2006/5/31

顕正会における中国脅威論の初出は?  
しばらく見送るつもりだったのだが、櫻井よしこ氏と浅井先生との関係性についての質問があったので、わたくしなりの視点で先生の発言をひろってみようと思う。

しかし一方、近年の中国の傍若無人な振舞いに対して、いま日本にナショナリズムが台頭しつつある。保守派の政治家・学者たちも、声高に保守の論理を語るようになって来ましたね。これらの保守派の主張は、左がかった中国べったりの輩と比べたら、よほど日本人らしくて、よくわかる。
だが、これら保守派の論客たちの言うところも、その所詮は、皇室と、靖国神社と、神道で止まっちゃっているのです。
それでは日本は救えない。彼らはまだ仏法を知らない。仏法に正邪のあることを知らない。


四月度総幹部会の講演である。

なるほど浅井先生の主張は保守系の主張と親和性があるようだ。
ただし、先生に対するありがちな批判として、こうした学者・文化人の言論を利用して無知な会員を扇動しているに過ぎない、といったものがあるのだろう。それを先生も気にしているのかもしれない。ゆえに、文章の後半部分では、保守系の論客との違いを強調しているように読める。

つまり、仏法を根底に据えなければ、日本を救うことはできないと。

この主張自体はそれほど目新しいものではない。実は、三月度・二月度に目を向けると、もっとすごいことを言っているのである。

まずは二月度総幹部会の講演から引用する。

私は仏法の上から、二・三十年前から「中国による他国侵逼は不可避である」と叫び続けてまいりました。

これはすごいことである。
先に書いたごとく、世間の識者の発言を利用して無知な会員を扇動しているみたいに言われることは、先生にとっては心外なことなのであろう、ゆえに上記のごとく言うわけである・・・自分は何も最近になって言い出したわけではない、もう二・三十年前から言い続けているのだと。
確かにこれは、そこらの職業言論人というか売文家とは明らかに一線を画するものであり、いわゆる時流に諂わぬ見識とも言い得るであろう。

それにしても、二・三十年前というのはずいぶんとアバウトではあるまいか?

私は大聖人様の仰せを拝し、必ず中国による他国侵逼があることを三十年前から言い続けてまいりましたが、いまそのことが、中国の狂気のような軍事拡大によって証明されつつある。

なんと、翌月すなわち三月度の総幹部会では、二・三十年前が三十年前に言い換えられているのである。

う〜む、三十年前とは・・・

三十年前に、いったい、どのような講演があったのか? 本当にそんな講演が存在するのか? 昔はソ連のことを言っていたのではなかったか?

しばらく見送るつもりと書いたのは、ようはこの裏が取れていないからである。

わたくしの記憶が確かならば、平成五年の男子部大会において、今日でいうところの中国脅威論が初めて出てきたのではないかと思うのだが、それ以前にもあったのだろうか?

もし、平成五年初出が正しいとすると、三十年前は大ウソになるし、二十年前というのも苦しいであろう。

ご存知の方はよろしくご教示のほどを。

2006/5/30

蒙古脅威論はあり得るか?  
投稿不能は大聖人の御裁断か?

なにやら、わたくしの職業について質問がありましたが、とりあえず上掲のリンク先を参照してください。

いわゆるニートなのかもしれませんし、あるいはリストラの憂き目に遭ってしまった失業者なのかもしれませんし、もしくは年金生活者かもしれません。あくまでプライベートなことなので、これくらいで勘弁してください。

いちおう当ブログも一年を過ぎましたので、そろそろ店じまいをしようかとも考えていますが、あるいはダラダラとこの調子でやっていくかもしれません。ともかく先のことはわかりませんね。


ええと、それから、他にも質問のようなものが入っていますが、櫻井よしこ氏が法華講員なのかどうかは、わたくしにはわかりません。仮に法華講員であったとしても、どうやらご本人はそれを開示しているわけではないようですね。

櫻井さんの中国脅威論や愛国主義などは立正安国論などの日蓮思想から出たものなのでしょうか?

