2006/3/11

冴えない投稿  
コメントを頂戴しましたので、それにちなんだ話題を書きます。

富士川さんのご指摘は、師子は大聖人のオリジナルじゃなくてすでに仏典に見られる表記だということでしょうね、これはわたくし存じませんでした。
浅井先生がこれを知っていたかどうかはわかりませんが、まあ、先生の場合は御書が第一ですからね、まったく意に介していないでしょう。

なるほど、師子は架空の動物であると。

考えてみればゾウはインドにもいますがライオンはどうだったか、昔はいたんだろうか、あんまり気にしたことありませんでしたね。
確かに竜もそうですし、キリンなどは駿馬の意味で使う場合もありますけれども、まあ、だいたいが伝説上の動物なんでしょうね。
トラは現在でもアジア地域にいるようですし、石虎将軍の話などはひじょうに現実的・・・矢が石に刺さったかどうかは知りませんが、母が虎にかみ殺されてしまったというのはきわめて現実的な話に聞えます。

いずれにしても日本では動物園じゃないとお目にかかれません。いや、画像・映像がありますからね、じかに見なくともおおよその姿かたちはわかるわけです。
逆に言うと昔はまったく見る機会がなかったので、いろいろ想像をふくらませて絵などにしていった、そしてどんどん尾ひれがついていったんでしょうね。それゆえでしょうか、何となく大仰な絵が多いように感じられます。

しかし、ずいぶん「らしくない」ことを書いているなあ、どうしたのだろう。

さて、トチロ〜さんのコメントですが、これはまた鋭いですね。
ようするに、御懐妊で皇室典範改正案が頓挫した、けれども御出産の段階で再燃する可能性を残している、すなわち男子が御生まれになれば事実上の収束となるが女子だったら再び改正案が出されるだろう、さてそうなったら顕正会はどうするのか、いわば浅井先生は今般の講演で一万人のデモ行進を確約してしまったようなものである、結局その時になって何もやらなかったら間違いなくツッコミが入ることだろう、というような話だと思います。

顕正会の批判勢力はネット上を席巻している感がありますので、おそらく二月度総幹部会の講演ひとつ取ってもいろいろなことが言われているのだろうと想像します。
いちばんありそうなのは、百万達成後の十万人大行進はどうしたのかってことに絡めて、男子一万人は少ないだろう、男子部だけでも二万五千人集めないと十万人がウソになるっていうツッコミですね。トチロ〜さんの観察はさらに辛らつで、ようは一万人すらカッタルイということなんでしょう、確かにそうかもしれません。

昨年の男子部幹部大会では一万三千人が集ったようですが、ここには壮年部もかなり含まれていたようです。まあ、それはそれでいいでしょう。単純に考えればすでに一万三千の結集力がある、ゆえに一万人のデモ行進は不可能ではない、だが横浜アリーナに集まるのと街頭デモ行進ではその性質が異なる、よりいっそうの精鋭化が求められる、このように考えますと、はたして一万人が可能なのかどうか微妙なところですね。

しかし、一万人の数字はともかくとして、デモ行進を考えていたのは事実だろうと思います。
それは一月度の総幹部会で行動を起こす意味のことを言ってましたので間違いないでしょう。
わたくしが思うに、九千人でも八千人でもいいのですね。五千人だっていいのです。
ただ心配なことは、精鋭化というのは少数化の異名なのです、つまりあんまり過激なことをやっていると人が集まらんわけです。
この辺が浅井先生にとっても、痛し痒しなのでしょうね。

あれ? やっぱりヘンだなあ、今日は冴えていない。

2006/3/10

顕正新聞編集部の質を問う  
このところは本有の王法論に始まって、勅宣・御教書だの国主だのを何やかやと書いてきた。
その場の思いつき、行き当りばったりにしてはよく話題が続くものだと、われながら驚いている。今まで書いてきたことをうまくまとめれば、それなりに有意義な文章になるのかもしれないが、そのつもりはあまりない。今後もつれづれなるままに書いていくのみである。

