2006/3/31

機に随って法を説くブログ?  
機関紙の問題が取り上げられているが、何をいまさら騒いでいるのか、と驚いている。消費者金融から借金して大量の機関紙を取る、という問題は相当昔からある。(以下省略)

まず、「何をいまさら」と言われれば、それはその通りなのであるが、当ブログは機に随って書いている・・・というと語弊があるが、ようはナリユキマカセで書いている、だからたまたま今の話題になっただけの話である。

逆に言うと、まだ書いていないことがたくさんある。

実は書こうと思っていることで書いていないことがいくつかある。唐突に書くよりは、何かしらの必然性があって書いたほうがいいだろう・・・ようはタイムリーをねらって書こうと思っているわけである。

また、まだ書いていないことがあるのは、書きたくないからでもある。自分のプライベートがばれてしまう可能性のあることだとか、実はよくわかっていないこと、知ったかぶって書けば恥をかくだろうことなど、いろいろあるのだ。

それから、人のパクリは書きたくない、というのもある。
ゆえに、新聞購読の問題にしたって、既存の情報をそのまま使いまわしているわけではなく、わたくしはわたくしなりの見解を示しているつもりである。
ネット上の情報には胡散臭い部分もあるわけだから、そのまま鵜呑みにするわけにもいかない、ゆえに情報はあくまで参考資料であって、最終的には自分の経験なり思考なりを文章化しているつもりである。

そういうわけで、複数購読はわたくし自身にも多少の経験がある。
だがしかし、消費者金融云々はわたくしのあずかり知らぬ世界である。わたくしは新聞購読や広布御供養のために消費者金融を利用したことはない。いや、それどころか、消費者金融なるものを利用したことは世法・仏法にわたって一切ないのである。
ゆえに、そのような顕正会員がいるとは信じ難いのであるが、どうなのであろうか?

すでに書いてきたことであるが、無理をしているわけである。
かつて浅井先生は言っていたはずである、国家といえども際限なく借金を続けていけばいずれは破産するのだと。
打ち出の小槌でもあれば別である。顕正会員には打ち出の小槌があるのだろうか?
あるいは如意宝珠が・・・そんなことはあるまい。

おそらく消費者金融に手を出した時点で、その会員は終わっているのではあるまいか?
毎年、新聞購読を続けていくのである。ということは、毎年のように消費者金融のお世話になるわけで、しかも購読部数が年々増えていくとすると、借りる額も大きくなる。
はたして返済していけるのだろうか?

別に顕正会員に限った話ではなく、こうした借金が原因で自己破産する人がゴマンといるらしいのである。

結果的に、自己破産してしまえば、もはや浅井先生にお応えすることもできないだろう、というよりも破産した時点で先生に迷惑を掛けたことになる、すなわち顕正会の名を貶めたことになるのではなかろうか?

このように考えれば、まさか幹部が強要するとは思われないのである。
相手がお金持ちで顕正新聞の百部や二百部くらい屁でもないというなら別であるが、そういう会員は少ないだろう。普通の人には大変な経済負担である。幹部だって同じはずなのである。

まあ、こんなことをいくら書いてもしょうがないであろうから、これくらいで止しておこう。最後にひとつだけ書いておく。

国家といえども破産する・・・これは顕正会にも当てはまるだろう。
もちろん、会員個々が腹を痛めているだけであって、顕正会そのものは破産しようがない、というのが今の話題である。

だがしかし、先日来、書いてきたことがある。すなわち組織の空洞化である。

結局、今のところはどうにか粉飾で誤魔化している、けれどもそれにしたって限度がある、おそらくこの先ずっと粉飾しきれるものではないだろう、顕正会といえども際限なく粉飾を続けていけばいずれは破綻する、これが道理である。

2006/3/30

一念信解氏は顕正会員なのか?  
昨日は普段よりも反響があった。しかし、わたくし自身は普段どおりであり、何も変わっていない。おそらくは最初にコメントを下さった一念信解氏の発言がかなり刺激的なので、それに他の諸氏が反応を示されたのだと思う。

