2006/10/1

事中の事・理に迷うのは誰か?  
常連の皆様方には、種々のコメントを頂戴しましたこと、御礼申し上げるものであります。

本門の戒壇に事あり、理あり。理は謂(いわ)く、義理なり。これ則(すなわ)ち事中の事・理にして、迹門(しゃくもん)の理戒(りかい)に同じからず。その名に迷うこと勿(なか)れ。故にまた義の戒壇と名づけんのみ

引き続き茶寮二階の議論を拝見させていただいている。
わたくしには今までうまく整理ができなかった問題があった。それをaono氏やBIN氏、あるいは法華講の諸氏のおかげで、いちおうの解決を見ることができたので、ここに書いてみたいと思う。

上掲は日寛上人の御指南であるが、皆さんに聞いてみたいことがある。とりわけ法華講員の回答を期待したい。

その名に迷うことなかれ云々とあるが、いったい誰が何に迷うのであろうか?

わたくしの思うに、冒頭においてすでに「本門の戒壇に事あり、理あり」云々と、はっきりと本門をうたっているのである、いったい誰が迹門の戒壇と間違うであろうか? 三大秘法における戒壇を論じている時に、迹門の戒壇と混同する人がいるとは、とうてい考えがたいのである。
ゆえに、日寛上人がわざわざそのように注意を促されている以上は、それなりの必然性があるはずなのだ。
それはいったい何か?

また、事の戒壇について明かされた『三大秘法抄』に、
「此の戒法(※事の戒法・事の戒壇)立ちて後、延暦寺の戒壇は述門の理戒なれば益あるまじ」(御書一五九五)
と仰せられている一節についても、広布を待って初めて事の戒壇が顕われるというならば、それまでは述門の戒壇によっても益がある、ということになってしまうではないか(むろん、すでに延暦寺には真言の邪法が混じり、像法適時の述門戒壇という意義すら喪失していたのが実態ではあるが)。
やはり、大聖人によって末法適時の大法たる事の一念三千・三秘総在の大御本尊が開顕せられた時、すでに大御本尊の当体のところに根源の本門事の戒壇は具足していたのであり、同時に、日輪の光明に月の明かりが消えるごとく、述門の理戒もその一切の利益を失ったのである。


これはかの有名な摧破異流義考である。

http://homepage1.nifty.com/imei/saiha02.htm

ようするに、いまだ事の戒法(戒壇)が立っていないというならば、迹門の戒壇にも利益があることになる、よって顕正会の主張は間違っている、と言いたいわけである。

しかし、顕正会を破折する以前に解決しないといけない問題があると思う。これも皆さんにお聞きしたいところである。

問ふ、所説の要言の法とは何物ぞや。答ふ、夫釈尊初成道より、四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。

御文のごとくならば、実相証得のそのかみに、すでに戒壇が存在したことになる。

本門の三秘密の法を持ちて・・・戒壇を建立すべき者か。

やはりここでも三大秘法を持ちて戒壇を建立すべき云々とされているわけであるから、戒壇建立以前に戒壇が存在したことになる。

時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり・・・此の戒法立ちて後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、

ここが大問題なのである。大聖人ははっきりと時を待つべきのみと仰せられている。しかるに、後ろに御文においては此の戒法立ちて後、云々とされているのである。
ようするに、時を待つべきのみと仰せられている以上は戒壇建立を待ってはじめて事の戒法が顕現するとしなければならないはずであるが、大聖人はすでに戒法は立っているとも仰せられているのである。いや、前の二文のごとくならば、「三秘密の法」ないし「寿量品の本尊と戒壇と題目の五字」であるから、戒壇が存在していることは明らかである。

詮ずるところ、これが事中の事・理ということなのであろう。

叡山の戒壇が迹門の理戒であるとすれば、本門の戒壇が事戒であることはわかりきったことである。そんなことに迷う人はいないのだ。
いまだ時の至らざるゆえに本門戒壇は建立されていない、しかるに大聖人は実相証得のそのかみにすでに戒壇の存することを仰せであるし、また、三秘密の法を持ちて戒壇を建立せよとも仰せになられる。
これはいったいどういう意味なのだろうか?

ここにおいて、ようやく日寛上人が事中の事・理を御指南あそばす必然性が見えてくる。
事相の戒壇はいまだ建立されていない、けれども戒壇の大御本尊まします上はすでに戒壇の義理(意味)が存する、すなわち義の戒壇である。
三大秘法抄には事・義のたてわけが明らかではなく、逆に「理戒」という言葉が出てくるので、ここに混同をきたす可能性がある。ゆえにその名に迷うことがないように、義の戒壇と名づけられたと拝するべきであろう。

なおも迷う人があるかもしれないので、念のために簡単に図示すると次のようになると思う。

事中(=根源)の事(=事相)・理(=義理)

日寛上人の事・義のさばきは、基本的に事相と義理のことである。戒壇の大御本尊が根源であることはわかりきったことで、いわゆる法体に約しての事・義などということに迷う人はどこにもいないのである。


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