櫻井氏はメジャーな人物ですから、ご本人が日蓮正宗の信仰をしていることを表明していれば、もっと知られていることでしょう。そして、おっしゃるように、氏の主張するところの根底には「日蓮思想」があるのだと見なされることでしょう。ある意味で、それは言論人として、けっこうな足枷のように思います。

例えば、多くの人が公明党=創価学会という見方をしています。これは公明党としてはやりにくいわけで、政策レベルではキレイ事ばかり言ってられないのが現実ですからね、イラク問題などでもけっこう苦労していたように思います。

つまり、宗教というのはいわば絶対的な規定みたいなものですから、何が何でもその規定に合わせなければならない、逆はダメなんですよね、融通が利かないわけです。

いずれにしても、櫻井氏が法華講員かどうかわかりませんから、それが「日蓮思想」にもとづくかどうかもわかりません。氏の主張から読み取る方法もなくはないですが、残念ながらわたくしにはそこまでの勉強ができていません。

一方の浅井においては明瞭です。

ですから、ご質問の一部を次のように書き直しますと、わたくしとしても答えやすいですね。

浅井会長の中国脅威論や愛国主義などは立正安国論などの日蓮思想から出たものなのでしょうか?

はい、そのとおりです、と。

ようするに、浅井先生の行動原理というのはすべて大聖人の御指南にもとづくものなのですね、いちおうは・・・

なにしろ本人がそう言ってますからね。

ただし、問題はですね、中国脅威論そのものは大聖人の御指南そのものではない、ということなのです。先ほど、宗教は絶対的な規定であると書きましたが、まさか大聖人が中国を脅威であるなどと規定するわけがないのです。大聖人の立正安国論での御指南はもっと抽象的なものであって、必ずしも国名を明示しているわけではないのですね。
ようするに、他国侵逼ということを仰せになられた、そしてその後、九箇年後でしたかね、蒙古からの使者が日本にやってきて、いよいよ他国侵逼が現実のものとなってきたわけです。

この意味でいくと、今日においては必ずしも蒙古でなければならないということではないのですが、さりとて、ではなぜ中国なのかということも明瞭ではないと思います。
例えば、幕末から明治にかけてはいわば欧米脅威論だったわけで、それも他国侵逼といえば言えるわけですね。あるいは旧ソ連であるとか・・・
つまり、国際情勢などというものは、いくらでも変化していくものですから、今の中国脅威論を大聖人の御指南に当てはめて固定化してしまうのは危険なのではないかという気がします。

もちろん、今の中国が脅威であるのは事実なのでしょうけど・・・

2006/5/29

十日前の未熟な投稿  
   日昭
日蓮大聖人







            四条金吾














   日朗
   日興上人



   日持

   日頂 寂日坊日華
   日向




      和泉公日法
            南条時光
     日目上人

      寂仙房日澄


      大夫阿日尊 南条七郎五郎


十日前に、いつもと違う文体? というのを書いたのであるが、えらい間違いをやらかしていたことに今ごろになって気がついた。
誰も指摘してくれないということは、すでに見放されているのか、あるいは善意に解釈してくれたのか、そのどちらかであろう。

宗祖御遷化記録での順番は若い順になっていますね。

これは大間違いである。もし善意に読むならば、「順番は(入門の)若い順に・・・」となるだろう。しかし、正直に告白するけれども、自分は単純に年齢の若い順だと思っていたのである。

実は本弟子六人の中でいちばん若いのは、日向なのである。

上掲のは平成新編にある年表から、単純に生まれた順番を並べたものである。日昭は載っていないのだが、確か大聖人よりも一年年長であると思う。
それにしても日昭と日向では親子ほどの差があるわけで、ちょうど日昭が入門した年に日向が生まれていることからしても、本弟子六人の構成とは如何なるものなのか、不思議な思いがする。
大聖人の深き御考えを、わたくしごときがそう簡単にはわかるはずなどないのであるが、逆にこの一事をもってすれば、安易に唯授一人と本弟子六人を不整合であると断定するわけには行かないのではなかろうか? いや、しかし、これはやや手前味噌の論理であろうか?