昨日のわたくしの投稿と諸氏のコメント

一念信解氏は顕正会員なのだろう。それに法華講の諸氏、それから後の二人がどのような方か存じ上げないが、いずれにしても顕正会批判の立場としてコメントを下さったわけである。
しかし、一念信解氏がはたして本当に顕正会員なのかどうか、それはわからない。わたくしには不審に感じられるところがある。少なくとも、氏が顕正会員のごく平均的な認識を示しているのかどうか、換言すれば顕正会員として模範的な発言をしているものかどうか、それはアヤシイと思うのである。いちおうこの点は留意しておかないといけないと思う。

わたくしが気になったのは、新聞購読には「御供養の意図もある」との発言、それから「馬鹿なる信心」である。
その前に「驀進」というのは顕正会の今年のスローガンみたいなものであるから、この点からすれば氏が顕正会員であることは間違いないと思われる。しかし、「馬鹿なる信心」は聞いたことがない。あるいは最近になって使われるようになったものであろうか?
まさか自分たちで自分たちのことを「馬鹿なる信心」と表現するとは思われないのである。ゆえに不審があると書いた。

順番が逆になってしまった。
さて、最初の「顕正新聞御供養説」とも言いたくなる氏の発言は大問題である。そんな指導があってたまるか、と言いたいところである。わたくし自身は一度たりとも聞いたことのない指導である。あるいは最近になって言われていることなのだろうか?
もしそうならば、もはや顕正会は末期症状を呈していると言わざるを得ない。

簡単な道理である。
顕正会では広布御供養を自慢している。年一回でしかも上限が定められていると。いわばこれが売りであり、宣伝文句になっている。
確かにこれはすごいことだとわたくしは思う。
だが「顕正新聞御供養説」が本当ならばそれが瓦解するのである。

御供養の上限は八万円となっている。顕正新聞の年間購読料は八千五百円である。もしひとりで十部購読すれば八万五千円になるから御供養の上限を上回ってしまうことになるし、厳密に指摘するならばこれは御供養の二重取りに他ならない、ようするに年一回をうたっているからである。

一念信解氏は、五十部大いに結構と発言された。

氏が現役の顕正会員であるならば、五十部購読している人の存在をなかば認めたようなものである。購読料を考えるだに卒倒しそうになる。
つまり、「顕正新聞御供養説」を認めると、年一回もウソになるし上限もウソになる。
まさかこんな馬鹿な指導が行われているとはとうてい思えないのであるが、いかがなものであろうか?

もう一点、書いておく。
資産価値を云々しているが、やや意味不明である。
もしプレミアを期待しているのだとしたら御供養の精神から外れるのではあるまいか?
わたくしの思うに、自分の活動報告が載っている新聞あるいは折伏成果の優秀班に名前を連ねている新聞などに価値を見出すことはあるだろう、だがそれは金銭的な価値とは別次元のことであって、いわゆる「今生人界の宝」という意味に他ならないはずである。
結局のところ、資産価値という概念が出てくること自体、投機的な不純な意味が感じられるし、また本音のところではかなり無理して購読していることが浮かび上がってくるのではなかろうか?

普通に考えて、個人で五十部購読するのは無理なのである。
それを可能にならしめるには、必ず価値が出るから・・・などと言いくるめる以外にないのであろう、あるいは思いっきり飛躍させて御供養の意味合いを持たせる・・・しかし、いずれにしても無理がある、だから長続きしないのである。

今日は顕正会関係者には耳の痛い話だったかもしれないが、こういう話こそ真摯に受け止めるべきであろう。

2006/3/29

複数購読の問題  
顕正会はいわゆる金儲け主義の新興宗教にあらず・・・という意味のことを浅井先生みずからも言うし、顕正会員の多くが主張するわけであるが、顕正新聞の複数購読はどうなのか、との反論がある。

確かに問題である。
普通の新聞であれば、一部しか取らないだろう。飲食店などは客へのサービスの一環として新聞・雑誌をひと通り揃えていたりする。だが、同じ新聞・雑誌が複数あるわけではない。図書館にしたって普通は一部ずつしかないはずである。
ところが顕正新聞は二部や三部は当たり前で十部・二十部取っている人も少なくない、いや、批判サイトには五十部・百部という話も出てくるのである。

ひとりで百部も購入するのは異常である。何より経済的負担が大変だ。もしこうした実態がわかっていてそのまま黙認しているとしたら、やはり金儲け主義との批判はまぬかれないのではないかと思う。

