2006/6/1

批判対象への眼差し  
昨日の投稿で、お二方よりコメントを頂戴した。ご教示をたまわっておきながらイチャモンをつけるようで恐縮であるが、この問題においては最低でも三十年前から顕正会員(妙信講員)であったか、もしくはそれに準ずる立場でなければ、論じる資格がないと思うのである。

ゆえに、わたくし自身はあくまで疑問符をつけているわけであって、浅井先生がウソをついているとは断言せずに、ご存知の方のコメントを期待したのだった。

もしかしたらそのような講演が存在するかもしれない・・・けれども、わたくしはその頃のことを知らない、三十年前のわたくしは顕正会(妙信講)などというものをまったく知らなかったのである。
少なくとも、冨士であるとか顕正新聞のバックナンバーを調べ上げなければ、断言できないことだと思うのだ。

もちろん、ハムナプ氏の指摘するごとく、先生の自語相違は今に始まったことではないのだろう。また、カルト体質云々もそのとおりなのだろうと思う。しかし、だからといって、何でもかんでも頭から否定するのはどうかと思う。それは横着な行為であり、やがてはミソもクソも一緒の論理にならざるを得ないだろう。
ようするに、顕正会員の常套論法でいえば、「もし三十年前に該当する講演があったらどうするのか、オマエはどう責任を取るのだ?」ということになりかねないのであって、批判者がそれ以外のことではどれほど立派なことを言っていても、この一事をもってして「たばかり」のレッテルを貼られてしまって、すべてが帳消しになってしまう可能性があるのである。

宗門でも創価学会でも、自分に都合のいいことは宣伝するけど、その逆はないのである。これは顕正会も同様である。つまり、批判者の小さなミスを誇大宣伝して、「アヤツの言うことはすべてタバカリである、もはや話を聞いてはならない、相手をする必要はない」などと退けられてしまうのである。

批判者は批判対象を最大限、善意の眼差しで見るべきである。

きわめて逆説的であるが、これがわたくしの持論である。
わたくしはひそかにあちこちのサイトを見て回っている。顕正会批判などはすでにウンザリするくらい見ているので、最近はあまり真面目に読んでいない。斜め読みして、大事な問題かどうかを瞬時に判断して、必要ないものはどんどん忘れていくようにしている。そうしないと頭がパンクしてしまうからである。
で、数多ある顕正会批判の中で、わたくしが真っ先に除外する・・・というか相手にしないのは悪意に満ちた文章である。別に難しい理屈があるわけではない。読んでいて気分が悪くなるから読まないのである。
ここでこちら(顕正会員)の姿勢を云々しても始まらないことを批判者は知るべきなのである。読んでもらえなければ意味がないだろう。どうやって読ませるかである。

ましてや悪意で書いていると、つまらないミスをするものである。で、上述のごとく、その一点だけで帳消しにされてしまうのであるから、これほど損な話はないであろう。

つまり、批判対象を善意で見る、それでもなお見えてくる問題があれば、文字どおり目に余ることなのであるから、それについての批判は相当である、との考え方である。

さて、話を少し進めて、

悲しいかな、これを指摘する側近幹部がいない。

わたくしの言いたいことをsonic氏に言われてしまった。
いや、本当に指摘する側近幹部がいないのかどうか、それはわからない。また、先生がそれを好ましく思わないかどうかも、わからない。

ただし、二月度総幹部会で「二・三十年前」が出た時に、側近幹部はまずそれを先生に確認するべきが道理であろう。具体的にはいつのどのような講演でしたでしょうかと。
二・三年前という表現ではその時差は一年だけど、二・三十年前では十年からの違いがある。ゆえに大雑把すぎるではないかと思うのはそれほど不自然ではないだろう。当然、顕正新聞に掲載する段階で、これを修正することは可能だった・・・これも道理であろう。
それが翌月には「三十年前」に修正されているわけである。

であれば、当然にその確証があったのだろう・・・つまり、それに該当する講演が存在したはずなのである。それが道理というものである。

もし、万一にも、それがないとしたならば・・・

ここに来てようやく側近幹部の無能が露呈するのだろうと思う。
また、側近も側近だが、それ以前に先生も相当に焼きが回っていると言わざるを得ないだろう。

・・・ということになる。


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