いずれにしても、これらは本化別頭仏祖統紀を信用しての話であるから、あまり意味をなさないことかもしれない。また、わたくしの感覚では年齢がそれほど重要な意味を持っていたとは感じられないので、たとえその年齢差が正確であったとしても、だからどうだという話でもないのかもしれない。

いつの時代においても、人物本位・能力本位ということがすべてのような気がする。
あるいは当時において入門順の意識はあったのかもしれない。だが、そこにあえて不次第としてあることが能力本位の証拠なのであろう。

2006/5/28

顕正会員の文章傾向  
そして顕正会の清らかさに触れるほどに、学会の醜さを痛感しており、初めて参加した総幹部会のビデオ放映終了後に、私が「何が一番すごかったですか?」と聞くと、「浅井先生が最初から最後までみんなと一緒にいたことです」と語り、聞けば池田大作は集会において途中参加・退出は当たり前だそうで、このあまりに違う信心の姿勢に驚いており、また「下種本仏成道御書」講義を拝聴するや、「はじめて仏様の尊さ、御書の有難さが分かりました。感動しました」と語る姿を見ては、たとえ純粋な信心があろうとも師匠を間違えれば全く大聖人様の御心に叶わぬことを痛感し、正しき師匠に師事し得ることの大事を、今一重かみ締めるものであります。

顕正新聞第1034号の記事である。

この記事を読んで思い出したことがある。法華ちゃんねるの映像資料の中に、池田氏がダジャレを言いまくるビデオがあった。あのビデオはどうなってしまったのだろう、どこかで閲覧できるのだろうか・・・

確かアメリカでの集会だったと思う。そこで池田氏は式次第を無視してひとりでダジャレを言いまくっていた。ぶち壊しもいいところであるが、これがまた面白いといえば面白いのである。こういうのを当意即妙というのであろう。
逆に顕正会の集会はクソ真面目すぎて面白くない。たまには浅井先生もハメを外してみたらどうだろう・・・いや、やめたほうがいいかもしれない。先生の偉いところは、会員の舌足らずな体験発表に忍耐強くちゃんと耳を傾けておられることである。
これが池田氏だったらどうなっているか、わかったものではない。じっとしていられるタイプではなさそうだし、そういうワガママが通用する立場でもあるのだろう。ゆえに、ぶち壊されて困るような集会では、途中参加・退出という作戦を使うのだろうと思われる。

いずれにしても「浅井先生が最初から最後までみんなと一緒にいたことです」というのはすごい。これが創価学会から顕正会に移籍してきた人の感想なのだそうである。

さて、今日のネタはこれでおしまいであるが、あえてヒネリ出すとするならば、「なんだ、このセンテンスの長さは?」という驚きである。
顕正新聞を読んでいると、どれもこれもやたらと長いセンテンスばかりが目立つ。ようするに、句点すなわちマルを打つまでの長さがべらぼうに長いのである。はっきり言って異常である。わざとやっているのではないかと思うくらいである。
そのうちに、いちばん最後までマルを打たない文章があらわれるのではないか・・・

小泉首相の場合は、ワンフレーズ・ポリティクスないしワンセンテンス・ポリティクスといわれる政治手法、いや、話法というべきか、ともかくもこれがおなじみとなっている。
実は顕正会もまたワンフレーズ・ポリティクス的な指導が少なくないわけで、定番としては一念信解がそうであるし、最近では「有難いの三文字と広宣流布の四文字」云々といったあんばいである。