個人で複数部の購読をしているといっても、名前はそれぞれ一部ずつ別の名前で申し込んでいるのだと思う。ゆえに本部でも実態を把握できていないのかもしれない。
ようするに、広宣流布のためという大義名分があって、入信者が購読を拒否した場合に紹介者の善意で購読料を肩代わりする、あるいは上長が「取ってあげなきゃ可哀そうじゃないか」といって強要する・・・いや、強要は語弊があるかもしれないが、ともかくそうやって大義名分を振りかざす傾向にあるのは事実であろう。
結局それがどんどん膨らんでいって、しまいには五十部だの百部だのということになるのだろう。なお、わたくしの知る範囲ではさすがに五十部取っている人はいなかった、けれども元会員の証言としてあるのだからウソではないのだろう。

顕正会本部は実態の把握を急ぐべきである。

調べる気があれば、それほど難しいことではないだろう。
ポイントは同一住所にての複数購読である。これはおそらく自宅拠点だとか班長・副長クラスの自宅が問題の焦点になると思われる。ようするに、高校生などの入信者の場合は親バレ(?)を恐れてのことだろう、新聞を高校生本人の自宅ではなくて拠点や班長宅の住所で購読することがある。ゆえに自宅拠点には顕正新聞が山のように送られてくる。しかし、実態としてそれが各会員の手に渡っているかどうかが問題なのである。

すでに書いたように、本人が購読拒否しているにもかかわらず、班長などが肩代わりをして購読しているケースがある。その本人の住所宛に送られていればまだしも、そうではなくて拠点や班長宅に送られてくる、すると文字どおり塵も積もれば山となるわけで、読まれない意味のないダブついた新聞がどんどん蓄積されていくわけである。
こんな実態がまかり通っているとして本部はそれでいいのだろうか?

わたくしの思うに、これはよくないことである。

本部は早急に手を打つべきである。
まず、浅井先生におおやけの場で複数購読の禁止を言ってもらわないといけないだろう。これが大前提となる。やはり先生の影響力は大きいわけであるから、これを最初にやらないといけない。
それから、本部のほうで実態を査察して、無駄な購読を停止すべきである。
しかし、反論があることだろう、先生にお応えしたいとの会員の熱情に水をさすようなものではないかと。

わかっておらん、としか言いようがない。
ようするに、組織の空洞化を助長する行為なのである。しかも、本人の経済的負担、そして無意味の新聞が積まれていくことの精神衛生上の問題・・・結局は本人のためにもならないし、いずれ無理が祟って退転していく可能性もあるわけだから、やはり組織のためにもならないのである。

三百万を本気で目指しているならば、ここでしっかりとした基礎固めをしておく必要があるだろう。

2006/3/28

反省の弁  
「ドル箱」とは不穏当ですね。金銭には関係ありません
正確には、思想信条に未成熟の若人をターゲットにした方が同意されやすい、「成果」に挙りやすい。
無知な無垢なる青年層の「青田刈り」といった方が適切です。
尤も現在の高校生が無垢と云えるのか疑問です・・・・


ISO9002氏よりご指摘いただいた。

どういう方なのか存じ上げないが、先日のコメントでは「誤字等の館」をご紹介くださっているので、どうやら言語表現に関心の高い方のようである。

「ドル箱」は不穏当で、「青田刈り」のほうが適切という。
ああ、なるほど、わたくしも失敗だったと思った。この方はわたくしよりも遥かに言語感覚にすぐれている。ひじょうに魅力的な人物である。いったいどのような方なのだろうか?
やはり何らかの形で顕正会と関係のある人物なのではあるまいか? でなければ殊更に「金銭には関係ありません」とは書かないだろうと思うのだが・・・

ネット辞書(大辞林)によれば、ドル箱には二つの意味がある。

(1)金を入れる箱。金庫。
(2)主要な収入源や金もうけの種になる人や物。

一つ目はそのまま文字どおり、直訳的な意味である。二つ目は転じてというのか派生的というのか、意訳的な意味である。
わたくしはどちらかというと、二番目の意味で使ったわけであるが、これはやはり不穏当と言われても仕方がないであろう。まるで高校生から金を巻き上げているような、もしくは高校生を金儲けの道具に使っているような、あたかも顕正会が金儲け主義であるかのような、そんな意味にも取れてしまう表現だった。

するとISO9002氏は顕正会の擁護派なのであろうか?