今日は二月度総幹部会の浅井先生講演から、得意のアゲアシ取りをしようと思う。

私はつくずく思っております。

いま私はつくずくと、


なんだろう、これは。
国語辞典で調べると、「つくずく」という見出しは出ていない。ようは「つくづく」の間違いであろう。浅井先生らしくない間違いだと思う。
おそらくこの部分は講演のいわばマクラであり、原稿なしでしゃべっている部分なのだろうと思う。ゆえに、テープ起こしをした人が間違えた、あるいは音声入力というのがあるらしいのでそれであろうか、ともかく編集ミスということだろう。
しかし、先生は新聞を刷る前に自分の講演だけでなく、すべての記事をチェックしていると聞いたことがあるのだが、それはウソなのであろうか? あるいは先生といえどもうっかり見落とすこともあるだろうから、チェックはしたけれども気がつかなかったということかもしれない。

三時弘教次第

これはよくわからないのであるが、三時弘経次第が一般的のようである。つまり、教と経の違いである。まあ、これは大した問題ではないかもしれない。

御当代

三時弘経次第のことは平成二年の諫暁書にも出ていて、三時弘教次第と表記されているから浅井先生としては一貫しているのであろう。だったらなぜに当御代としないのかがわからない。
つまり、「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」には当御代と書かれているのに、今回は御当代としているのである。単なるミスであろうか?

編集者はもっと気を入れて仕事をしないといけない。
ある意味、先生の取り巻きはイエスマンばかりで、意見を言える人がいないのかもしれない。実は先生に対して批判的な眼差しを向けられるような人物が側近にいると、これが大変に貴重であり有用なのであるが、こわい意味もあるのでそういう人を近づけたくないのが人情でもある。
こわい意味は当然、意見を言う側も怖いわけであって、ゆえに幹部は先生ににらまれないような処世術を自然と身につけていくことになるし、そうでなければ幹部として生き残れないわけであろう。
しかし、どのみち、今回のようなミスがあれば必ず誰かが叱られるのではないだろうか? もしそうだとしたら、やはり事前に間違いを見つけて意見を言うべきであろう。

ここに始めて、

実はこれ、現代国語では失格・・・に近い。おそらく先生もわかっていることだろう。ようはわかっていて使っているのである。
いつだったか、御書講義で「師子」について説明していたことがある。普通は獅子であるが大聖人は師子と御書きになられているので顕正会でもそのように表記する云々と。
つまり、始めては初めてのほうが現代向きなのであるが、どうやらこれも大聖人に倣って始めてと表記しているらしいのである。

こういうことがあるから、うっかりしたことは聞けないのかもしれない。それで顕正会員はわからないことがあっても「何か深い意味があるに違いない」などと思って、そのまま未解決にしてしまっていることが少なくないようなのである。

やはりわからないことは聞いたほうがいいのだろう。

2006/3/9

立正安国論における国主は誰を意味するか?  
1、囗構えに「民」の字体 56箇所
2、囗構えに「玉」の字体 11箇所
3、囗構えに「或」の字体  4箇所
4、囗構えに「王」の字体  1箇所
   合計         72箇所


最初に出典を明記しておこう。
上掲は「からぐら文庫」の中にある、立正安国論の「国」字体分析から引用させていただいたものである。

ようするに、大聖人は「国」という字ひとつ取っても何種類もの字体を使い分けていらっしゃるわけであるが、では、ここに法則性を見いだすことができるのだろうか?

漢字はいわゆる表意文字であるから、それぞれに意味があるはずなのだ。
前に邪義破折班の提示している資料に「もとずく」と書かれていた。これは「もとづく」が正しい。では、「なかんずく」はどうだろうか? 本来ならば「なかんづく」が正しいと思われる、というのは漢字で書くと「就中」であるが、書き下すとしたら「中ん就く」となるだろう、つまり「就く」は「つく」であるから、「なかんづく」が正しいはずなのである。ところが現代表記では「なかんずく」としている。

ひらがなはまだいいのである。
漢字の場合はもはや意味が違ってきてしまうから、本来の意味を考えるならば、大聖人の表記どおりに出版しないといけない。実際に、檀弥羅王の例では御真蹟に忠実たらんとして、檀弥栗や檀弥利などと書き分けてある。だったら当然に、国の文字も書き分ける必要があるはずなのだ。