ところがすでに述べたごとく、どういうわけか顕正会員はやたらと長いセンテンスを好むのである。

わたくしは言いたい、広略を捨てて肝要を好むべしと。

2006/5/27

痛みのともなう他者批判  
紺碧さん、お久しぶりです。

今、過去の投稿を振り返ってみたら、なんだかんだ一ヶ月も前のことだったんですね。月日の経つのは早いもので、驚いております。

わたくしとしては別に陰に隠れてコソコソしているつもりはないのです。さりとてよその掲示板などに書き込むだけの元気がないものですからね、こうして独白という形でやらせていただいているのですが、今回はあえて某掲示板・某氏ということにしました。それが結果として紺碧さんの心証を悪くしてしまったことは、わたくしとしては想定外のことでして、ひじょうに申し訳ないことだったと思います。

少し言い訳を書いておきますと、あれ以来ですね、不穏な空気がありまして、破折法論館のほうでも不可解な投稿が後を絶ちませんでした。なかには、最初に喧嘩を売ってきたのは正宗ではないか、みたいな投稿もありまして、誰がやっていることかはわかりませんが、一向にワダカマリがとけない状態でした。
もっとも日蓮正宗の教義そのものが他宗との融和を許さないようなところがあるわけですから、これは永遠に解決しないことなのかもしれませんね。

失礼ながら、それ以降のshamon氏の投稿は、明らかに正宗を意識したものになっていると思いました。
で、わたくしが昨日、引用させていただいたshamon氏の文章はですね、ご存知のとおり、正宗の法華講員である虚空老人氏に宛てた意味があったわけです。

おそらく、これらの経緯をハタから見るとですね、わたくしの投稿は援護射撃のようにも受け取られかねないと思います。しかし、それはわたくしとしてはひじょうに心外なことなので、あえて某掲示板・某氏とさせていただいたのでした。

わたくしとしましては、別にshamon氏にケチをつけようなどという不純な気持ちはないのです。例えば、前には大聖人の身延での御生活がどうであったかということで、自分なりの見解を書かせていただいたわけですが、これなどは正解がいずれであろうとも直接的には正宗が正しいとか顕本が正しいとかの次元の話ではないわけですね。

そして今回の場合はですね、法華真言未分化という言葉があって、創価学会の北林氏などがこの問題を研究されていて、本にもなっているわけですが、それを全文ネット上に公開しておりまして、これがまたひじょうに刺激的な研究なものですから、わたくしも自分なりにあれこれと考えさせていただいているのです。
ちょうど、そういうタイミングでshamon氏の投稿を拝見したものですから、思うところを書かせていただいたのでした。

また、面白いことに、正宗では守護国家論をあまり重視していないようなのですね。
わたくしとしてはこれだけの大部の御書ですから、大事なことがたくさん書かれているに違いないと思いまして、少しばかり気を入れて拝読させていただいたところ、いろいろ得るところがありました。それでここ一・二ヶ月、この御書の話題をくり返し書いておりまして、今回もその延長にあると考えていただいたほうがいいと思います。

読んでいただければわかると思いますが、わたくしの投稿はきっかけを外に求めることはあっても、最終的には自分の世界・・・といったら生意気かもしれませんがともかく自分自身の教学研鑽に帰着するよう心掛けているつもりです。
おっしゃるごとく、他者批判をするつもりならば正々堂々と相手のいる場所に行ってやるべきことでしょう。

これまた生意気を承知で書きますが、他者批判という意味ではわたくしにとって最大の批判対象はわが師匠たる浅井昭衛ということになります。もっとも紺碧さんにはどうでもいい話でしょうけど・・・

2006/5/26

守護国家論の位置  
ちなみに、日蓮聖人が当初は清澄で天台密教(真言系)より学問修行をされていたことは日蓮聖人の教えを学ぶ者の常識です。守護国家論の時点では、大日経と法華経を正法として論を展開され、立正安国論においては法華経が大日経に優れている事を説かれ、徐々に真言系の思想の危険性を解明していくに従って批判を強めていくのです。

