2006/11/30

事中の理同事勝  
http://plaza.rakuten.co.jp/koutou/diary/200611100000/

議論が沸騰している。これはすごいことだ。

わたくしの名前も出てきたりするので、気になって仕方がなかった。
拝見していて思うことは、どうもトチロ〜氏の言わんとしていることがBIN氏にうまく伝わっていない、ということである。トチロ〜氏は、相手にうまく伝わらないので、説明に苦労している様子である。だからといって、BIN氏がワカラズヤというわけでもないと思う。
こうした時には思い切った表現が必要だ。わたくしの得意とする極論というヤツであるが、今日のタイトルがそれである。

理同事勝はあまりいい意味ではないので積極的に使う人はいない。けれども案外にわかり易いのではないかと思う。これを図示すれば、おおよそ次のごとくなるだろう。

一大秘法>事相戒壇≧義理戒壇(戒壇本尊≧書写本尊)

一大秘法=戒壇本尊


一大秘法は一大事の秘法とも表現される。いわゆる事中の事理における事中に相当することは自明であろう。当然ながら事理は事相と義理である。そして後ろのカッコ内が重要なのだ。
これまた事理なのである。もちろん事相と義理とは表現できないが、戒壇本尊を事として書写本尊を理とすることに異論はないはずなのである。顕正会の諸君、いかがであろう?

そして記号の意味であるが、事と理を完全にイコールで結ぶことはできない、と同時に、これまた完全に不等号とすることもできない。ゆえに≧としたわけだが、これが理同事勝なのである。

ポイントは理同事勝が二重に配当されることである。
申すまでもなく、事相の戒壇と義理の戒壇が第一の理同事勝で、さらに義理の戒壇において戒壇本尊と書写本尊の関係が第二の理同事勝に相当するわけである。あるいはこれを義中の事理と表現すべきであろうか?

もう一つ、大事なことがある。
一大秘法はイコール本門戒壇の大御本尊なのである。これが日蓮正宗のもっとも根幹となるべき部分であろう。
ようするに、上掲の図は二つの数式から成り立っている、いわば連立方程式なのである。上の数式では一大秘法>事相戒壇とあって、この後ろに戒壇本尊の説明がある。しかるに下の数式ではいきなり一大秘法=戒壇本尊となっている。このような連立方程式ゆえに、なかなか整理がつかない、あるいは見えてこない、盲点に入ってしまっている・・・しかし、ここまで整理がつけば、もはや何の問題もないのではなかろうか?

今日はどちらかというと、顕正会に不利な内容になっているかもしれない。だが、顕正会員はこれを正直に受け止めるべきだと思う。

2006/11/29

他門の戒壇論を参考に  
ウィンズさん、恐れ入ります。

負の均衡とはまさにおっしゃるとおりで、なかなか均衡が崩れない、それでお互いにイガミ合って、いたずらに時間を浪費しているだけのような気がしております。そもそも信仰とはそのようなものなのか・・・という疑問を懐かずにはいられないですね。

さて、トチロ〜氏のサイトで継続中の戒壇の事・義の定義については、当ブログでもウンザリするくらいやってきたので、今さらの感があるのだが、ちょっと味付けを変えて書いてみようと思う。

戒壇とは、広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式に御安置申し上げる本門の戒壇、これを事の戒壇という。それまでは大御本尊の住するところが義の戒壇である。

これは折伏教典にある文章なのだが、わたくしの所持している二十八版は昭和四十三年のものなので、すでに国立戒壇の名称は見当たらない。けれども、ご覧のとおり、戒壇の事・義の定義は顕正会の主張とまったく同じである。おそらく折伏教典は最後までこの記述を残していたのではあるまいか? その最後の版が何年であるか、気になるところである。

話は変わるがもう一つ、気になることがある。他門の戒壇義がどのようになっているのか、それもまた、ひじょうに気になるところである。

日蓮宗には宗義大綱読本というのがあるそうで、ネット上に出回っている資料によれば、戒壇については次のごとく書かれているらしい。

本門の戒壇は題目を受持するところにそのまま現前する。これを即是道場の事の戒壇という。四海帰妙の暁に建立さるべき事相荘厳の事の戒壇は、我等宗徒の願業であって、末法一同の強盛の行業によって実現しなければならない。

