2006/9/30

実りある戒壇論議のために  
にわかに自由な茶寮掲示板の二階が騒がしくなってきた。

めずらしくも法華講員と顕正会員との間で戒壇論が戦わされている。しかもこれまでとは違って、顕正会員も負けていない、いや、見ようによっては顕正会側が優勢のようにも感じられるのである。

別段、目新しいことを議論しているわけではないのに、どうしたことであろうか?

その理由は顕正会側の論者が複数だということであろう。
今までは単独だった。それはいわゆる一人立つ精神としては立派であるが、実際的にはどうしても劣勢にならざるを得ない傾向にあった。
今回はなかなかしっかりした論者が二人いて、息が合っていることもあるのだろう、ひじょうに見ごたえのある戦いを展開している。論者のレベルの問題もさることながら、人数もまた戦いの大事な要素なのだろう。

大聖人御自身はいわゆる唯我一人であられる。もちろん弟子にもその精神を御教示であられるが、それと同時に、現実的な意味では複数の利をも説いていらっしゃるのである。
例えば四条金吾殿に暗殺の危機があった。大聖人は四条殿に単独行動は危険であるから複数で行動するように指示されている。あるいは兄弟抄には、兄弟もしくは夫婦で力を合わせていくべきことを、鳥の両翼、人の両眼などの表現をもって御教示あそばしておられる。

顕正会では仏弟子の大集団を標榜するわりに、どういうわけかネット上での活躍が乏しい。ゆえに大したことないと思われているフシがある。ようはなめられているのだ。
もちろんネットの世界にウツツを抜かして折伏が進まないようでは困るのであろうが、現実問題としてはネットを見て顕正会の間違いをさとり宗門へ行ってしまうケースが少なくないというのだから、それなりの対応が迫られていることも事実であろう。

今回の議論はまだ始まったばかりで、これからどういう展開を見せるか楽しみである。

・・・などと他人事みたいに書いていると顰蹙を買うだろうから、わたくしからも意見を提示しておこう。

時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。

事壇の定義はこれに源を発するとしなければならないだろう。
皆さん、御歴代の御指南をよく勉強していて感心する。いや、感心している場合じゃなく、おのれの不勉強を恥じなければならないが、あくまで原点は御書である。

三大秘法抄・一期弘法抄に同文があるわけだから、ここにきわめて重要なカギがあると考えるべきであろう。ようは事の戒法とは何かが重要なのである。これがけっこう難解なのだ。
時を待つことが、すなわち待つ行為が事の戒法なのかと言えば、そんなバカなことはないだろう。そうすると顕正会でも言うように、戒壇建立即事の戒法が文脈上の正しい拝し方のはすである。
では、そもそも事の戒法とはどういう意味なのか、さらに戒壇建立がなぜに事の戒法に当たるのか、こうした角度からさぐっていく必要があるだろう。

ところが、長いこと顕正会にいても、この辺のことがいまだによくわからない会員が少なくないようである。もちろん、わたくし自身もよくわかっていない。おそらく初心者ともなれば、さっぱりわからないのではなかろうか?

顕正会の当面の課題は、この事の戒法の研究をより深めることだと思う。

ちなみに日淳上人の御指南には、この「事の戒法と申すは是なり」をもってただちに事の戒壇の定義とされているものがあって、ひじょうに単純明快である。

ゆえに一念信解の顕正会ではこれでじゅうぶんなのかもしれないが、しかし、もうちょっと研究を深めても罰は当たらないだろう。

2006/9/29

神天上法門と戒壇建立の関係  
浅井先生は過日の総幹部会において、さっそく安倍新総理のことを語ったようである。これについては、今後いくらでも書く機会があるだろうから、今日のところは何も言うまいと思う。

また、戒壇の大御本尊と肉団の御本尊の関係、いや、肉団の御本尊はよくないかもしれない、胸中の御本尊とするべきか、あるいは己心の御本尊であろうか、・・・ともかく顕正会も大御本尊を根本とする点において、わたくしはそれほど外れていないと思っている。

法華初心成仏抄にも「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて」云々とあって、これまた悩ましいところであるが、このことは昨年の十一月に書いた。

http://diary.jp.aol.com/ganko/184.html
http://diary.jp.aol.com/ganko/185.html
http://diary.jp.aol.com/ganko/187.html

