2006/2/12

勅宣必要論の一考察  
さすがは富士川氏である。
直接的には浅井先生を破折しているわけであるが、間接的には邪義破折班を破しているようにも感じられる。
わたくし個人としては、もし破折班が勅宣・御教書の代替案を具体的に提示できるものならば、それを拝見した上で勅宣不要論を支持してもいいと思っている。富士川氏にしても「三大秘法の御相承を受けし御一人に従い申し上げるしかあるまい」ということであるから、時の猊下が具体案を御指南になればそれに随従するのであろう、そうすると往いては同じということかもしれない。

そもそも三大秘法抄はムダのない御書である。
いやいや、こんなこと書くと他の御書にはムダがあるみたいに誤解されそうであるが、ようは体脂肪率を極限まで落とした御書が三大秘法抄であって、御法門のことしか書かれていないという意味で、他の御消息とは異なる印象を受けるのである。
つまりは、五大部・十大部などの法門書の系列に属する御書だということであるが、さらには大部の御書と紙数において異なっている、すなわちきわめて短い御書なのである。
よって、広略を捨てて肝要を好むがごとき、研ぎ澄まされた御書だと申し上げたいのである。

この拝し方でいくと、勅宣・御教書を不要とすることはできないのではないかと思う。
現代においては直ちに、すなわち直訳的に当てはめることはできない、ということなのかもしれないが、その場合には意訳的であっても何らかの形で勅宣・御教書を実現させることがこの御書の拝し方として当然のあり方ではないかと思う。
ゆえに、建築許可証という解釈もあったわけであろう、これはマズイにしてもだからといって不要としてしまうのはさすがに行き過ぎというものである。

今朝、三大秘法抄を拝読して、いくつか発見があった。

夫法華経の第七神力品に云はく「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」等云云。釈に云はく「経中の要説、要は四事に在り」等云云。

これが冒頭の御文である。
要を以て之を言わば・・・経中の要説、要は四事に在り、と。これは「当御書においては肝要のみを記して余事を交えず」との御宣言なのではあるまいか?

問ふ、寿量品は専ら末法悪世に限る経文顕然なる上は私に難勢を加ふべからず。然りと雖も三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず。汝が志無二なれば少し之を言はん。

以下、本尊・題目・戒壇と宣示顕説あそばしていくわけであるが、ここに「少し之を言はん」とあることが注目されるところである。「少し」なのである。

つまり、広説ではない、略説でもない、肝要のみを記した御書と申し上げていいのではなかろうか?

よって、勅宣不要論は成立しない、と結論したいと思う。


それからもう一点、こんなこと書くと叱られるかもしれないが、大聖人はけっこうアバウトなところがあるので、勅宣・御教書についてもそれほど厳密な定義に基づいて仰せられたとは感じられないのである。
ゆえに、天皇の詔勅・幕府の令書、という浅井先生の説明もあながちには外れていないのではないかと思う。


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