2006/10/22

大聖人を超える存在はあり得るか?  
されば四条抄には
「日には五月十五日・月には八月十五夜に似たり。天台・伝教は先に生れ給へり、今より後は又のちぐへなり」と。これを寛尊釈して云く
「天台・伝教は先に生れ給へり、所以に末法の始を恋う。我等後に生れたり、還って末法の始を忍ぶ、忍ぶと雖も還る事なし。如何せん。乃至、後悔先に立たず、如かず、本尊に向って南無妙法蓮華経と唱えんには」と。末法万年尽未来まで御本仏一人の慈悲曠大なれば三大秘法は流れ弘まるのだ。


昨日は日女御前御返事の御指南を記号で表現してみた。

釈尊<法華経<大聖人

これはいわゆる不等号であるから、後ろに行くほど大きい意味になる。しかし、これを矢印の意味だとすると、どうなるであろうか?

おそらく日蓮正宗系統では特に問題にはならないであろう。つまり、大聖人を久遠元初の御本仏と拝するからである。
ところが日蓮宗ではそうはいかない。矢印の意味で表現すれば、次のごとくである。

釈尊>法華経>大聖人

単純に言えば、まず釈尊が居て法華経を説いた、それを二千余年の後に大聖人が弘めた。これが歴史的な順序のはずである。厳密には非仏説だの仏滅年代の誤謬だのという問題があるので簡単ではないが、それはともかく釈尊を能説の教主としてその所説の法門が法華経であるということに日蓮宗ではなっていると思う。また、釈尊の本地をいわゆる久遠実成として捉えるにしても、能説・所説の関係に変わりはないし、ここでの大聖人の立場は上行菩薩ということになると思われる。
ようするに、二番目の記号のとおりなのである。

しかし、繰り返しになるが、大聖人自らがこの順番をひっくり返すような御指南をあそばしているのである。ゆえに、疑うべきにはあらず、である。

問題はこの論理をさらにバージョンアップさせて、大聖人よりも偉い仏が出現すると唱える人が出てくる可能性があることだと思う。おそらくは法を中心に考えていくと、必ずそのような危険性が生じることだろう。
どうやら創価学会あたりがそのような傾向にあるらしいのだ。最近でも、何やら本部職員が解雇された由であるが、その者の主張がまさに大聖人よりも池田大作氏のほうが偉いみたいなことらしいのである。

実はこれ、今にはじまったことではないのである。

すでに昭和四十年代において、池田大作氏の慢心ぶりを見事に抉り出した書が存在する。何を隠そう、浅井先生の第一回諫暁書がそれである。

一例をあげれば、大聖人の折伏は創価学会の大折伏から見ればなお摂受である、みたいなことが当時は言われていたのである。あるいは、池田氏を現代の主師親であると表現したり、創価学会が出現しなければ大聖人はウソツキになる、というような意味のことまで言われていたのだ。
これらをことごとく破折した書が浅井先生の第一回諫暁書だったとも言えるくらいである。当時は怖くて誰も言えなかったことを先生一人がすべて言い切っている、この一点については現今の法華講員も大いに認めていいことだと思う。

そのためには全文公開しないといけないが、わたくしは面倒くさくてやる気がしないのである。誰か、やる人がいないものだろうか?

申すまでもなく、冒頭の文章こそが第一回諫暁書である。
御文の「のちぐへ」は、全集も平成新編も漢字ルビで「後悔」と入れてある。これをもって浅井先生は、大聖人よりも偉い存在が出現することは金輪際あり得ないとしているのだと思う。


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