今になって読み返すとなんとなく不満があるのだが、さりとて、どこをどう直せばいいのか判断がつかない。ようはあんまり進歩していないのである。

いよいよ広宣流布して、広宣流布とは日本をみな信仰させるという意昧ではないのです。信ずる者も信じない者も、本門戒壇が日本民族にとって大事だと納得した時なのです。国教にするとかの問題ではありません。本門戒壇は日蓮大聖人様のおおせのとおり、建てなければならないのだと納得したとき、はじめて日本の国に、あらゆる大宇宙に住む正八幡大菩薩や天照太神がおのおのの祈りをあげる場所ヘいっしょになって帰ってくるのです。

そのときにこそ、正八幡大菩薩も天照太神も国を護る力を現しまして、国家のために働きますから国が平和になるのです。これが仏法哲理であります。


先日来、諸天善神のことを書いてきた。
上掲は戸田氏の口述記録であるが、諸天善神についての質問に対する回答の中に、いきなり戒壇建立のことが出てきたので、けっこう驚いた。これは大いに注目すべき発言であろう。

おそらく顕正会員の感覚では、細かい点で違和感を覚えるに違いない。しかし、そういうことには眼をつぶって、大まかに見ていると、ひじょうに味わいがあると思う。

ようするに戸田氏は戒壇建立の必要性を強く主張しているのである。諸天善神が国土を守る働きを発揮するための重要なカギ・・・それが戒壇建立なのであると。そしてこれは申すまでもなく、三大秘法抄の「大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり」に基づく発言なのである。

さらに言えば、ここには国立戒壇の呼称が見られない。ゆえにかえってすんなりと、素直に受け止められるのである。

それはさておき、今までうっかり気がつかないでいたことがある。

大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり
大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり


ようするに「の」と「も」の違いなのだが・・・

2006/9/28

諸天善神補遺  
八幡大菩薩の御誓ひは月氏にては法華経を説いて正直捨方便となのらせ給ひ、日本国にしては正直の頂にやどらんと誓ひ給ふ。而るに去ぬる十一月十四日の子の時に、御宝殿をやいて天にのぼらせ給ひぬる故をかんがへ候に、此の神は正直の人の頂にやどらんと誓へるに、正直の人の頂の候はねば居処なき故に、栖なくして天にのぼり給ひけるなり。
・・・但し月は影を水にうかぶる、濁れる水には栖むことなし。木の上草の葉なれども澄める露には移る事なれば、かならず国主ならずとも正直の人のかうべにはやどり給ふなるべし。・・・頼朝と義時とは臣下なれども其の頂にはやどり給ふ。正直なる故か。


諸天善神については今日でいちおう終わりにしようと思っている。

顕正会ではいわゆる本有の王法説を唱えている。ゆえに皇室を特別視していることは周知の事実であろう。
ところが御書を委細に拝していけば、その反証となり得る御文も存在する。上掲の四条金吾許御文なども該当するであろうか?

おそらく顕正会に論客がいれば、当該御書は本有の王法を否定するものではないと主張することであろう。つまり、「かならず国主ならずとも」云々とあるごとく、あくまで天皇を国主と前提した上での御所論であることは、文に明らかであると。最後に申すべき事にも、同様の趣きのことが書かれている。

これについては、まあ、わたくしもそれでいいと思う。だが、新尼御前御返事の御文をあわせ拝するならば、多少は考え方を改めなければならないような気がするのである。

而るを安房国東条郷は辺国なれども日本国の中心のごとし。其の故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢国に跡を垂れさせ給ひてこそありしかども、国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋りおぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請の文をもってあをかの小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給ひけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ひぬ。此の人東条郡を天照太神の御栖と定めさせ給ふ。されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房国東条の郡にすませ給ふか。

昨日のブログに「日本国の王となる人は天照太神の御魂の入りかわらせ給ふ王なり」との御文を引用したが、四条金吾許御文や新尼御前御返事のごとくならば必ずしも皇室だけが特別ではないことになると思う。つまり、正直の頂であれば、どのような身分の者でも例外はないのだろう。
これでいくと、戸田氏の言う「諸天善神はわれわれの体のなかにいる」は、けっこう核心に迫っているのかもしれない。

ただし、わたくしは「頂」というのは身体の外を指しているような気がしている。
御文にはかうべ(頭)ともあるから、そうすると外ではなく内側とするのが妥当なのかもしれないが、それでも外側のような気がしてならないのである。これは今後の課題としよう。

最後に創価学会員の好きな(?)御文を引用する。

此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。

この御文の前のほうには次の一節がある。

加之日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神々、総じて大小の神祇等、体の神つらなる、其の余の用の神豈もるべきや。

