2006/3/20

国主国宰についての私見  
トチロ〜さんに質問を申し上げたところ、懇切なる回答をいただきました。

トチロ〜氏の回答

ありがとうございました。

ご指摘のとおり、大聖人は国主をいろいろの意味で御使用になられていて、「仏は三界の国主」という御文もあるくらいですから、まさに「所対によって不同」ということなのでしょう。
ですから、その文脈でもって判断する必要がありますし、また、ひとつの御文であっても二重三重の意味を兼ねている場合もあるでしょうから、簡単ではないですね。
以下は普段どおり、独白でやらせていただきます。

立正安国論に「国主国宰」の御文を拝するが、先日はこれを天皇と執権に当てはめた。ようはこれが原意だろうと思うのだ。

では、現代においてはどうか?

わたくしは天皇と首相だと思っている。
現在でも首相のことを宰相と呼ぶことがある。それほど特殊な表現ではなく、けっこう使われているはずである。どうやら古くからある言葉らしく、昔の中国において天子を補佐して政治を行う最高の官職が宰相だったそうである。
であれば当然に、大聖人もそれを御承知であられたであろう。

ようするに、わたくしは今も昔もそれほど変わっていないと思っているわけで、国主国宰の原意は天皇とその輔弼ということになる。

立正安国論では主人と客の問答になっていて、国主国宰は客の言葉なのである。よってまず客がどのように思っているかが問題となる。
主人=大聖人、客=北条時頼だとすると、ここでの国主国宰に時頼は当てはまらないと思う。文字どおり時頼は旅客であって国主国宰ではない、そういう語り口になっているのではないか? 実際問題として、時頼はこの時すでに執権職ではなかったのだから、つじつまはあっているのではなかろうか?
そして例の「国」の表記である。かたや王であり、かたや民である。旅客の目から見て、執権は王に見えたであろうか?
わたくしは否だと思う。

もうひとつの理由は、勅宣・御教書が出てくることである。
これは主人すなわち大聖人の言葉であるが、そもそも主人の言葉も客の言葉も大聖人が御書きになられているわけであって、この整合性からすれば国主国宰の意味するところも自ずと決まってくるのではないか?

可能性として、勅宣の意味をどのように拝するかが問題になるかもしれない。
先の国主の意味みたいに所対によって違ってくるのだとしたら・・・例えば執権が勅宣を発布するとか、もしそのような意味が見出されるのだとしたら、これはわたくしとしても認識を改めないといけない。
まあ、そういうことはないだろう、勅宣の意味は世法上では天皇にしか使われないし、少なくとも大聖人の用語例では他にないと思う。

そういうわけで国主・国宰の意味は、勅宣・御教書が出てきたところで確定するのだと思う。
仮に客の認識が違っていたとしても、主人によって勅宣・御教書の言葉が出された時点で、いわば客の認識は訂正されたことになるはずだからである。

さらに、御晩年の三大秘法抄にも勅宣・御教書が拝されることを思い合わせれば、なおさらのことではなかろうか?


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