2006/3/14

ひとり漫才  
偉そうに他人の批判をしていると、案外にそっくりそのまま自分にもその批判が当てはまってしまったりすることが往々にしてあるものだ。ようは自分のことを棚に上げてしまっているわけで、まあ、大抵は気がついていないのだろう。もし気がついていながら、なおも批判を続けている人がいるとしたら、これは厚顔無恥としか言いようがないであろう。

このところ現代国語がどうのこうのと書いてきた。
浅井先生のしゃべりというのは文語的なところがあって違和感をおぼえずにはいられないことが間々あるのだけれども、とりわけ漢字の表記に現代語との齟齬がいくつか見られるわけで、「師子」や「始めて」がそれに該当する。

さらには・・・「取意」が・・・あれ?

しまった! しくじった!

左の検索窓を使って「取意」を調べてみると、なんとわたくしの文章の中に「取意」がある。しかも、単なる誤変換どころの話ではなく、ぜんぶ取意なのである。

国語辞典に「取意」はない。
ようは「趣意」のつもりでずっと使っていたのである。最初はちゃんと認識していたつもりだったけど、いつの間にか無意識に、当たり前に使うようになっていた。ようは感覚が麻痺してしまっていたのである。
これでは他人のことをとやかく言えた義理ではないだろう。

おかげで新たな発見があった。
もしやと思って平成新編御書検索で「趣意」を調べてみたところ、一件だけヒットしたのである。大聖人はもっぱら「取意」と御書きになられたけれども例外もあるのだろう・・・いや、これは間違いのようである。つまり御書検索のデータが間違っているのだと思われる。わたくしの所持する平成新編の当該部分は「取意」となっているので、ようはデータの入力ミスであろう。

申すまでもなく、浅井先生にしてもわたくしにしても大聖人の御書に倣って「取意」を使っている。これは現代国語としては問題ありかもしれないが、文字どおり「意を取る」を表意しているわけだから語義的にはけっこう適切なのではあるまいか? また、取を趣の略記と考えてもいいだろう。

そういうわけで、今後もこれで統一したいと思うがどうだろうか?


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