御本尊の相貌を御説明あそばす中の一節である。
ようする、御本尊には天照太神・八幡大菩薩をはじめとして一切の神々が具足しているとの御指南である。そして後ろの御文において、この御本尊を余処に求むることがあってはならない、なぜならば御本尊は我々の胸中の肉団にましますからである、とされるわけである。

なるほど、諸天善神が我々の身体の中にいることの道理は、この御書からも導き出されるようである。

2006/9/27

戸田氏の諸天善神観の可否  
諸天善神とは、太陽もそのなかにはいり、焚天、帝釈もそのなかにはいります。あるいは天照太神、正八幡大菩薩、あらゆる神々がそのなかにはいると、日蓮大聖人様はおおせになっております。それではその神々はどこにいるかということになります。神社にいるかというと、神社にはおりません。われわれの体のなかにいるのです。焚天、帝釈も、また日月および大明星天も天照太神も正八幡大菩薩も、われわれの体のなかにいるのです。

これは創価学会の第二代会長だった戸田氏の口述記録のようである。

http://fujinomiyaboy.fc2web.com/shiryousitu_houbou_todasidou003.htm

諸天善神とはどういうものか、という質問に対する回答の一部分であるが、わたくしにはじゃっかんの違和感がある。

諸天善神はわれわれの体のなかにいる?

そんなバカなことがあるものかと思う。
これについては創価学会員からのコメントを期待したいところであるが、残念ながら当ブログは創価学会員にはあまり相手にしてもらえないので、独白ブログらしく独り芝居をすることにしよう。

戸田氏はおそらく、次の御書などを想定していたものと思われる。

法華経を行ぜん者をば、諸天善神等、或はをとことなり、或は女となり、形をかへ、さまざまに供養してたすくべし

ウィンズ氏が数日前にコメントで触れていた船守弥三郎殿許御書である。それから本尊抄には、豈人界に天上界無からんや、という御文がある・・・いや、本当はないのだが、文脈上はその義があると拝して差し支えないであろう。
ようするに、十界互具の道理として我々の己心には天上界が具わっているわけである。また、船守抄のごとくならば諸天善神は人間に姿を変えることがあるというのだから、その人には諸天善神の御たましいが宿っているとも言い換えられるであろう。
戸田氏の発言はこの道理を示しているものと思われる。

しかし、諸天善神の考え方としては、少々難があると思う。

まず、基本的には依正不二の方向性から捉えるべきであろう。
太陽も諸天であると戸田氏は言っているわけであるから、ごく単純に自分の身体の中に太陽があるとはこれ如何に、という疑問が生じてもおかしくないはずである。もちろん太陽は諸天である。いわゆる大日天子がそれである。ゆえにこれを依報として、正報たる自分自身の心のありかた如何で、依報に変化があると考えるのが自然である。これなら、いわゆる「心の固きによりて」云々も、ひじょうに理解しやすくなると思う。

次に、同生同名の二天を考慮しないといけないだろう。

人の身には左右の肩あり。このかたに二つの神をはします。一をば同名神、二をば同生神と申す。此の二つの神は梵天・帝釈・日月の人をまぼらせんがために、母の腹の内に入りしよりこのかた一生ををわるまで、影のごとく眼のごとくつき随ひて候が、人の悪をつくり善をなしなむどし候をば、つゆちりばかりものこさず、天にうたヘまいらせ候なるぞ。

四条金吾殿女房御返事である。
大聖人の御指南に忠実たらんとするならば、自分の身体の中に諸天善神がいるという説は例外的なケースだと認識しておくべきだと思う。ようするに、同生天と同名天がそばにいて、その人の善行・悪行を事細かに天に報告しているとの仰せがこれである。これからすれば、梵天・帝釈・日月などはその人の身体の中にはいないことになるだろう。もし自分の身体の中にいるならば、わざわざ報告する必要はあるまい。

最後に次の御書をどのように拝するかである。

日本国の王となる人は天照太神の御魂の入りかわらせ給ふ王なり。先生の十善戒の力といひ、いかでか国中の万民の中にはかたぶくべき。

高橋入道殿御返事の一節である。
この御書のごとくならば、天照太神の御魂は王だけに宿るわけであるから、万民は除外しないといけないだろう。それとも現代的に解釈して、今日においては国民全員が王であるからして云々・・・とするのであろうか?

