2006/3/3

強仁状御返事の対校  
昨日の投稿にうっかりミスがあった。

申すまでもなく未驚天聴御書は文永十一年・・・などと書いてしまったが、この御書には日付が記されていない、ゆえに申すまでもなくとは言い難いのである。
しかし、平成新編ではこれを文永十一年の四月と特定している。いわゆる系年研究の成果なのであろう、というか、この御書の内容からすれば他の系年は考えられないに違いない。よって、申すまでもなく云々はそれほどのミスでもないのかもしれない。
ともかくも、わたくしは平成新編を信用しているので、よく考えもせずに書いてしまったというのが事実である。

今回、これらのことを調べていて、思わぬ発見をした。

強仁状御返事に

昼は国主に奏し夜は弟子等に語る。

とある。ここでの国主は申すまでもなく、幕府・執権を指す。ところがもう一箇所、国主が出てくるが、こちらは意味がよくわからない文章になっている。前後を含めて次に掲げてみよう。

此等は大悪人たりと雖も我が朝の大謗法には過ぎず。故に青天は眼を瞋らして此の国を睨み、黄地は憤りを含んで動もすれば夭●を発す。国主世の禍に非ざれば之を知らず、諸臣儒家の事に非ざれば之を勘へず。剰へ此の災夭を消さんが為に真言師を渇仰し、大難を却けんが為に持斎等を供養す。譬へば火に薪を加へ氷に水を増すが如し。悪法は弥貴まれ大難は益来たる。只今此の国滅亡せんとす。

この中の「国主世の禍に非ざれば之を知らず」というのが文意不明である。
先に書いたとおり、わたくしは平成新編を信用している。けれどもこういう場合には、念のために学会版などと照合を行うようにしている。

国主聖主に非れば謂れ之を知らず。

国主世の禍に非ざれば之を知らず、

国主余の禍に非ざれば之を知らず。


最初のが学会版で、次が平成新編、そして三番目が日蓮宗現代宗教研究所である。

この御書には御真蹟が存するという。その意味では二番目か三番目が正しいであろう。つまり、学会版はあまりにも違いすぎるので、御真蹟に忠実とは考えにくいのである。
そうではあるが、わたくしの感覚では一番目がひじょうにわかり易い。すなわち、国主は賢王・聖主ではないので災難の起因を知ることができない、ゆえにますます邪教に傾注しして亡国に拍車を掛けている・・・というような文意になるだろう。

「世の禍」と「余の禍」はどちらかが御真蹟を読み間違えたということなのだろうか?
しかし、どちらもほぼ同じ意味になるから面白い。
すなわち世の禍は、国主はそれなりの見識を持っているけれども仏法上の深い見識はない、今の日本国に起こりつつある亡国の現証は世法上の禍ではなく仏法上の禍なので国主といえどもわからないだろう・・・というような感じだと思う。
余の禍も同じであって、仏法以外の禍を余の禍と読んでいるわけである。

わたくしとしては学会版の表記がいちばんわかり易いけれども、あくまで御書は原文に忠実でなければならない。

さて、どれがいちばん正しいのであろうか?


夭●・・・ようげつ。字体が難しくて表記できない。


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