2006/3/2

未驚天聴御書の前後を拝し奉る  
昨日の投稿では、いわば浅井先生の御書の読み方にケチをつけたようなものであるが、こんなことばっかりやっていて、顕正会員に嫌われてしまうといけないので、今日は少し補足説明をしたいと思う。

昨日、浅井先生の引用には「若干の問題」があって、わたくしの解釈とは「ちょっと違う」と書いた。ようするに、あくまで若干の問題であり、ちょっとの違いに過ぎない。大筋においては間違っていない、ほとんど同じ意見と言ってもいいくらいである。
おそらく浅井先生のことであるから、わたくしの書く程度のことは百も承知であろう、ようはなるべく平易に説明するのが先生の流儀であるから、紛れを嫌って「之を申すと雖も」を省略したのだろうと思われる。

あらかじめ結論から書いてしまうと、大聖人は立宗当初から勅宣を視野に御入れであられた、より正確に言えば勅宣並びに御教書ということになろうか、そして勅宣と御教書のどちらに比重を置いていらっしゃるか、そこに変化が拝されるということなのだと思う。
ようするに、御化導の進展にともなって段々とシフトしていくわけであるが、そのターニングポイントがまさに未驚天聴御書なのである。

それは行敏御返事と強仁状御返事を拝すれば明らかだと思う。

条々御不審の事、私の問答は事行き難く候か。然れば上奏を経られ、仰せ下さるゝの趣に随って是非を糾明せらるべく候か。

文永八年の行敏御返事であるが、ここでの上奏は天皇へのそれではなく、幕府・執権と拝するしかないと思うが違うだろうか?
もちろん、その次の段階として朝廷・天皇という意味も遠く含んでいることは考えられるが・・・

建治元年の強仁状御返事では、

公家と関東とに奏聞を経て

と、はっきりと区別して表現あそばした上で、末文において次のごとく仰せになられる。

然るべくんば此の次いでに天聴を驚かし奉って決せん。(中略)速々天奏を経て疾く疾く対面を遂げて・・・

公家と関東では公家に重きを置いていることは明らかであろう。
申すまでもなく未驚天聴御書はこの二つの御書の間に挟まるところの、文永十一年の御述作である。

之を申すと雖も未だ天聴を驚かさヾるか。事三箇度に及ぶ。今諫暁を止むべし。後悔を致す勿れ。


まあ、ぶっちゃけて言えば、幕府は当てにならんから・・・という流れなのかもしれないが、いずれにしても皇室へ聖意を向け給うておられるとの浅井先生の見解は、結論としては正しいとわたくしは思う。


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