もっとも、檀弥羅王の羅が栗や利になっているのは大した意味のことではないだろう、当て字といっても差し支えないと思われる。問題は立正安国論での国字体である。これは当て字、わたくし流にいえば当てずっぽう、まさか国主諫暁の書すなわち勘文においてそんなことはあるまいはずなのだ。

からぐらネットの山中講一郎氏はこれに関して、何の意見も書いておられない。ただ純粋にデータとして数字を上げるのみであり、あとは該当する御文を順番に並べてあるだけなのである。

残念ながら、現在のわたくしには大聖人がどのような御意をもって国字体を使い分けていらっしゃるか、それはわからない。
ただし一箇所だけ、ひじょうに対照的な使い分けをあそばしていると思われる部分がある。

国主国宰の徳政を行なふ

これである。
国主の国は、内側が王になっている。そして国宰のほうは、民になっている。
これは大聖人が明確に使い分けていらっしゃることの典型であり、誰もが首肯せざるを得ないと思うのだがどうだろうか?

さて、問題はここでの国主国宰を具体的にどのように当てはめるか、である。
わたくしは国主を天皇、国宰を執権(もしくは幕府実力者)としたい。あるいは対告衆の上から考えて、北条時頼を国主とする意見もあるのだろうか?
わたくしとしては、それはないだろう、と思っているのであるが、このあたりはとりわけ創価学会員の意見をうかがいたいところである。

なお、立正安国論の御真蹟写真は、まことにありがたいことに法太郎氏のサイトで全文拝することができる。

顕正会員は国主国宰の部分だけでも確認されたい。

2006/3/8

平成新編日蓮大聖人御書を謹んで書写し奉る  
此偏に国土の恩を報ぜんが為なり。
其の勘文の意は、日本国天神七代・地神五代・百王百代、人王第卅代欽明天皇の御宇に始めて百済国より仏法此の国に渡り桓武天皇の御宇に至るまで、其の中間五十余代二百六十余年なり。其の間一切経並びに六宗之有りと雖も天台・真言の二宗は未だ之有らず。桓武の御宇に、山階寺の行表僧正の御弟子に最澄といふ小僧有り(後に伝教大師と号す)。已前に渡る所の六宗並びに禅宗之を極むと雖も未だ我が意に叶はず。聖武天皇の御宇に、大唐の鑑真和尚渡す所の天台の章疏、四十余年を経て已後始めて最澄之を披見し、粗仏法の玄旨を覚り了んぬ。最澄天長地久の為に延暦四年叡山を建立す。桓武皇帝之を崇めて天子本命の道場と号し、六宗の御帰依を捨てゝ一向に天台円宗に帰伏したまふ。同じき延暦十三年に長岡の京を遷して平安城を建つ。同じき延暦廿一年正月十九日高雄寺に於て南都七大寺の六宗の碩学、勤操・長耀等の十四人を召し合はせて談じて勝負を決断す。六宗の明匠一問答にも及ばず、口を閉づること鼻の如し。華厳宗の五教、法相宗の三時、三論宗の二蔵三時の所立を破し了んぬ。但自宗を破らるゝのみに非ず、皆謗法の者たることを知る。同廿九日、皇帝勅宣を下して之を詰りたまふ。十四人謝表を作りて皇帝に捧げ奉る。其の後代々の皇帝の叡山の御帰依、孝子の父母に仕ふるに超え、黎民の王威を恐るゝに勝れり。或御時は宣明を捧げ、或御時は非を以て理に処す等云云。殊に清和天皇は、叡山の慧亮和尚の法威に依りて位に即きたまふ、帝皇の外祖父九条右丞相は誓状を叡山に捧ぐ。源右将軍は清和の末葉なり。鎌倉の御成敗是非を論ぜず叡山に違背せば天命恐れ有る者か。然るに後鳥羽院の御宇、建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り。悪鬼其の身に入りて国中の上下を狂惑し、代挙って念仏者と成り人毎に禅宗に趣く。存外に山門の御帰依浅薄となり、国中の法華真言の学者棄て置かせられ了んぬ。故に叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七社・国中守護の諸大善神、法味を喰はずして威光を失ひ、国土を捨て去り了んぬ。悪鬼便りを得て災難を致し、