しかし、あとの文章を読むと必ずしもそうではないので、ようは公平・中立の視点で書いておられるのだろう。

言い訳を書いておくと、わたくしとしては他に適当な表現が見つからなかったので、ドル箱としてあるけれども必ずしもドル箱に固執するものではなく、その意味するところは金銭的なものではなくて、いわば入信報告書の成果をあげるのに高校生の活躍はめざましく、それをドル箱と表現したまでのことである。
さらに言えば、わたくしは適切な表現かどうか判断しかねる時には、カッコ書きで疑問符を入れるようにしている。ゆえに、昨日の投稿でも「ドル箱(?)」と書いたのである。

だが、しかし、疑問符を付ければ何を書いても許されるのかと言えば、そうではないだろう。やはり昨日の投稿は誤解を招きかねない不適切な表現だった。

2006/3/27

顕正会の折伏は大聖人の仰せのままか?  
また昨年十一月には、自分の人生を見つめることができずにいる長男を、「本当に救いたい!」と折伏しました。
すると長男は、「高校一年のとき、中学の同級生から宗教の話を聞いてお数珠とお経本をもらってきたら、お母さんが『怪しいから返してきなさい』って言ったよね」と言われ、長男も七年前に入信しており、私は何という馬鹿なことをしたのかと冷水を浴びせられた思いがし、百万顕正会の折伏の凄さに驚かされました。


顕正新聞の記事であるが、この人は自分の子供がすでに七年前に入信していたことをもって百万顕正会のすごさを言わんとしているのと同時に、知らずに子供を信心から退転せしめてしまったことを言っている。

高校生への折伏が問題視されている。
何が問題なのかわたくしにはよくわからないが、ひとつ言えることは高校生くらいの年代は何ごとにも好奇心旺盛である。ゆえに「試してみようよ」と言われれば同意する可能性がきわめて高い。実際、顕正会は若い人の多い組織、すなわち男子部・女子部のほうが壮年部・婦人部よりも折伏成果があがっている。若いほどいい。そうするとまさに高校生はドル箱(?)みたいなものなのである。

ところが、お母さんないしお父さんから怪しいからよしなさいと言われて、一夜にしてやめてしまう人が少なくないのである。
先の顕正新聞の記事はそれを証明しているようなものだ。ようするに、たまたま母親が入信したことによって七年前のことが判明しただけのことであって、実際には高校生の時ないし若い時、いや、別にいつでもいいのである、とにかく入信勤行を終了してそれっきりになってしまっている人がかなりの割合で存在するのである。

たゞをかせ給へ。梵天・帝釈等の御計らひとして、日本国一時に信ずる事あるべし。

顕正会員で知らない人はいないであろう、浅井先生が頻繁に引用する御書だからである。
だが、しかし、この御文の直前にある次のくだりを知っている会員は少ないかもしれない。

さればこの甲斐国にも少々信ぜんと申す人々候へども、おぼろげならでは入れまいらせ候はぬにて候。

大聖人は入信したい言ってくる人がいても「おぼろげならでは」入信させないと仰せあそばすのである。

これをもってすれば、入信報告書の偽造は論外のこと、相手があまり乗り気でないにもかかわらず何が何でも入信勤行に持ち込もうとするのは大聖人の御指南にたがうことになるだろう。

梵天・帝釈等の御計らひを信ずるならば、強引な勧誘行為は厳に慎まなければならないはずである。

2006/3/26

成果主義の陥穽  
昨日・・・ネット上では入信報告書の偽造が取り沙汰されることがあるが、わたくしには顕正会員がそこまで腐敗・堕落しているとは思えない、もし事実だとしたら顕正会もオシマイであろう・・・と書いたところ、情報通の富士川氏よりコメントを頂戴した。

大多数ではない、会館では不可能、だが自宅拠点ではけっこう行われている・・・というようなコメントである。また、わたくしが入信報告書の元意を大聖人に御報告申し上げることだと書いた件については、そのような認識を持っている会員はおらん、とのことだった。

柄ではないが反論を書いておこう。

拉致・監禁まがいの強引な勧誘がいまや顕正会のイメージとして定着しつつある、いや、すでに定着しているのかもしれない。顕正会にまつわる逮捕事件の大半が拉致・監禁容疑であることもそのイメージを強めていることだろう。
ようするに、入信報告書ではなく入信勤行に眼目がある、何が何でも経本と数珠を持たしめて御本尊の前に座らせなければならない、だからこそ拉致だの監禁だのということになるのではなかろうか? もし報告書に名前を記入するだけのことであったら、逮捕事件などは起こり得ないのではなかろうかと思うのである。