これは某掲示板において某氏が書いておられることであるが、わたくしにはいささか疑問がある。

天台密教云々が日蓮聖人の教えを学ぶ者の常識という点については何も申し上げることはない。しかし、この常識という言葉が後ろの文章にも掛かってくるのかどうか、ここに大いなる関心がある。

わたくしなりの意見を申し上げると、守護国家論の時点では法華経と大日経を共に正法としておられ、立正安国論では法華経が大日経に優れるとしておられる、とは拝されない。もし、守護国家論において法華真言斉等とするならば、立正安国論においても同様であると拝さなければならないと思うのである。

本尊問答抄において、愚者は知り難しと仰せられることからすれば、安国論では真言を破折していることになるだろう。ただし、その場合においては、守護国家論も同様と拝さなくてはならないと思う。一見すると斉等に読めるけれども、まさに愚者は知り難しであって、元意においては真言を破折していると拝するべきなのである。

つまり、御文の上っ面だけを読むならば、立正安国論にしても法華真言斉等は免かれない、いや、読みようによっては守護国家論よりも甘い部分があるとわたくしは思う。

その理由をそれぞれの御書から一文ずつ引用して説明したい。

是の故に在世滅後の一切衆生の誠の善知識は法華経是なり。常途の天台宗の学者は爾前に於て当分の得道を許せども、自義に於ては猶当分の得道を許さず。

如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。

上が守護国家論であり、下は申すまでもなく安国論である。
大聖人は守護国家論において爾前の得道を許さない旨を表明している。ところが安国論では必ずしもそうではないのである。それの好例がこの御文である。つまり、念仏を一凶と断じてはいるが、その他については特に可・不可を論じていらっしゃらない、読みようによっては「彼の万祈」を肯定しているとも受け取れるのである。
万祈を修するのはけっこうだが、それよりも何よりも一凶たる念仏を禁止することが最優先であると。

もちろん一凶に対応する御文としては最後に出てくる「実乗の一善」がそれであろう。しかし、だからといってこれに真言が含まれないとは明言されていないのである。それどころか、最後の客の言葉には次のごとくある。

我一仏を信じて諸仏を抛ち、三部経を仰ぎて諸経を閣きしは・・・

ようするに、これには諸仏・諸経を容認する意味合いがあるわけで、もし主人がこれを認めないのであれば、さらに問答が続くことになるはずである。けれども、ここで終わっているのだから、いちおうはこれがそのまま主人の義でもあるのだろう。
つまり、立正安国論と守護国家論では爾前の得道を許さずとする守護国家論のほうが、むしろ大聖人の義としては洗練されているとも考えられるのである。

もうひとつ、安国論では客の言葉として慧心僧都のことが出てくる。しかし、主人は慧心のことには答えていない。
ちなみに守護国家論では慧心のことが詳しく出てくる。

わたくしの思うに、守護国家論は安国論奏上の後における第二弾の論文としての御用意ではなかっただろうか?

つまり、幕府が安国論を受け入れた場合の用意である。現実には受け入れられなかったので守護国家論は提出されなかったのであろう。だが、受け入れられることを想定して御用意あそばしたと考えなければ、これだけの大論文が存在する必然性は見えてこないと思う。

ゆえに、守護国家論の時期と安国論の時期を別々に考えるのは間違いだと思う。
北林芳典氏などは正嘉の大地震の記述がないのでそれ以前の御書であるとしているが、必ず記述がなければならないことでもないだろう。
わたくしは唱法華題目抄も含めて同時期の御書だとして問題ないと思う。


八月十五日追記:北林氏の説に重大なる錯誤のあることがわかった。以下の新稿を参照されたい。
http://diary.jp.aol.com/ganko/466.html