平成新編日蓮大聖人御書の368ページである。
自分で入力したのは久しぶりのことだ。つまり普段は横着してすべてコピペで済ましているのである。ネット御書のありがたさをつくづくと実感した。

さて、このところは話が細部に入り込みすぎている感があるので、今日は大雑把に書いて見たいと思う。

浅井先生は未驚天聴御書を、幕府への諫暁を止めて皇室へ聖意を向け給うたものと拝している。しかし、わたくしの思うに、大聖人は最初から皇室へ聖意を向け給ておられたのではなかろうか?
その有力な証拠がこの安国論御勘由来ではなかろうかと思う。

引用部分には皇帝がどうたらこったら書かれているが、ようは鎌倉幕府の上位概念として皇室があって、桓武天皇以来、皇室では伝統的に叡山を尊崇してきた、源右将軍だって清和天皇の流れを汲むわけだろう、いったい今の鎌倉政権は何をやっておるのか、というようなことだと思う。

そして後半には次の御文を拝する。

而るに当世の高僧等は謗法の者と同意の者なり。復自宗の玄底を知らざる者なり。定めて勅宣・御教書を給ひて此の凶悪を祈請するか。仏神弥瞋恚を作し、国土を破壊せん事疑ひ無き者なり。

ようするに、大聖人がここで責めているのは謗法の者でもなく当世の高僧でもない、ということが重要である。いや、もちろん、謗法を容認しているわけではないし、当世の高僧を認めるものでもないのであるが、ここではあくまで為政者を責めているのである。
これが文永五年の御書。そして文永七年の法門申さるべき様の事にも同じ趣きが示されている。

又此の大罪は叡山三千人の失にあらず、公家武家の失となるべし。

仏法上の失といえどもそれが為政者に帰属することを端的に御指南であられる。

これらの御書の系年に問題はないであろう。
大雑把に言えば、大聖人の諫暁は未驚天聴御書をターニングポイントとして武家から公家へと移るのだけれども、委細にたずねるならばそれ以前からすでに公家への諫暁を御考えであられたことが諸御書に拝されるのである。

2006/3/7

ふたたび平成新編御書検索に敬意を表して  
このところトチロ〜氏のおかげでいろいろのことがわかってきた。

実のところ今日は話の流れとして、安国論御勘由来を引用しようと思っていた。不思議なことにトチロ〜氏のコメントにそれが出ている。わたくしは氏の引用部分の直前の御文を拝するつもりでいた。そこで平成新編御書検索を開いていわゆるコピペをしようとしていたのであるが・・・

なんと平成新編の368ページがまるまる抜けているのである。
どうやら378ページと間違えているようで、浄光明寺への御状が出てきてしまうのである。

これまでにも平成新編御書検索の入力ミスを指摘してきた。
あくまでこれは利用させていただいている立場として、感謝の意味で指摘させていただいているのであって、他意は毛頭ない。平成新編御書検索がよりいっそう精度を増せば、わたくしとしては大いにありがたいことであるし、おそらくは公共の福祉の増進ともなることだろうと思うのである。

実際のところ、自分で確かめもせずに検索だけを頼りにして間違いを犯している人が少なくないと思う。わたくしの見る範囲では、現時点で完璧なネット御書は存在しない。それを承知で利用しているならばいいのであるが、そもそも検索を使うというのは横着をかましているような意味もあるので、結局はそのまま信用してコピペしているだけの場合が多いわけである。

※この検索を使った結果あなたに不利益が生じても、当方は一切の責任を負いません。※
※ページ情報は単なる目安程度に考えて下さい。必ず原典に当たるようにお願いします※


平成新編御書検索にはこのような注意書きがある。ようは原典に当たらずにそのまま利用している人が多いのであろう。その結果としての不利益とは具体的にどういうことを想定しているのか、わたくしには見当がつかないけれども、あるいは法論みたいなことで恥をかくようなことであろうか?
しかし、法論をするような人が検索を使うものだろうかとわたくしは思う。
ようは、御書をそらんずるくらいにならなければ、法論など到底できるものではないだろう。