ただし、成果主義の弊害とも言うべきか、目的と手段に狂いが生じてきているようなフシがある。

目的のためなら手段を選ばないという言葉がある。これが結果としてえげつない勧誘行為にあらわれるのだろう。ここでの目的は入信勤行であり、手段は申すまでもなく入信勤行に到達するための方法・・・いわゆる折伏である。手段を選ばないのは問題だが、いちおうここまでは目的に揺るぎはない。

ところがである、成果主義が高じてくると入信報告書そのものが目的になってしまいかねないし、事実がそれを物語っていると思われるのである。

つまりは富士川氏の指摘するところである。
氏は事実を歪曲しているわけではないし、誤情報を流しているわけでもないのであって、入信報告書の偽造は確かにあるのだろうと思う。本来、入信勤行が目的であったはずなのに、成果主義に陥るといつの間にか入信報告書が目的となってしまい、入信勤行はそのための手段になってしまうのである。

さて、ここで問題である。
目的のためには手段を選ばない・・・すると、どうなるか?
いつの間にか入信報告書が目的化してしまっているのである。入信勤行は手段に過ぎない。だったら入信勤行など省略してもいいだろう・・・ということになりかねないのである。

もちろん極論である。富士川氏にしてもそこまでは言わないだろう。
ただ成果主義の怖いところは、せっぱ詰まると何でも有りになることだ。仏法上の道理はもちろんのこと、世法の上から考えても入信報告書の偽造を正しい行為だと思っている人はいないはずなのである。だが、現実には行われているわけであるから、それは成果主義の弊害と言う以外にないだろうと思う。

結局この問題は、会員個々のモラル以前に、顕正会の体質そのものが問われているのだろうと思われる。


モラル・・・宗教団体には似つかわしくない表現であるが他に適当な言葉が思い浮かばなかった。

2006/3/25

入信報告書の問題  
わたくしはこれまで、入信報告書についての話題を書いたことがなかった。

別に取り立てて書くこともなかったし、そもそも顕正会においては入信の手続き上の問題以前に、折伏のあり方そのものに問題があるわけで、ゆえに摂折論にからめて書いたり、あるいは逮捕事件の折にそれに触れたことがあるけれども、報告書そのものについては今まで書いていなかったと思う。

すでによく知られているとおり、かつては入信願書だった。そして今は入信報告書である。
この違いは本人の署名・捺印を必要とするかしないかである。申すまでもなく、願書は本人の署名・捺印を必要とする。いっぽうの報告書は文字どおり報告書であるから、入信者の関知するところではなく、紹介者が必要事項を記入して組織に提出すれば報告完了となる。

そこで問題になるのが入信報告書の偽造である。
ようするに、入信勤行すら行わない、虚偽の報告がなされているのではあるまいかという、疑惑なのである。勝手にどこかの名簿から名前と住所を抜き出して報告書に記入してしまえば、それで折伏一名となる。あるいは名簿どころではなく、当てずっぽうに名前と住所をでっち上げて書いてしまうこともあり得るかもしれない。
・・・というようなことが、ちまたでは、いや、ネット上ではと言うべきか、囁かれているわけである。

しかし、どうだろう。
わたくしは顕正会員がそこまで腐敗・堕落(?)しているとは思えないのである。
その理由を少し書いておきたい。

これは入信願書の時の話だが、ある時に浅井先生が言っていたことがある。すなわち、かつて入信願書を偽造した幹部が二人いた、私はただちにこの者を除名したと。
ようは発覚したのが二名ということだろう、他にもいたかもしれないが、ともかくもっとも重い処分を下したわけである。
このことからすると、入信報告書においても同じ処分が適用されると考えなければならない。はたして除名を覚悟でそこまでする幹部がいるのだろうか? というより先生に申し訳ないとは思わないのか?

いやいや、それよりも上位概念があるはずである。
すなわち入信報告書の報告とは、最終的には大聖人に御報告申し上げる意味がある。大聖人御照覧の意味を顕正会の幹部が知らないわけがない。つまり、顕正会本部ないし浅井先生を騙しおおせたとしても大聖人には通用しない、それが御照覧ということなのだ。
それでもなお、虚偽の入信を報告するのであろうか?

