2006/2/14

別して・・・の続き  
さて、勅宣と御教書ではどちらが重要なのか? との厳しい詰問(?)をいただきました。

ちょっと脱線しますが、法華講員と創価学会員の対論を拝見していると、法華講員の中には自分が相手に出した質問のことを詰問と書いている人がいます。わたくしの言語感覚では自分の質問を自分で詰問と呼ぶのはどうかと思いますね。第三者のわたくしあたりが「創価学会員の○○は法華講員に詰問せられて返答に窮している」みたいに書くのが普通だと思うんですけど。まあ、これは余談です。

勅宣と御教書では、おそらく勅宣のほうが重要でしょう。すると・・・

「勅宣」が重要なら、統治主権との関係性が薄くなると思います。すると浅井氏の主張する政治と仏法を結びつける根拠も薄いと思います。
日本は古来より「天皇」=「執政者」ではありません。天照皇大神の祭祀継承者であられるのです。それに対して、執政行為(政治)とは手を汚す行為であり、このようなものは下々の物が担当するのです。


・・・ってことなのですか、これは難しい話ですね。
まず顕正会員の感覚では、天照皇大神の祭祀継承者というのが如何にも謗法チックなんですが、おそらくこれにはまたマジックが仕掛けてあるんでしょうね、わたくし自身は御書を拝読していて仏法と神道との関係ということに只ならぬものを感じているけれども、まだ全体像をつかめないでいる、おそらく独学でやっていたら永遠に解けないことなのでしょうけど、わたくしなりに関心のあるところではあるのです。

執政者かどうかにかかわらず、天皇はその上位概念に位置するもの、現在においてもなお日本国の最高位に君臨しているのが天皇である・・・おそらくこの意味では富士川さんに異論はないでしょう。ですから政治的なかかわりとは別に天皇がもし正法を護持することの意思表示をするならば、これはすごいことじゃないのかとわたくしは思っております。
わたくしが思うに、天皇が戒壇建立の意志を持てば天皇たった一人であっても戒壇建立は可能なのではあるまいか?
なぜそう思うかと問われれば、これはまた大変なことですからね、今のところは勝手に思っているだけというレベルです。

2006/2/14

別して富士川一郎氏へ  
今日はくだけた調子で・・・

富士川さんが博識だということは今までの投稿からも伝わってくるところでしたが、なおさらその感を強めましたね。今回のコメントを拝見してそのように思いました。しかも多芸多才ですし・・・なにしろマジックが使えるんですからね。
いや、これは冗談にしても、端倪すべからざる人物という形容がふさわしいように思います。並みの法華講員は知りませんよ、そんな勅宣がどうの御教書がこうのなんてね。

いきなり第三者がこれを読んでもわからないでしょうからリンクを貼っておきます。リンク先を順番どおりに読んでもらえれば、富士川さんのコメントも入っているので話の流れはわかるだろうと思います。

邪義破折班の目は節穴か?勅宣必要論の一考察御教書についての所感

いわずもがなのことですけど、わたくしは必ずしも浅井先生の代弁者ではないんですね。だって浅井先生すら批判の対象にしてしまっているのが当ブログですからね、ひじょうに生意気ですがあくまで自分の考えを書いているわけです。
そんなわけで、ある時は宗門寄りの意見だったり、ある時は顕正会側だったりと、一定していないのです。しかし、それは日和見ということではなく、自分の考えとしてはほぼ一貫しているつもりなのです。その自分の意見がたまたま宗門と合致している場合もあれば、その逆もあるということなのです。

今日は昨日に引き続いて、勅宣についての所感をやろうと思っていたのですが、中止にします。別に原稿のストックがあるわけではなくて、つねにぶっつけ本番で書いているものですからね、もうちょっと時間を置いて気が向いたら書こうかと思います。

おっしゃるとおり、勅宣・御教書を絶対的に必要とするには根拠がはなはだ弱いとわたくしも思っております。
ようはこういうことなのですよ、まず邪義破折班が「砕破す」の中であたかも勅宣・御教書を不要とするかのごとく書いている、だったら日達上人の御説法はどうなるのか、ってことなのです。で、あらためて三大秘法抄を拝読しましたところ、なるほど日達上人が「必ず」の一語を御入れになられた理由がわたくしなりに拝せましたものですから、不要論は不可だとしたわけです。

では逆に、必要論としては何が問題かといえば、そっくりそのまま勅宣・御教書を実現させるべきなのかどうか、だと思うのですね。そこで昨日の投稿では「御教書の言葉そのものにさしたる重要性はない」とし、ようは御教書の代替となるものがあればそれを適用すればいい・・・ということをちゃんとは書きませんでしたが、まあ、そのような意味を含めたつもりだったのです。

そもそも勅宣・御教書を不要とする意味がはっきりしていないように感じます。
極端に言って、「勅宣並びに御教書を申し下して」を削除してもよしとするのか? つまり、戒壇建立の条件としてこの御文を無視しても問題ないという意味で、不要論を唱えているのか?
それとも、大聖人の御金言を無視することはできない、ゆえに戒壇建立の条件として考慮しなければならないが、大聖人御在世における勅宣・御教書そのものをそっくりそのまま現代に置き換えることはできない、いわば王政復古的に勅宣・御教書を復活させる必要はない・・・という意味の不要論なのか? ってことなのです。

もし、後者であるならば、わたくしの意見とほぼ同じわけです。また、おそらくは浅井先生も同様だと思います。ようは宗門と顕正会にそれほどの違いはない、ということなのです。ところが前にも書きましたけどね、邪義破折班では結論が同じになってしまうと困るので、必死になって違いを言い募っているようなところがあるわけです。
もっともこれは後者の場合の話でして、もし宗門の勅宣不要論が前者の場合だとすると完全に違うことになりますけど・・・


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