2006/3/8

平成新編日蓮大聖人御書を謹んで書写し奉る  
此偏に国土の恩を報ぜんが為なり。
其の勘文の意は、日本国天神七代・地神五代・百王百代、人王第卅代欽明天皇の御宇に始めて百済国より仏法此の国に渡り桓武天皇の御宇に至るまで、其の中間五十余代二百六十余年なり。其の間一切経並びに六宗之有りと雖も天台・真言の二宗は未だ之有らず。桓武の御宇に、山階寺の行表僧正の御弟子に最澄といふ小僧有り(後に伝教大師と号す)。已前に渡る所の六宗並びに禅宗之を極むと雖も未だ我が意に叶はず。聖武天皇の御宇に、大唐の鑑真和尚渡す所の天台の章疏、四十余年を経て已後始めて最澄之を披見し、粗仏法の玄旨を覚り了んぬ。最澄天長地久の為に延暦四年叡山を建立す。桓武皇帝之を崇めて天子本命の道場と号し、六宗の御帰依を捨てゝ一向に天台円宗に帰伏したまふ。同じき延暦十三年に長岡の京を遷して平安城を建つ。同じき延暦廿一年正月十九日高雄寺に於て南都七大寺の六宗の碩学、勤操・長耀等の十四人を召し合はせて談じて勝負を決断す。六宗の明匠一問答にも及ばず、口を閉づること鼻の如し。華厳宗の五教、法相宗の三時、三論宗の二蔵三時の所立を破し了んぬ。但自宗を破らるゝのみに非ず、皆謗法の者たることを知る。同廿九日、皇帝勅宣を下して之を詰りたまふ。十四人謝表を作りて皇帝に捧げ奉る。其の後代々の皇帝の叡山の御帰依、孝子の父母に仕ふるに超え、黎民の王威を恐るゝに勝れり。或御時は宣明を捧げ、或御時は非を以て理に処す等云云。殊に清和天皇は、叡山の慧亮和尚の法威に依りて位に即きたまふ、帝皇の外祖父九条右丞相は誓状を叡山に捧ぐ。源右将軍は清和の末葉なり。鎌倉の御成敗是非を論ぜず叡山に違背せば天命恐れ有る者か。然るに後鳥羽院の御宇、建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り。悪鬼其の身に入りて国中の上下を狂惑し、代挙って念仏者と成り人毎に禅宗に趣く。存外に山門の御帰依浅薄となり、国中の法華真言の学者棄て置かせられ了んぬ。故に叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七社・国中守護の諸大善神、法味を喰はずして威光を失ひ、国土を捨て去り了んぬ。悪鬼便りを得て災難を致し、


平成新編日蓮大聖人御書の368ページである。
自分で入力したのは久しぶりのことだ。つまり普段は横着してすべてコピペで済ましているのである。ネット御書のありがたさをつくづくと実感した。

さて、このところは話が細部に入り込みすぎている感があるので、今日は大雑把に書いて見たいと思う。

浅井先生は未驚天聴御書を、幕府への諫暁を止めて皇室へ聖意を向け給うたものと拝している。しかし、わたくしの思うに、大聖人は最初から皇室へ聖意を向け給ておられたのではなかろうか?
その有力な証拠がこの安国論御勘由来ではなかろうかと思う。

引用部分には皇帝がどうたらこったら書かれているが、ようは鎌倉幕府の上位概念として皇室があって、桓武天皇以来、皇室では伝統的に叡山を尊崇してきた、源右将軍だって清和天皇の流れを汲むわけだろう、いったい今の鎌倉政権は何をやっておるのか、というようなことだと思う。

そして後半には次の御文を拝する。

而るに当世の高僧等は謗法の者と同意の者なり。復自宗の玄底を知らざる者なり。定めて勅宣・御教書を給ひて此の凶悪を祈請するか。仏神弥瞋恚を作し、国土を破壊せん事疑ひ無き者なり。

ようするに、大聖人がここで責めているのは謗法の者でもなく当世の高僧でもない、ということが重要である。いや、もちろん、謗法を容認しているわけではないし、当世の高僧を認めるものでもないのであるが、ここではあくまで為政者を責めているのである。
これが文永五年の御書。そして文永七年の法門申さるべき様の事にも同じ趣きが示されている。

又此の大罪は叡山三千人の失にあらず、公家武家の失となるべし。

仏法上の失といえどもそれが為政者に帰属することを端的に御指南であられる。

これらの御書の系年に問題はないであろう。
大雑把に言えば、大聖人の諫暁は未驚天聴御書をターニングポイントとして武家から公家へと移るのだけれども、委細にたずねるならばそれ以前からすでに公家への諫暁を御考えであられたことが諸御書に拝されるのである。


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