自分のためにもならないし、広宣流布のためにもならない、いったい何の必要があってそのような馬鹿なマネをするであろうか?

結局のところ、体裁を取り繕うためであろう。
だが、しかし、それはあくまで当面のことであって、ゆくゆくは破滅の道をたどることになる。申すまでもなく、そんなことをしていたら組織の空洞化をなおいっそう助長するだけであって、最終的には自分の首を絞めることになるのである。

もし現実問題として、入信報告書の偽造がかなりの確率で行われているとしたら、もはや顕正会は絶望的と言わざるを得ないであろう。

2006/3/24

小学生レベルの知能で顕正会の実数を計算すると・・・  
わたくしは数字に弱いので計算めいたことは一切しないことにしているが、今日は少しばかり・・・まあ、小学生レベルであるが・・・計算をしてみようと思う。

組長といえば、ある種の世界においてはステイタスそのものであり、その語感にしてもカッコいいイメージがあるかのごとくである。

ところが顕正会で組長といえばもっとも下の役職であり、おそらく顕正会員なら誰しも、その語感からは心地よい響きを感じ取ることはできないだろう。ましてや顕正会に五年なり十年なりいて、いまだに組長だったりすれば軽侮の眼差しをそそがれかねないし、その本人にしても後ろめたいというか居心地が悪いというか、いわゆる世間でいうところの「うだつが上がらない」のと同じで、みじめな気分を味わっていたりするのである。実際問題としてそういう人は世法上でもあまりうまくいっていない場合が多いように思う。

ちなみにわたくしは組長ですらない。世法上でも成功しているとは言い難い。ようは最低である。
そんなわけで、偉そうなこと書いてる場合じゃないだろが・・・と突っ込まれればそれまでである。

それはともかく、顕正会での組長はいちばん下の役職であり、現状ではほとんど機能していない。それを数字の上から説明してみよう。
組織というのはピラミッド型をしているものである。ということは、班長の下には最低でも二人の組長がいなければおかしいだろう。そして組長の下には二人の組員・・・組員という響きはどうだろう、顕正会ではあまり使わない言葉だと思う、たいがい班員と言っている、このことからしても「組」が機能していないことがうかがわれると思うが、・・・話を戻して、ようは理想的なピラミッドを形づくるためには最低でも班あたり七名の構成員・・・構成員もなんだかアヤシイ言葉であるが、まあ、そんなことはどうでもいいとして、昨日の投稿で班長会の四者合計が一万三千有余であることを書いた、これを一万きっかりにして、つまり顕正会には班長が一万人いる、すると構成員は班あたり七名なのだからぜんぶで七万人という数字が出てくるはずである。

男子精鋭一万人によるデモ行進という話があった。
しかし、これも男子部班長会の参加人数が三千有余であるから、三千きっかりとして計算すれば、二万一千人になるはずなのである。まあ、精鋭をうたっているわけだから、一万人も集まれば大したものではあるが・・・

いずれにしても、これらは顕正会の実態を正確には反映していない。
組は機能していないのである。ゆえに組を勘定に入れないで計算したほうが、現実に近い数字が出るのだろうと思われる。
つまり、班あたり三名とすれば、男子部においてはぜんぶで九千人という数字になる。

ああ、なるほど、一万人のデモ行進はつじつまがあっているようだ。

2006/3/23

組織の空洞化を恐れる顕正会  
顕正会の場合、10人に9人は数か月か1年の間に自然脱会するものと想像されます。

某掲示板の書き込みを引用させていただいた。

おそらく顕正会ウォッチャーであれば、上記のようなことは今さら驚くに値しないことであろうし、わたくし自身もおおむね理解しているつもりではあったのだが、このように数字を具体的に示されると、けっこう新鮮な驚きをおぼえるものである。

このところ、どちらかというと教義上の問題ばかりを書いてきたこともあって、こうした組織の実態についてはあまり考えなくなっていた。

顕正会は過去最高が好きである。
顕正新聞の最新号でも、班長会の四者合計が過去最高の結集を記録したことが書かれている。その数字は一万三千百五十三名となっている。
しかし、伸び率としては微増としか言いようがないだろう。四者合計が一万人を突破したのはいつのことだったか、ちょっと調べる元気がないので、いい加減なことを書くことになるが、もうかなり前のことだったはずである。本当なら、二万や三万になっていてもおかしくないはずであろうし、浅井先生の皮算用ではそのつもりだったと思われるのである。