2006/5/25

亡霊の彷徨・・・咆哮?  
「先代牧口先生当時から学会は猊座の事には一切関知せぬ大精神で通して来たし、今後もこの精神で一貫する。これを破る者はたとへ大幹部といえども速座に除名する(中略)どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下(編者註・64世日昇上人)にお仕えして来たのといささかも変りはない。新猊下を大聖人様としておつかえ申上げ、広布への大折伏にまっすぐ進んで行くだけである」(昭和三一年一月二九日付聖教新聞)

昨日は飯山対決を、そして今日は埼玉対決を視聴させてもらった。

法華ちゃんねるが閉鎖になって、創価学会員あたりは喜んでいるようであるが、それはぬか喜びだったようである。かのサイトの最大の売りは豊富な映像資料だった。それらはわが顕正会にとっても不都合であったが、それ以上に創価学会にとっては都合のよろしくない映像ばかりであって、それゆえにサイトへの風当たりも相当のものがあったようである。

なぜにS@法華講氏がサイトを閉めてしまったのかは不明であるが、しかし、それは衝動的なものではなかった。ハタから見ると唐突に感じられるけれども、ちゃんと事前にサイトの閉鎖を見込んで、いろいろと残務整理的な処置を行っていたのだった。

ゆえに、富士大石寺へ帰ろうサイトでも従来どおりに映像が見られるし、樋田氏のサイトでも無料で見られるようになっている。もともとは妙観講制作のものや樋田氏制作のものを、S氏が統合して閲覧者にサービスしていたわけであるから、それらが元の鞘に納まっただけの話なのである。よって、サイト閉鎖の理由は不明にしても、閲覧者にとってはまったく支障はなかったのである。

さて、冒頭の文章であるが、これは飯山対決のビデオの中に出てくるものである。(文章そのものは法太郎氏のサイトからコピーさせていただいた)

これは顕正会にとって、ひじょうに痛い文証である。
今日の創価学会が逸脱していることは当然のこと、それと同時に顕正会の逸脱をも証明しているように読めてしまうのである。
もちろん、戸田城聖氏の発言であるから、顕正会とは縁もゆかりもないわけで、ゆえに関係ないという開き直り方もできるだろう。ただし、わたくしはそこまで厚かましくなれない。結局はその後において、浅井先生に種々の自語相違が出てくるわけであるから、ここで開き直ったところでどうにもならないのである。

今なお創価学会員は戸田氏を尊敬するわけであろう、だったら滅多なことは言えないはずなのである。大石寺の法主上人に対し奉る悪口雑言は何たることかと思う。当然に顕正会も同罪である。


あ、そうそう、話は変わるが、故下野正信氏のサイトが復活した模様である。
結局、顕正会にとってはぬか喜びだったことになる。本人が亡くなっても作品は残る。それが文筆というものなのだ。ペンは剣よりも強しの意味はここにもあるのだろう。

2006/5/24

帰命な言い掛かり?  
世間段では天皇陛下に帰命するとあること

▽『大日蓮』昭和十六年六月号

「所詮世間段に於ては中心たる天皇陛下に帰命して分分に其家業を励むこと



破折法論館に、画像が付された面白い投稿があったので、それを急いで写し取らせていただいた。

つい先日、樋田ビデオの長野法論について触れた。会長本仏論の最たる文証は会長へ帰命せよというような文言なのであろう、それは単なる表現上の問題として片付けるわけにはいかない、なぜなら帰命という言葉は仏にしか使わないものだからである。

ところが上掲の文章では天皇陛下に帰命せよとなっているではないか?