いずれにしても平成新編御書検索は、正系門家たる大石寺の出版せる御書のデータなのであるから、ひじょうに貴重である。そして当然に、精度が高いに越したことはない。ゆえに、わたくしとしては及ばずながら協力させていただきたいと思っているわけである。

2006/3/6

いわゆる行間を読むとは?  
トチロ〜氏より懇切なるご教示を賜わった。

わたくしは昨日、大聖人が時頼に対面して禅宗破折をあそばし、その後に立正安国論を奏上したというのは整合性に欠けるのでは? という意味を書いたのであるが、それに対してトチロ〜氏は日寛上人の種々の御説法を引用し、整合性に欠けることはない、と書いておられる。

なるほど、本尊問答抄にあるごとく、「其の書(立正安国論)にくはしく申したれども愚人は知りがたし」に尽きるのだと思った。
わたくしはしょせん愚人であって、御書を自分で解釈しようなどというのは思い上がりも甚だしいことなのだろう。やはり御歴代上人が付けてくださった道すじにそって拝読していくのが御書の正しい拝し方なのだと思う。

いやいや、そんなことは初めからわかりきったことだったのである。ようは自分で考えてみたいという、ある種の煩悩というか欲求があって、それを満たさんとするのが当ブログなのである。ゆえに今後も懲りずにああだこうだと書いていこうと思っている。
もし万が一にもわたくしの書くことが邪義であったならば、法華講の諸氏が訂正くださることだろう。もっとも、そのうち誰からも相手にされなくなる可能性もあるが・・・

わたくしの申し上げた整合性に欠けるの意味は単純である。
すなわち大聖人は、時頼に対面し禅宗はダメであるとはっきり言い切った、のちに立正安国論をもってこれを告げ知らしめた、と仰せあそばすのである。これはおかしいじゃないかと。
まるで大聖人にイチャモンをつけているようなものであるが、実際に時頼の立場になって考えてみるとわたくしの思うことも理解できるのではないか?

ようは最初に口頭で禅宗はダメだとはっきり言われてしまったわけである。そしていわば正式文書がその後に送付されてきた。すなわち立正安国論であるが、時頼はそれを読む。あれ? なんだ禅宗のことが書かれていないじゃないか? おかしいなあ? ・・・というようなことなのである。

まあ、しかし、わたくしは大きな間違いをしているのだろう。

ようするに、時頼との会見において大聖人は、念仏を徹底的に破折あそばした、あくまで念仏なのである。
その会見の中で、あるいは時頼のほうから禅宗はどうなのかと質問したのかもしれないし、大聖人御みずから禅宗について言及されたのかもしれない。
いずれにしても、時頼に遠慮して禅宗のことには触れなかったなどということではなく、禅は天魔の所為なることを言葉を飾らず仰せになられたのであろう。あくまでメインは念仏破折であるけれども諸宗容認などということではなかった、禅門の徒とされる時頼に遠慮している意味などは毛頭なく、問われれば答えたであろうし、問われずとも言及あそばした・・・このように考えれば、後に安国論で念仏中心の破折をされたとて、これに時頼は何らの不審も懐かないことであろう。

文章というのは字面だけを読んで判断してはいけないのだ。

さて、王代一覧なる書物に大聖人と時頼との会見が記されていて、これを日寛上人は引用あそばしておられるとのことである。これを逆に言うと、日寛上人は故最明寺入道見参御書を御存じなかったということだろう。

断簡御書には近年になって発見・発掘されたものがあると聞くが、あるいはこの御書もその中のひとつなのだろうか?
こうした御書の発見・発掘年代を一覧できるような資料があれば欲しいものである。

話はそれるが、法門申さるべき様の事を拝読していて、気がついたことを二点書いておく。

先づ世間の上下万人云はく、八幡大菩薩は正直の頂にやどり給ふ。別のすみかなし等云云。

これはkane氏が繰り返し諫暁八幡抄の御意として述べておられたことである。すでに文永七年にこれを拝するとはちょっと意外だった。しかもここでは世間の上下万人の認識として云々されているのである。これを踏まえて今一度、八幡抄を拝読する必要があるだろう。

また、檀弥羅王は転重軽受法門では檀弥栗王であり、ここでは檀弥利王となっている。

ちなみに平成新編御書検索では、壇弥利王となっている。ようは檀が壇になっているのだが、何か意味があるのだろうか?