最近の顕正会では三百万が合言葉のようになっている。
これを十有余年後に達成したいとしているが、この有余年というのが如何にも曖昧であり、今までの経験則からしてもさらにその目標が延長ないし延期される可能性が高い。

それはともかく、うっかりしていたことがある。
例年、年末(もしくは十一月末)の総幹部会では明年の構想が発表される。そこでは会館の建設計画や年間の折伏弘通目標などが打ち出される。本年は群馬会館・高知会館の新築、そして千葉・新潟・八戸には別館が建つという。これに目を奪われて、うっかり年間弘通目標に気がつかなかった。

年間目標が気になったので顕正新聞のバックナンバーを調べてみた。
すると昨年は十一月度の総幹部会において会館の建設計画が発表されている。けれども年間弘通目標は示されていない。翌十二月度の総幹部会も同様である。ただ「三百万」の文字だけが繰り返し書かれている。ともかく先生の講演のみならず、ここ数ヶ月の顕正新聞は「三百万」の一点張りなのである。

結局のところ、年間目標は発表されなかったようである。

先天的な福運などはバケツに汲んだ水と同じで、もし今生に仏法に背けば、たちまちに消滅してみじめな境界となる。

折伏理論書の言葉である。
このバケツの譬えが何に由来するのか知らないが、顕正会員は折伏の時にこれをよく用いている。バケツの水がなぜなくなるのかよくわからない。

だが、バケツの喩えを顕正会の組織に当てはめるならば、まさに顕正会は穴の開いたバケツのようなもので、汲めども汲めども満杯になることはない。それどころか、穴が大きいためか、汲むのをサボるとカラッポになってしまいかねないのである。

自分などはよく信心の空洞化を誡められたものであるが、その実は組織の空洞化ではなかったかと、今にして思うのである。

2006/3/22

元本部職員はいったい何人いるのか?  
誤字等の館は勉強になるサイトである。

ISO9002氏の言うように、顕正新聞の編集委員はよく勉強しなければならない。といっても富士川氏のコメントが本当なら無意味なことかもしれない。
ようは浅井先生が意固地であって一向に間違いを認めようとしない人物である以上は、仮に編集委員の中に常識をわきまえた人がいたとしても、それは通用しないわけだから無意味なことだろう。
これはいわゆる老害というヤツであろうか?

さて、「つくずく」についてであるが、誤字等の館に出ている情報はほぼ二年前のもので、その時の検索データでは六千九百件となっている。
今調べると、十五万六千件である。

これは恐ろしいことだ。

ようは本などを一切読まずにネットだけの情報を頼りにしている人が多くなれば、こうした誤情報がどんどん助長されていって、しまいにはどちらが正解であるか判断がつかなくなってしまいかねないのである。
わたくし自身、数年前よりペーパーレスを基本方針として生活しているので、あまり本を買わなくなった。そしてなるべくネット上の情報だけで済ましているのである。けれどもその情報が本当に正しいのかどうか、それはわからない。単純に検索数が多ければそれを確実な情報だと素直に信じてしまって、それ以上を調べようとしないことが多い。

であるから、「つくずく」にしても、ヒット数からして間違いないと錯覚してしまいかねないと思う。いや、実際にそのように信じ込んでしまっている人が多いのだろう、数字がそれを物語っているわけである。

ちなみに、疑り深く「つくづく」を調べてみると、なんと四百五十八万件のヒットを数えるのである。
十五万六千件の「つくずく」もすごいことだが、やはり本家本元の「つくづく」には敵わないのである。ようは本物を知れば偽物はすぐにわかるのだ。巧みを見て拙きを知るとはこのことである。
結局、いつまでも本物を知らないがゆえに騙され続けてしまう、ということがあるのだと思う。

話は変わるが、富士川氏のコメントはある意味、スクープ情報だと思う。
元本部職員といえば、わたくしは下野正信氏を思い浮かべるし、実際のところ、ネット上で活躍している元本部職員が他にいるとは聞かない。
然るに、富士川氏はわざわざカッコ書きで、(最近の脱会者)と書いているのである。

これは大変な情報である。


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