この破折法論館での投稿者はキリスト教の信者を名乗っている。母が日蓮正宗だそうで、天皇陛下に帰命するのが日蓮正宗の教義であると、母が言ったというのである。
巧妙なる罠が見え隠れしている・・・というか、すでに馬脚があらわれているのではなかろうかと思う。

まず、上掲の文章であるが、わざわざ画像で示すことによって説得性を持たせようとしたものであろうか、しかし、いかにも不自然な画像である。いや、画像そのものが加工されているとかの話ではなくて、その母なるものがこのような資料を持っているとはちょっと考えられないのである。
ようするに、この画像の文章構成からすると、どうも日蓮正宗に不利な文証をピックアップしているような書面にしか見えないのである。まさか現時点でこれをそのまま教えているとは到底考えられない。ましてや身内とはいえ、キリスト教の信者にこれを伝える必然性はまったくないであろう。

であるから、いちばん妥当な線は敵対勢力が作成した資料の一部ということだろう。もし違うというならば、この画蔵の全体を公表すべきである。おそらく前後の脈絡を読めば、どういう性質の文書であるかは一目瞭然となるに違いない。

さて、いずれにしても大日蓮に載っていたことは間違いないことと思われる。これをどのように理解すべきなのかが問題であろう。

世間段という言い方は今日において、あまり聞かないところである。これはいわゆる「世間普通の義」のことだと思われるが、違うだろうか?

いわゆる随方毘尼とか四悉檀の法門である。

但し日本国は神国なり。此の国の習ひとして、仏菩薩の垂迹不思議に経論にあいにぬ事も多く侍るに、是をそむけば現に当罰あり。委細に経論を考へ見るに、仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門は是に当たれり。此の戒の心は、いたう事かけざる事をば、少々仏教にたがふとも、其の国の風俗に違ふべからざるよし、仏一つの戒を説き給へり。此の由を知らざる智者共、神は鬼神なれば敬ふべからずなんど申す強義を申して、多くの檀那を損ずる事ありと見えて候なり。

この辺のところはけっこう難しい問題をはらんでいる。
というのは、身延派あたりはこれを雑乱勧請の言い訳に利用しているフシがあって、結局は大石寺も似たり寄ったりではないかということになりかねないのである。実際に創価学会などはそれを指摘しているわけであろう。

いわゆる神天上の法門との整合性が難しい。

身延派は言い訳している云々と書いたが、上掲の月水御書を普通に拝した限りではむしろ神を敬うべきが道理のようにも感じられるのである。なにしろ「是をそむけば現に当罰あり」と大聖人は仰せである。つまり、現証としてはっきりと罰があらわれてくることを、大聖人御自身が認めていらっしゃるわけである。

これは大変なことであるから、現時点ではよくわからない、ということにしておく。

いずれにしても、昭和十六年ごろにおいては天皇陛下に帰命するという・・・さすがに帰命は適切ではないのかもしれないが、おおむね時代背景からして世間普通の義にのっとるものだと考えて差し支えないと思う。

2006/5/23

「なるほど×2」の日  
先ほど、我田引水氏がコメントを入れてくださった。出典が書かれていないけれども、確かにそのような指導がどこかにあるのだろう。わたくしは横着なものだから、自分の曖昧な記憶だけで、先生の発言を再現してしまっている。ゆえに正確ではない。氏はいわばそれをフォローしてくださったわけである。ありがたいことだ。

なるほど、宗教屋ではないということは立派なココロザシであろう。しかし、かつて当ブログでも取り上げたごとく、顕正新聞の多重購読などの問題が存する以上、やはりそのココロザシには疑問符を付けざるを得ないのである。
もし、こうした問題が先生の手前で止まってしまっていて、先生がまったく知らないとするならば、その止めてしまっている人物はいわゆる師虫である。
実はそうではなく、先生もすべてを知っているのだとするならば、もはや救いようがないであろう。

いずれにしても、我田引水氏が指摘するごとく、過去の指導と現在のそれとには齟齬が生じてきてしまっているのだと思われる。

さて、S@法華講氏のコメントであるが、これは大変な事実である。
わたくしは顕正会員でありながら、顕正会を疑って掛かってしまっている。それが判明したようなものなのである。真面目な顕正会員はさぞや憤っておられることだろう。わたくしとしては弁明のしようがない。

それにしても、自由な茶寮の管理人はいったい何を目論んでいるのだろうか?

