2006/6/20

モノグサな投稿  
源濁れば流れ清からず、ということは、ひとつの過ちを正当化そうとして次から次へと詭弁を構えていく、結句はもはや修正不能となって取り返しのつかないことになる。原点に立ち返って、正直に間違いを認めれば済む話でも、それがなかなか出来ないものなのである。

日顕上人は種々の御説法において反省の意味を御述べになっている。
浅井先生は己れの身に一分の過ちもなしという姿勢を崩していない。

どうもこの辺が法華講員と顕正会員の差となってあらわれているように思う。
つまり、法華講員は過ちや行き過ぎを素直に認める柔軟性がある。一方、顕正会員は依怙地である。
やはり先生の影響が強いのだろう。先生が変わらなければ顕正会は変わらない。ん? 先生が代わらなければ顕正会は変わらない、か?



上記は何を隠そう、当ブログ所収の文章である。

yun氏より、ものぐさであるとの指摘を受けた。これはわたくしの本質をえぐる見事な洞察である。
そこで、この際だから、今日はものぐさな投稿をすることにしたのである。

今さらながら、ご覧のようにわたくしは浅井先生批判を平然と書いている。

かつては櫻川氏にしても、あからさまな顕正会批判ということはしていなかったように思うが、最近のブログでは明らかに批判的な傾向が見て取れる。
また、自由な茶寮の管理人も、会長無謬論をはじめとして顕正会には種々の問題が山積していることを隠そうとはしない。茶寮掲示板の常連ともいうべき妙信講青年部氏にしても、あるいはsonic氏しても同様である。

この四人の方はいずれもわたくしの大先輩に相当すると思われる。

そして大事なことは・・・この方たちはいずれも顕正会を見捨ててはいないことである。

顕正会員でいながら顕正会を批判できるのは、ある意味では正常な判断能力を有していると言えるだろう。こうした諸先輩方が顕正会を去らずにいらっしゃることを思えば、わたくしがなおも顕正会にいることはさほど不自然ではないだろうと思う。

なお、すでに顕正会から法華講に移籍した方が多数いることは承知しているし、それは賢明な選択であろうと思う。
顕正会の幹部会員から見れば、彼らは裏切り者にしか映らないことだろう。けれども、わたくしにはそうした感情は一切ない。選択肢はいくつもある。その中でも、もっとも有力な選択肢が法華講への移籍だとわたくしは思う。

それはわかっているのである。

それでもなお、顕正会に踏みとどまっている・・・その理由は何か?

実は自分でもよくわかっていないのである。
ただし、先に紹介した諸先輩方を見習うならば、顕正会に問題ありと知りながらもなおも顕正会にいることには何かしらの意味があるのだろう。

あるいは無意味なことなのかもしれない。

けれども、そんなに急いで結論を出すこともなかろう、というのが現時におけるわたくしのモノグサな結論なのである。


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