創価学会員ならば、いかにもそのような解釈をしそうである。

いずれにしても諸天善神の問題は、まだ他にも考察の余地があるかもしれない。けっこう奥が深いということである。

2006/9/26

法華講員とわたくしの奇妙な関係  
折伏下種に関する御書で法門を聞く気のない者には説く必要はないといった内容の御文が確かにあったと思うのですが

まず最初にご忠告申し上げたいと思います。
おそらく法華講員の中には、異流儀団体に籍を置くような者に教学の質問をするとは怪しからん、ということを思っている人が少なからずいるのではないかと想像しております。わたくし自身は一向にかまわないのですが、ウィンズさんの立場が悪くなるのではないかと心配しておるわけです。法華講員は全般的に心の広い人が多いとはいえ、中にはやたらと厳格な人もいることでしょうから、その点をじゅうぶんに承知しておく必要があると思います。
それから、今はインターネットが普及したおかげで、ネット御書もいくつかありますし、いわゆるキーワード検索という魔法(?)が使える時代になったわけですから、なるべくご自分でお調べになられるべきでしょう。

さて、ご質問ですが、そのような御書は存じ上げません。

ですが、もしかしたら報恩抄送文のことをお考えでいらっしゃるのではないでしょうか?

親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ、御心得候へ。

しかしながら、これはですね、例えば諸法実相抄の追申に、

ことに此の文には大事の事どもしるしてまいらせ候ぞ。・・・此の文あひかまへて秘し給え。

と仰せになられるのと同じだと思います。三大秘法抄にもありますし、本尊抄の副状などにも近い意味の仰せがあります。

ですから、大聖人はおおむね重要法門書において、妄りに宣説してはならない意味の御指南をあそばしているわけですね。逆に、折伏下種に関する御書においては、むしろ「而強毒之」であるとか「毒鼓の縁」を仰せになられていると思います。

尋ねて云はく、法華経の第二に云はく「無智の人の中にして此の経を説くこと莫れ」と。同じき第四に云はく「分布して妄りに人に授与すべからず」と。同じき第五に云はく「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり、諸経の中に於て最も其の上に在り、長夜に守護して妄りに宣説せざれ」等云云。此等の経文は機にあらずば説かざれというかいかん。今反詰して云はく・・・

・・・或時は謗じぬべきにはしばらくとかず、或時は謗ずとも強ひて説くべし、或時は一機は信ずべくとも万機謗ずべくばとくべからず、或時は万機一同に謗ずとも強ひて説くべし。

これは撰時抄の一節ですが、この前後の御文を委細に拝していけば、開目抄における摂折論の一段とほぼ同趣旨であることがわかると思います。

結論として、大聖人のお振る舞いが「万機一同に謗ずとも強ひて説くべし」であられたことは疑いようのないところでありましょう。ゆえに、聞く耳を持たない人にも強いて説き聞かすのが折伏なのだろうと思います。

わたくしの思うに、重要御書において「秘すべし」云々とされたのは、あるいは衒学癖のようなものを戒める意味があったのではないかという気がします。
大聖人の仏法はいわゆる易行である、顕正会員の得意な一念信解ですね。
実際、漏れ聞くところによれば、御相承に関することではいまだに開示されない秘奥の法門がある、ようするに猊下のみが御存知であられるわけですね。一般の御僧侶は知らないわけです。いわんや法華講員をや。ゆえに信伏随従あるのみなのですね。
もっとも創価学会あたりでは、あれやこれやと探りを入れているようですが・・・

そういうわけで、聞く気がない人にも聞かせる努力をするのが折伏下種、逆にたとえ相手が執拗に聞きたがっても説いてはいけない場合もある・・・その究極が御相承の法門なのでしょうね。
といってもわたくし達のレベルではそんな法門はない、とりわけ御相承などは知らないのだから説きようがない・・・まあ、こんなところですかね。

ああ、しかし、なんだか変だなあ、法華講員相手にこんなこと書いていいのだろうか?

