2006/3/10

顕正新聞編集部の質を問う  
このところは本有の王法論に始まって、勅宣・御教書だの国主だのを何やかやと書いてきた。
その場の思いつき、行き当りばったりにしてはよく話題が続くものだと、われながら驚いている。今まで書いてきたことをうまくまとめれば、それなりに有意義な文章になるのかもしれないが、そのつもりはあまりない。今後もつれづれなるままに書いていくのみである。

今日は二月度総幹部会の浅井先生講演から、得意のアゲアシ取りをしようと思う。

私はつくずく思っております。

いま私はつくずくと、


なんだろう、これは。
国語辞典で調べると、「つくずく」という見出しは出ていない。ようは「つくづく」の間違いであろう。浅井先生らしくない間違いだと思う。
おそらくこの部分は講演のいわばマクラであり、原稿なしでしゃべっている部分なのだろうと思う。ゆえに、テープ起こしをした人が間違えた、あるいは音声入力というのがあるらしいのでそれであろうか、ともかく編集ミスということだろう。
しかし、先生は新聞を刷る前に自分の講演だけでなく、すべての記事をチェックしていると聞いたことがあるのだが、それはウソなのであろうか? あるいは先生といえどもうっかり見落とすこともあるだろうから、チェックはしたけれども気がつかなかったということかもしれない。

三時弘教次第

これはよくわからないのであるが、三時弘経次第が一般的のようである。つまり、教と経の違いである。まあ、これは大した問題ではないかもしれない。

御当代

三時弘経次第のことは平成二年の諫暁書にも出ていて、三時弘教次第と表記されているから浅井先生としては一貫しているのであろう。だったらなぜに当御代としないのかがわからない。
つまり、「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」には当御代と書かれているのに、今回は御当代としているのである。単なるミスであろうか?

編集者はもっと気を入れて仕事をしないといけない。
ある意味、先生の取り巻きはイエスマンばかりで、意見を言える人がいないのかもしれない。実は先生に対して批判的な眼差しを向けられるような人物が側近にいると、これが大変に貴重であり有用なのであるが、こわい意味もあるのでそういう人を近づけたくないのが人情でもある。
こわい意味は当然、意見を言う側も怖いわけであって、ゆえに幹部は先生ににらまれないような処世術を自然と身につけていくことになるし、そうでなければ幹部として生き残れないわけであろう。
しかし、どのみち、今回のようなミスがあれば必ず誰かが叱られるのではないだろうか? もしそうだとしたら、やはり事前に間違いを見つけて意見を言うべきであろう。

ここに始めて、

実はこれ、現代国語では失格・・・に近い。おそらく先生もわかっていることだろう。ようはわかっていて使っているのである。
いつだったか、御書講義で「師子」について説明していたことがある。普通は獅子であるが大聖人は師子と御書きになられているので顕正会でもそのように表記する云々と。
つまり、始めては初めてのほうが現代向きなのであるが、どうやらこれも大聖人に倣って始めてと表記しているらしいのである。

こういうことがあるから、うっかりしたことは聞けないのかもしれない。それで顕正会員はわからないことがあっても「何か深い意味があるに違いない」などと思って、そのまま未解決にしてしまっていることが少なくないようなのである。

やはりわからないことは聞いたほうがいいのだろう。


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