2006/3/5

大聖人は北条時頼との対面を御遂げになられたか?  
日蓮大聖人は北条時頼と会見している・・・という話がある。

しかし本当だろうか、という疑問がわたくしにはある。
これについてはそれほど理詰めで考えているわけではなく、今まで顕正会に在籍していて一度も聞いたことがなかった、浅井昭衛著・南無日蓮大聖人にも記されていない、ということがあるので何となく受け入れ難い気分になっているだけなのかもしれない。

そうではあるが、いちおう体裁よく、大聖人と時頼との会見には疑問があるとする、理由らしきものを書いておこう。

天魔の所為たるの由、故最明寺入道殿に見参の時之を申す。又立正安国論之を挙ぐ。

故最明寺入道に向かひて、禅宗は天魔のそいなるべし。のちに勘文をもてこれをつげしらしむ。

故最明寺入道見参御書と法門申さるべき様の事に会見があったとする文証を見るわけだが、はたしてこれだけで断定できるのか?
また、内容的に見ても、やや疑問が感じられる。というのは、この二書では時頼に対して禅宗破折をし、それから立正安国論を奏した旨を御認めであられるが、安国論は念仏破折の書であるから、整合性に欠けるのではないかと思うのである。

おもにはこの二点である。
さらに補強材料として、次に撰時抄の御文を端折って引用させていただく。

余に三度のかうみゃうあり。一つには去にし文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向かって云はく、禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべしと申させ給へ。(中略)
二つには去にし文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向かって云はく、(中略)
第三には去年文永十一年四月八日左衛門尉に語って云はく、(後略)

あまり説明する必要性を感じない。
いわゆる諫暁というのは文書提出だけを指すものではなく、このように「向かって云はく」ないし「語って云はく」が諫暁そのものとなることは御文のとおりである。すると、拝し方によっては、一番目の諫暁も「宿谷の入道に向かって云はく」が諫暁なのではないかとも思われてくる。

つまり、もし時頼と対面なされたのであれば、それを三度の高名のひとつとして書くべきはずではなかったかと思われるのである。あるいは他の御書においても、時頼との会見のことが頻出してもおかしくないはずであろう。

平左衛門とのカラミは御書のいたるところに出てくる感がある。だが、時頼とのカラミはあまりにも少なすぎるのだ。
ゆえに、件の二書だけでは断定までには至らないのではないか、というのがわたくしの意見である。

2006/3/4

別してトチロ〜氏へ  
トチロ〜さんにはひじょうに重要なコメントをいただきました。

まず重箱のことですが、気のついたことは遠慮なさらずにどんどん指摘してくださったほうがわたくしとしてもありがたいことですので、今後ともよろしくお願いします。

冑と体同異心の件はですね、満月城岡山サイトから引用しますと、

又宇治勢田にむかへたる公卿殿上人は冑を震い挙げて大音声を放つて云く義時所従の毛人等慥に承われ

これが弘安四年の富城入道殿御返事でして、

日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし、日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて一定法華経ひろまりなんと覚へ候、

これが異体同心事ですね。

そして、49人目サイトから同文を引用しますと、

又宇治勢田にむかへたる公・・殿上人は甲を震ひ挙げて大音声を放って云はく、義時所従の毛人等慥かに承れ。

日本国の人々は多人なれども、同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候。

となっていまして、ここでは冑は甲であり、体同異心は同体異心となっているわけです。

ちなみに、nb資料室の富城入道殿御返事は目次のリンクが間違っていて、他の富城抄が開いてしまうようですね。

ええと、強仁状御返事について、詳細なるご教示をいただきました。
御真蹟写真で確認していただけるとは望外のありがたさですね。そして、昭和定本や平成新修、さらには録内・高祖遺文録ですか、これはすごいことです。なるほど全集のルーツが少し解明された感があります。