2006/9/25

諸天善神は取り扱い要注意?  
ヅラ系さんより再び質問を頂戴しました。

どうやらわたくしの書き方が悪かったようなので、今一度、ご説明申し上げたいと思います。

舎利弗・迦葉等の聖者は火の中・石の中を通ってでも法華経の行者のもとに馳せ参ずるべきである・・・との意味が開目抄にありますが、実際には舎利弗等が大聖人のもとにあらわれることはなかった、ゆえに同抄の続きの御文では次のごとく仰せになられます。

後五百歳のあたらざるか。広宣流布の妄語となるべきか。日蓮が法華経の行者ならざるか。・・・大疑いよいよつもり候。

また、この前後にも同趣旨の御文がありまして、

但し、世間の疑ひといゐ、自心の疑ひと申し、いかでか天扶け給はざるらん。諸天等の守護神は仏前の御誓言あり。法華経の行者にはさるになりとも法華経の行者とがうして、早々に仏前の御誓言をとげんとこそおぼすべきに、其の義なきは我が身法華経の行者にあらざるか。此の疑ひは此の書の肝心、一期の大事なれば、処々にこれをかく上、疑ひを強くして答へをかまうべし。

日蓮案じて云はく、法華経の二処三会の座にましましゝ日月等の諸天は、法華経の行者出来せば、磁石の鉄を吸ふがごとく、月の水に遷るがごとく、須臾に来たって行者に代はり、仏前の御誓ひをはたさせ給ふべしとこそをぼへ候に、いまゝで日蓮をとぶらひ給わぬは、日蓮法華経の行者にあらざるか。されば重て経文を勘へて我が身にあてゝ身の失をしるべし。

といった具合であります。

開目抄は膨大でありますから、あるいは見落としがあるかもしれませんが、おおむね上掲のごとく、大聖人は御自ら「我が身法華経の行者にあらざるか」等と仰せられ、さらに「此の疑ひは此の書の肝心、一期の大事」等と規定あそばすわけです。

つまり、二乗がどうのこうのが重要なテーマなのではなく、大聖人が法華経の行者であるかないかが重要なテーマなのです。

おそらくヅラ系さんは、わたくしが二乗の守護にやや固執するような書き方をしてしまったがために、そこに疑問を持たれたのだろうと思います。ですから開目抄の全体像をつかむためには、二乗うんぬんは忘れたほうがいいかもしれません。
普通に、法華経の行者には諸天善神の守護があるはずなのに大聖人には守護がないように見える・・・はたして大聖人は法華経の行者なのだろうか? というように読めば紛れはないでしょう。

ところで、十界互具うんぬんの意味がよく呑み込めないのですが、どのような事柄をおっしゃっているのでしょうか?


今日の締めくくりに、

「諸天」の取扱いは人間界の衆生にとって非常に難解な問題

この瑠璃堂さんのコメントは、けだし名言、だと思った。

2006/9/24

希望的観測は佞人の所作か?  
創価学会員が諸天善神の議論を回避するというのは、具体的にどういう事ですか?

ヅラ系さんより、鋭いツッコミを頂戴しました。
当ブログは創価学会員からのコメントが少ないので、ヅラ系さんからのコメントはひじょうに貴重であり、ありがたいことだと思っております。

それはさておき、ご質問にお答えいたしますと、わたくしの漠然とした印象でかように書いてしまった、というのが真相であります。ゆえに創価学会員が議論を回避しているのかどうか、正確なところはわかりません。
いちおうは、先日のわたくしの投稿とウィンズさんのコメントをご覧くだされば、おおよその意味は通じるものと思います。

http://diary.jp.aol.com/ganko/505.html

手っ取り早く申し上げれば、わたくしは創価学会の諸天善神のとらえ方を寡聞にして存じ上げない、ネット上には創価学会員が多数存在しているのに、どういうわけか諸天の話があまり見られない、ゆえに回避しているように感じられる・・・ということなのです。

しかし、大急ぎで「諸天善神」を検索に掛けてみると、上位には創価学会のサイトがたくさん出てくるので、これには驚きましたね。

http://www.sokagakkai.or.jp/member/n_member/01/04.html
http://fujinomiyaboy.fc2web.com/shiryousitu_houbou_todasidou003.htm
http://soka.8oji.net/index.php?%BD%F4%C5%B7%C1%B1%BF%C0%A4%F2%BA%A8%A4%E0
http://d.hatena.ne.jp/kawamotoblog/20051218

いずれも面白いというか興味深いので、おいおい取り上げていこうかと思っておりますが、最初のは池田氏の発言でしょうかね、そこに仏・菩薩、諸天善神を並べて論じているくだりが出てくるので驚きました。わたくしは昨日、これらは同一線上にあると書いたわけですが、ちゃんと池田氏もそのように論じているのですね。問題は諸天善神の中身なのですが・・・

