、そして本門の本尊は佐渡期に、ということでここに来てようやく本門の戒壇を示されたわけである。

このことが逆説的に、勅宣の必要性を証明しているように感じられるのは、わたくしだけであろうか?

鎌倉幕府に対する諫暁では戒壇のことを一切示されなかった、それが幕府への三度の諫暁を止められた後になってはじめて戒壇を仰せ出だされた・・・このことがわたくしにはひじょうに示唆的なことだと感じられるのである。


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