最近では、かの掲示板そのものが謀略であるとの説もささやかれている。わかり易くいえば、妙観講あたりがプロデュース(?)していて、いわばそちらの方向に誘導が行なわれているというようなことらしいのである。
だが、だとすると、なぜにわざわざ検索ロボットを回避するようなマネをするのだろうか、という疑問が生じてくると思う。どちらかといえば、どんどん世間に広く知れ渡ったほうが顕正会員が目にする機会も多くなるだろうから、誘導を行なうにしてもそのほうが大漁を期待できるはずなのである。

であるから、茶寮の管理人はおそらく真面目な顕正会員なのだろう。
顕正会に対する風当たりは強い。ゆえに、あまり宣伝し過ぎると、妨害工作を仕掛けてくるようなものたちがたくさんあらわれるだろう。すると真面目な顕正会員は投稿しづらくなる。そうなってしまうと意味がない。
そういうわけで、検索ロボットを拒否するような仕掛けを埋め込んだのだろうと思われる。

ともかく、何をどのように発言しても、疑り深い人はああでもないこうでもないと言って、なかなか納得しないものである、ゆえに管理人もその辺のことは何もしゃべらないのだろう。

もっとも、これはあくまでわたくしの勝手な想像である。

2006/5/22

独白終了?  
S@法華講さん、どうも恐れ入ります。

おっしゃるとおりでありまして、おそらくはわたくしのつまらぬ邪推なのであろうと思いました。
しかしですね、顕正会役員の某氏がそのようなことを言ったということは、やはりネット上の情報戦略的な意味では完全に負けてしまっていることを吐露しているようなものでして、これはなかなか歯止めがきかないだろうと思います。
法華講に流れていく・・・まあ、流れていくというのは失礼だかもしれませんが、ともかく法華講に流入していくケースと、おそらくはそれ以上にまったくの無宗教に戻ってしまうようなパターンが多いのだろうとわたくしは思っています。その極端な例がいわゆる「アンチ日蓮」であって、そういう人間を輩出しているのが顕正会という負の部分もなきにしもあらずだと思っております。つまり、顕正会の折伏では三類の強敵をまねくのではなく、ただ単に大聖人の仏法に対する偏見を増長するだけの働きをしてしまっているのかもしれないと思ったりもしております。
日蓮正宗にとってはいい迷惑なのかもしれません。

トチロ〜さんの意見はこれまた大胆な推測ですね。

わたくしにはそこまで読み取れませんでした。というよりも、それはないだろう、さすがに違うのではないかと思っております。
細かいことは書きませんが、例の樋田ビデオはですね、ちょうど妙観講員が大草氏と浅井先生との法論実現を促すために顕正会の地方会館に働きかけていた時期でもあるわけで、浅井先生はまさにその直後にいわゆる対決の申し入れをしているわけでして、すべての情報を把握していたがゆえに、このまま手を拱いていてはいけないと腹を括ったのだろうと思われます。
しかも長男が書いたというのはどうでしょうかね、先生の性格からして人に任せるとは思えませんし、ましてや長男は謹慎中ともウワサされているわけですからね。
ですから、もし本当に長男が書いたのだとすれば、これは大スクープでしょうね。

顕正会が謗法であれば消えていく云々と。

これはですね、謗法であるなしに消えていくべきなのです。なぜならば浅井先生がそのように言っていたことがあります。ええとですね・・・

・・・顕正会が永遠である必要はない、永遠であるのは戒壇の大御本尊と清浄なる猊座であって、顕正会などはどうでもいいのである、と。

これは当てずっぽうに書いたけれども、ずいぶん前におおむね上記のようなことを言っていたのは間違いないですね。

問題は、はたしてこのことを今の段階で公言できるのかどうか、ちょっと言いづらいのではないかと思います。


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