今日はこれくらいにしたいと思います。


顕正会で管理人さん程御書を読んでる人は幹部でも何人居るのでしょうか。

これはウィンズさんからのコメントの一部ですが、ご質問のようにも受け取れるのでお答えをいたしますと、確かめようのないことですから何人とは申せませんが、潜在的にはたくさんいるだろうと思っています。

もともと顕正会員には「負け嫌い」の人が多いですから、仮に本部の方針として教学に力を入れると発表でもしようものならば、瞬く間にツワモノが打ち揃うことでしょう。
今は一念信解をうたっているので、真面目な顕正会員はその方向で頑張っているけれども、ようはそのエネルギーを教学の方向に振り向ければ、すごいことになるだろうと想像しています。

それから少々ウヌボレを申しますと、わたくしのブログがそれなりの刺激になってですね、おそらくは現在進行形でひそかに着々と教学研鑽に励んでいる顕正会員が無数にいるのではないかと思っております。もっともこれは希望的観測に過ぎませんが、もし、わたくしの想像どおりであるならば、数年後にはそれなりの形をともなってあらわれてくるでしょう。

ちなみに、わたくしが本格的(?)に御書を学ぶようになったのは、余計に見積もっても今世紀に入ってからで、実質的には三年くらいですね。
ゆえに、新入信の右も左もわからないような顕正会員とてあなどれない、本気になればあっという間にわたくしなどを遥かに越えて、法華講員や創価学会員をバッサバッサと斬り捨てるツワモノとなることでしょう。

2006/9/23

諸天善神の現代的解釈は可能か?  
釈尊・多宝・十方分身の諸仏の、或は共に宿し、或は衣を覆ひ、或は守護せんと、ねんごろに説かせ給ひしをも、実か虚言かと知りて信心をも増長せんと退転なくはげみし程に

観音・勢至等は・・・「娑婆世界に遊ぶ」と申して、此の土の法華経の行者を守護せん・・・阿弥陀仏は・・・西方世界には還り給はず、此の世界に留まりて法華経の行者を守護せん

法華経守護の釈迦・多宝・十方分身の諸仏・地涌千界・迹化他方・二聖・二天・十羅刹女・鬼子母神は他国の賢王の身に入り易はりて国主を罰し国を亡ぜん

今日は要文集みたいなものであるが、いわゆる諸天善神だけが法華経守護の任にあるわけではないことは、上掲の御文に明らかであろう。
これらはいずれも下山御消息の中にある御文である。何もこの御書だけが突出しているわけではない。つまり、類文繁多であって、御書のそこらじゅうに同趣旨の御指南が存するのである。

守護の善神此の国を捨つる事疑ひあることなし。昔釈尊の御前にして諸天・善神・菩薩・声聞、異口同音に誓ひをたてさせ給ひて、若し法華経の御敵の国あらば、或は六月に霜霰と成りて国を飢饉せさせんと申し、或は小虫と成りて五穀をはみ失はんと申し、或は旱魃をなさん、或は大水と成りて田園をながさんと申し、或は大風と成りて人民を吹き殺さんと申し、或は悪鬼と成りてなやまさんと面々に申させ給ひき。今の八幡大菩薩も其の座におはせしなり。争でか霊山の起請の破るゝをおそれ給はざらん。起請を破らせ給はゞ無間地獄は疑ひなき者なり。恐れ給ふべし恐れ給ふべし。

少々長い引用であるが、新池御書の一節である。
ここでは諸天・善神・菩薩・声聞と並べられている。昨日、二乗にも守護の任があると書いたことの明証となるだろう。

開目抄では次の御文がわかり易いであろうか?

法華経の行者あるならば、此等の聖者は大火の中をすぎても、大石の中をとをりても、とぶらわせ給ふべし。

ようするに、法華経以前には永不成仏とされていたのが舎利弗・迦葉等であるから、これらの聖者にとっては法華経こそ大恩ある御経にてまします、ゆえに末法に法華経の行者出現するならば、万難を排して法華経の行者のもとを訪わせ、守護の任に当たるべき・・・との御意であろう。

ところが実際は日蓮大聖人のもとに二乗はあらわれなかった、守護はなかった。
ゆえに、日蓮は法華経の行者にあらざるか、との大疑を設問され、いわばこれが開目抄の重要なテーマになっていくわけであるが、現実問題として大聖人が御想定あそばしていたことは何だったのだろうか?

ようするに、舎利弗などが本当に大聖人のもとを訪ねるものと御考えであられたのか?