それから、北条時頼との会見については、今まで顕正会では教わった記憶がありませんが、どうでしたでしょうか?
故最明寺入道見参御書は存じ上げております。しかし断簡ですからね、どうなんだろうかという疑問を懐いておりました。
で、大急ぎで調べてみましたところ、正信会の大聖人伝でもこの会見があったと書いてありますね。まあ、断定までには至っていないような書き方ですが、文証としては先の故最明寺入道見参御書と、法門申さるべき様の事をあげています。

但し日本国には日蓮一人計りこそ世間・出世正直の者にては候へ。其の故は故最明寺入道に向かひて、禅宗は天魔のそいなるべし。のちに勘文もてこれをつげしらしむ。日本国の皆人無間地獄に堕つべし。これほど有る事を正直に申すものは先代にもありがたくこそ。

ひるがえって故最明寺入道見参御書を拝するに、

寺々を挙げて、日本国中旧寺の御帰依を捨てしめんが為に、天魔の所為たるの由、故最明寺入道殿に見参の時之を申す。又立正安国論之を挙ぐ。総じて日本国中の禅宗・念仏宗

やはり会見はあったということなのでしょうか? 正直なところ、わたくしにはいまだに疑問があるのですが、まあ、これは今後の課題ということにさせていただきたいと思います。

それから、時頼はすでに執権職ではなかったが最高権力者なるがゆえに云々と。
これはですね、わたくしの中では特に矛盾はないのです。ちょっと当てはまるかどうかわかりませんが、タイムリーな話題として、いや、大して話題にもなってませんけどね、渡部恒三氏が民主党の国会対策委員長になったというのが面白いです。
そもそも前原代表と鳩山幹事長の体制も妙な感じですが、今般はさらに大御所的な存在が国対委員長になったというのですからね、民主党の人材不足を物語るといえばそれまでですが、ようはもともとも実力者というのは実務者でもあるわけで、単なるお飾り的な存在だったら国対などは務まらないでしょう。

大聖人におかれても当然に、真の実力者が誰であるかを見極めた上で諫暁あそばしたわけで、それが勅宣・御教書への早道とも言えるわけですから、わたくし自身は矛盾を感じません。

弘安四年ないし五年の天奏につきましては、現在のわたくしには論ずるだけのものを持ち合わせていませんので、今後の課題ということにさせていただきたいと思います。

2006/3/3

強仁状御返事の対校  
昨日の投稿にうっかりミスがあった。

申すまでもなく未驚天聴御書は文永十一年・・・などと書いてしまったが、この御書には日付が記されていない、ゆえに申すまでもなくとは言い難いのである。
しかし、平成新編ではこれを文永十一年の四月と特定している。いわゆる系年研究の成果なのであろう、というか、この御書の内容からすれば他の系年は考えられないに違いない。よって、申すまでもなく云々はそれほどのミスでもないのかもしれない。
ともかくも、わたくしは平成新編を信用しているので、よく考えもせずに書いてしまったというのが事実である。

今回、これらのことを調べていて、思わぬ発見をした。

強仁状御返事に

昼は国主に奏し夜は弟子等に語る。

とある。ここでの国主は申すまでもなく、幕府・執権を指す。ところがもう一箇所、国主が出てくるが、こちらは意味がよくわからない文章になっている。前後を含めて次に掲げてみよう。

此等は大悪人たりと雖も我が朝の大謗法には過ぎず。故に青天は眼を瞋らして此の国を睨み、黄地は憤りを含んで動もすれば夭●を発す。国主世の禍に非ざれば之を知らず、諸臣儒家の事に非ざれば之を勘へず。剰へ此の災夭を消さんが為に真言師を渇仰し、大難を却けんが為に持斎等を供養す。譬へば火に薪を加へ氷に水を増すが如し。悪法は弥貴まれ大難は益来たる。只今此の国滅亡せんとす。

この中の「国主世の禍に非ざれば之を知らず」というのが文意不明である。
先に書いたとおり、わたくしは平成新編を信用している。けれどもこういう場合には、念のために学会版などと照合を行うようにしている。

