2006/3/13

折伏理論書のコンセプト  
末法、ことに広宣流布以前の謗法充満の世においては、自行と化他が車の両輪のごとく相俟って、始めて完璧なる仏法の実践となる。

折伏理論書からの引用である。

数日前に書いたように、浅井先生は「始めて」を好んで使う傾向にある。
通常、現代国語では「初めて」とするか、ひらがなで「はじめて」と書くものだと思う。
生意気を言うようであるが、わたくしは折伏理論書が出来した当初から、この部分には違和感を持っていた。それほど教養があるわけではないし、学歴もない。ようは義務教育の範囲であっても普通に国語を勉強していれば、誰もが気がつくはずだとわたくしは思っている。ゆえに新しく入信してきた人ならば、わかると思うのだがどうだろうか?

洗脳というべきかどうか、長く顕正会にいる人は麻痺してしまって気がつかないし、指摘されても何とも感じない可能性がある。

わたくしの場合は顕正会で出している書籍の何倍もの読書をしてきた。
別に宗教書というわけではない、いや、逆に他の宗教書は謗法だという意識があったので、むしろそれ以外の小説だとかエッセイ、あるいは雑学的なものをよく読んだものだった。
顕正会に入る以前から読書の習慣はあった。それゆえに、「始めて」に違和感をおぼえたわけであるし、また顕正会に入ってからも読書を続けていたので、言語感覚のギャップというものを相対化して見ることが、自ずとできたのだと思っている。

折伏理論書の初版には、「なんとか現代人に仏法をわかり易く」とのコンセプトが述べられている。だったら、「始めて」ではなく「初めて」ないし「はじめて」でもよいのではなかったか?

こんなことを検索する人はいないだろうが、平成新編御書検索で調べたら次のような結果が出た。

始めて 129件
初めて  31件
はじめて 15件


浅井先生が「始めて」を使用する理由は、大聖人の用語例に倣ってであろう。
確かに数字の上から「始めて」が多いことは歴然である。だが、「初めて」も案外に御使用あそばしているし、「はじめて」もあることはあるのである。

こうなると、先の現代人にわかり易くを踏まえて、「初めて」ないし「はじめて」を使っても問題ないことになるだろう。
むしろ逆に「始めて」にこだわる必然性はあまりないことになると思われるがどうだろうか?

まあ、大した問題ではないけれども、先生のは文章が平易なだけに、かえって気になってしまうのである。


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