あるいは釈尊が衣をもって覆ってくださるとは、釈尊ないしその代理人が大聖人のもとを訪れ、衣をたまわるのであろうか?

わたくしには、こうした文章表現のどこまでが譬喩でどこまでが真実なのか、それがいまだによくわからないのである。
おそらく今の段階で言えることは、もし諸天善神の解釈を現代的にアレンジして理解しようものならば、その延長線上にはおのずと仏菩薩などの解釈をも変更せざるを得ないという結果が待ち構えているのではないか、ということである。なぜならば、すでに示したごとく、大聖人は諸天の守護のみを独立させているわけではなく、その同一線上に仏・菩薩・二乗などの守護を置いておられるからである。

もしかしたら創価学会員が諸天善神の議論を回避するのは、このためなのかもしれないと思う。彼らの得意な現代的解釈をしようものならば、うっかりすると仏法の根幹そのものまでも変質させてしまう危険があるのだ。

2006/9/22

諸天善神は科学的考察に耐えられるか?  
このところ多種多様のコメントを頂戴しておりまして、しかも皆さんいずれも学識の高い人たちばかりなものですから、こちらとしては対応し切れていない状況が続いております。前にも繰り返し書いてきましたとおり、当ブログは独白が建て前ですから、その点をご理解くださいますよう、重ね重ねお願い申し上げるものであります。

さて、諸天善神のつづきである。

これはけっこう重要な問題をはらんでいると思っている。いわゆる功徳論・罰論の上からも諸天善神の作用は度外視できないと思われるし、もっと言えば仏力・法力を実体論の上から解き明かす場合にも重要な鍵を握っていると思われるのである。
なぜならば、法華経の行者を守護する役目を担っているのが諸天善神であるとされているけれども、御書を拝すればわかるように、仏菩薩の加護を直接に論ずる場合も多分にあるからである。
撰時抄の末文などがその好例であろう。

霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等、梵釈・日月・四天等、冥に加し顕に助け給はずば、一時一日も安穏なるべしや。

開目抄では、二乗の守護がないのはどうしたことか、という意味のことが出てくる。
これから類推できることは、どうやら十界論でいうところの人間界よりも境界の上の立場の人たち・・・つまりは天上界以上の人たちには人間を守る義務があるのではないか? もちろん正しい仏法を実践している人がその対象になるわけであるが、いずれにしても諸天善神だけが守護の働きをするのではなく、二乗・菩薩・仏もまた守護の働きをするらしいのである。

この具体的なメカニズムはどんなものであろうか?

換言すれば、このことがいわゆる仏力・法力とは何か、あるいは功徳(利益)とは何か、逆に罰とは何か、といったことどもへのアプローチなのであろう。

http://diary.jp.aol.com/ganko/499.html#comment

一週間前のコメントであるが、とりわけ富士川氏のご紹介による日亨上人の御指南が注目されるところである。

ようするに、天変地妖の災難を現代に言うのは良くない、のだそうである。また、その直前には、為人・世界悉檀を対治悉檀の道具に用いられた、との御指南がある。

顕正会員には受け入れがたい御指南である。はたして、これについての顕正会側の正式な見解ないし反論みたいなものがあるのかどうか、ひじょうに気になるところである。仮に反論するとしたらその前提として得意のあれ・・・すなわち日興上人の二十六箇条の内の例の一条を持ち出してくることだろうと思う。

わたくしは顕正会の公式見解を知らないが、これについては自分なりの意見を申し上げたいと思う。

今日の話は諸天善神の守護ないし仏・菩薩・二乗の守護とは具体的にどのようなものなのかを考えている。実はよくわからない。それが結論である。
ところが逆に罰の現証としてはよくわかるのだ。つまり、大聖人の時代においては逆縁がおもてであって、日本国はもっぱら罰の現証を味わっていたのである。その中の一群としていわゆる天変地夭がある・・・

・・・わたくしの言わんとしていることがわかるであろうか?