国主聖主に非れば謂れ之を知らず。

国主世の禍に非ざれば之を知らず、

国主余の禍に非ざれば之を知らず。


最初のが学会版で、次が平成新編、そして三番目が日蓮宗現代宗教研究所である。

この御書には御真蹟が存するという。その意味では二番目か三番目が正しいであろう。つまり、学会版はあまりにも違いすぎるので、御真蹟に忠実とは考えにくいのである。
そうではあるが、わたくしの感覚では一番目がひじょうにわかり易い。すなわち、国主は賢王・聖主ではないので災難の起因を知ることができない、ゆえにますます邪教に傾注しして亡国に拍車を掛けている・・・というような文意になるだろう。

「世の禍」と「余の禍」はどちらかが御真蹟を読み間違えたということなのだろうか?
しかし、どちらもほぼ同じ意味になるから面白い。
すなわち世の禍は、国主はそれなりの見識を持っているけれども仏法上の深い見識はない、今の日本国に起こりつつある亡国の現証は世法上の禍ではなく仏法上の禍なので国主といえどもわからないだろう・・・というような感じだと思う。
余の禍も同じであって、仏法以外の禍を余の禍と読んでいるわけである。

わたくしとしては学会版の表記がいちばんわかり易いけれども、あくまで御書は原文に忠実でなければならない。

さて、どれがいちばん正しいのであろうか?


夭●・・・ようげつ。字体が難しくて表記できない。

2006/3/2

未驚天聴御書の前後を拝し奉る  
昨日の投稿では、いわば浅井先生の御書の読み方にケチをつけたようなものであるが、こんなことばっかりやっていて、顕正会員に嫌われてしまうといけないので、今日は少し補足説明をしたいと思う。

昨日、浅井先生の引用には「若干の問題」があって、わたくしの解釈とは「ちょっと違う」と書いた。ようするに、あくまで若干の問題であり、ちょっとの違いに過ぎない。大筋においては間違っていない、ほとんど同じ意見と言ってもいいくらいである。
おそらく浅井先生のことであるから、わたくしの書く程度のことは百も承知であろう、ようはなるべく平易に説明するのが先生の流儀であるから、紛れを嫌って「之を申すと雖も」を省略したのだろうと思われる。

あらかじめ結論から書いてしまうと、大聖人は立宗当初から勅宣を視野に御入れであられた、より正確に言えば勅宣並びに御教書ということになろうか、そして勅宣と御教書のどちらに比重を置いていらっしゃるか、そこに変化が拝されるということなのだと思う。
ようするに、御化導の進展にともなって段々とシフトしていくわけであるが、そのターニングポイントがまさに未驚天聴御書なのである。

それは行敏御返事と強仁状御返事を拝すれば明らかだと思う。

条々御不審の事、私の問答は事行き難く候か。然れば上奏を経られ、仰せ下さるゝの趣に随って是非を糾明せらるべく候か。

文永八年の行敏御返事であるが、ここでの上奏は天皇へのそれではなく、幕府・執権と拝するしかないと思うが違うだろうか?
もちろん、その次の段階として朝廷・天皇という意味も遠く含んでいることは考えられるが・・・

建治元年の強仁状御返事では、

公家と関東とに奏聞を経て

と、はっきりと区別して表現あそばした上で、末文において次のごとく仰せになられる。

然るべくんば此の次いでに天聴を驚かし奉って決せん。(中略)速々天奏を経て疾く疾く対面を遂げて・・・

公家と関東では公家に重きを置いていることは明らかであろう。
申すまでもなく未驚天聴御書はこの二つの御書の間に挟まるところの、文永十一年の御述作である。

之を申すと雖も未だ天聴を驚かさヾるか。事三箇度に及ぶ。今諫暁を止むべし。後悔を致す勿れ。


まあ、ぶっちゃけて言えば、幕府は当てにならんから・・・という流れなのかもしれないが、いずれにしても皇室へ聖意を向け給うておられるとの浅井先生の見解は、結論としては正しいとわたくしは思う。


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