日亨上人の仰せは近現代の合理主義的思考とよくマッチしていて、受けがいいように思う。わたくしよりもおよそ百年も前の方であられるのに、わたくしよりも遥かに現代的であることには驚くばかりである。
しかし、もしかしたら、この考え方でいくと諸天善神の働きすらも否定することになるのではないか? 否定はオーバーにしても、少なくとも諸天善神に対する考え方を大幅に変更する必要があるのではないか? つまりは現代的な解釈が要求されるのではないかという意味である。

合理主義的思考の往きつくところ・・・ひいては功徳論・罰論ないし仏力・法力その他もろもろ、早い話が仏法をあらゆる面から考察しなおす必要が出てくるのではと思う。そしてその結果として、あるいは仏法そのものが変容してしまうのではないのかという心配もある。ひじょうに怖い話ではあるが、いちおうはそこまで覚悟しておく必要があるのかもしれないと思う。

諸天の働きがわからなければ御書は読めない

浅井先生の持論である。

なんだかんだ言っても、わたくしはこれがいちばんのような気がする。

2006/9/21

諸天善神について  
諸天とは大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王等の天上界の衆生である。大宇宙は一大生命体であり、それ自体十界を具えている。その中で我々は人間界であり、犬・猫等は畜生界、諸天はまさしく天界である。諸天は正しい仏法を守護する功徳により、天上界の果報を得ているのである。諸天の中で三光天子(大日天子・大月天子・大明星天子)以外は人の眼には見えないが、その働きは厳として存在している。
次に善神とは、日本においては天照太神・八幡大菩薩等を指す。仏法における神とは、キリスト教の天地創造の神とは全く異る。すなわち皇室の祖先等、実在の国主の崩御せるを、生けるがごとく崇めたものである。
ゆえに神国王御書には
「神と申すは又国国の国主等の崩去し給えるを生身のごとくあがめ給う、此れ又国主・国人のための父母なり、主君なり、師匠なり、片時もそむかば国安穏なるべからず」
と仰せである。
ちなみに云えば、天照太神は皇室の先祖、また八幡大菩薩とは十六代応神天皇のことで、法華経の行者と正直の国王を百代にわたって守ることを誓っている。
それでは、これら日本の神がなにゆえ仏法と関わりを持つかといえば、実に天照太神・八幡大菩薩は釈尊の垂迹なのである。日本は仏法有縁の国、なかんずく三大秘法有縁の妙国である。よって三大秘法を守護すべく、あらかじめ日本の王法(国主)として釈尊が垂迹し出現したのが神なのである。
ゆえに日眼女抄には
「天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり」
と仰せられ、また産湯相承事には
「久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神の、我国に天下り始めし国は出雲なり、出雲に日の御崎と云う所あり、天照太神始めて天下り給う故に日の御崎と申すなり」
と仰せられている。
このことがしっかり肚に入れば、日興上人が国立戒壇建立の時は王城(皇居)も富士に立てるべしとして
「なかんずく仏法と王法と本源躰一なり、居処随って相離るべからざるか、・・・尤も本門寺と王城と一所なるべき由、且は往古の佳例なり、且は日蓮大聖人の本願の所なり」(富士一跡門徒存知事)
と仰せられたことが実感を以って胸に迫ろう。日本本有の王法と下種仏法の一大事因縁、王仏冥合の究極の深意は、まさにここに存するのである。
さて、諸天も善神も、つきつめればその働きは全く同じである。よって、諸天善神とは大宇宙に厳然と具わる仏法守護の働き≠ニ理解すればよい。


これは浅井昭衛著・立正安国論謹講(昭和六十三年七月十六日発行)の、諸天善神について書かれた箇所のおよそ前半部分である。

法華講員と創価学会員によるネット対論を拝見していると、どうもこのところは法華講員が苦戦を強いられているように見える。その理由が何なのかはよくわからないが、神国王御書のことが話題になっていたので、ちょっと首を突っ込みたくなった。
戦時中の御観念文の是非については判断しかねるので、ここでは論じない。
しかし、それにしても気になったのは創価学会においての諸天善神のとらえ方がどんなものであるか、それが見えてこないことである。ようするに日蓮正宗における過去のあれこれにケチをつけているだけであって、自分たちの主義主張は何も語っていないように感じられるのである。これではお話にならないであろう。

まあ、当然のことながら、顕正会側の主張も示しておく必要があるだろうと思って、ここに掲げたわけであるが、さて、単刀直入に創価学会ではこれを肯定するのかしないのか、そこを聞いてみたいものである。

また、法華講員の意見も聞きたい。
何しろ、かの有名な本有の王法論の片鱗がここにもあらわれているからである。単に戦時中の御観念文の議論だけを取り上げれば法華講側の主張に肩入れするような内容と思われるのだが、さりとて邪義破折班の論文とはそりが合わないのも事実であって、このあたりの整理がひじょうに難しいように思うのである。


aonoさん、富士川さん、勝手に違う話題に移ってしまってすみません。


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