これは驚きである。

ようは二重の事の戒壇を唱えているのである。すなわち即是道場の事の戒壇と事相荘厳の事の戒壇である。
はたしてこれが日蓮宗の伝統教学なのかどうか、そこが問題である。事相の戒壇が事壇であるのは、いわば文字どおりであるから不審はない。しかし、即是道場の戒壇が事壇とはいつから言われていることなのだろうか? 従来はこれを理壇としていたような気がするのであるが・・・

この、即是道場を、伝統的宗学に敢えて挑戦して事戒壇とする点等、日蓮宗の「宗義大綱」の合理性・斬新性は、大いに肯定するものであるが、大綱としての印象が薄いのも正直な所感である。

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho27/s27_141.htm

ああ、なるほど、やはり伝統宗学ではないようである。
では、これがいつ頃から言われるようになったかであるが、リンク先の論文によれば、現今の宗義大綱は昭和四十年代にできたものらしい。
この昭和四十年代というのも示唆的である。われわれ日蓮正宗系統の人間にとっては、まさに正本堂の問題を契機として戒壇論の沸騰した時代なるがゆえに、思い半ばに過ぎるものがある。もちろん、日蓮正宗の戒壇論と日蓮宗のそれとは同日の談ではないが、二重の事壇など輪郭的には似通ったところがないとは言い切れないと思う。

すると、どちらかがマネをしたのだろうか?

日蓮宗の宗義大綱が具体的には何年に出来したものか、それによって判断が違ってくるところである。
もし四十年代前半であれば、おそれながら日達上人はそれを御覧になって事壇の定義を変更された可能性も考えられる。逆に四十年代後半であれば、日蓮宗が正宗のマネをした可能性もある。もちろん、単なる偶然かもしれないし、あるいは何らかの必然性があるのかもしれない、いずれにしても、あくまでわたくしの当てずっぽうであることをご了解ねがいたい。

そもそも日蓮宗は、ごった煮のようなところがあって、リンク先の論文を読むだけでもその様子がよくわかる。田中智学だとか清水梁山など、文中にいろいろな人物が登場してくる。そしてそれぞれが、己れの主義主張を展開していて、なかなか議論がまとまらないのである。
実際、この論文の執筆者にしても、現今の宗義大綱について不満と思しきものを漏らしているのである。

ゆえに、いずれは改訂の行なわれることもあるだろう、その時にはまた、コペルニクス的な転換があるのかもしれない。

さて、正宗の場合はいかに・・・

2006/11/28

三大秘法開合の相  

           ┏人(日蓮大聖人)
     ┏本門の本尊┫
     ┃     ┗法(文底・事の一念三千)
     ┃
     ┃
     ┃     ┏信(ご本尊を信ずること)
本門の本尊┫本門の題目┫
     ┃     ┗行(お題目を唱えること)
     ┃
     ┃
     ┃     ┏事(広布後の戒壇)=ここに注意
     ┗本門の戒壇┫
           ┗義(ご本尊所住)


このところ独白ブログの本領発揮とも言うべきか、独りで淡々と本仏論もどきをやっていたら、誰からも相手にされなくなってしまった。それはそれで別に構わないのであるが、しかし、たまには気分転換をかねて、外に目を向けてみよう。

茶寮二階での応酬は顕正会員側の態度にやや疑問がある。ひじょうに粘り強く頑張っている、このこと自体は立派であり、大いにけっこうなことだと思う。しかし、ハンドルネームがよろしくないのだろう、なんとなく不真面目な印象を受けるのである。できれば名前をちゃんとして、その上で議論に望んだらどうかと思う。
内容的なことは省略させていただく。特にわたくしから申し上げることはないので・・・

意外なところというか、目立たないところでも議論がなされていた。トチロ〜氏のサイトである。
本門戒壇の事・義の定義ということで、以前は茶寮二階で行なわれていた議論であるが、それが今は場所を移して、トチロ〜氏のサイトにおいて議論が継続されていたのである。
はっきり申し上げて、あまり進展しているようには感じられない、結局はいつまで経っても解決できないのではないかと思われて仕方がないのである。

そんな時に、ひじょうに好都合の図を発見した。それが冒頭の図である。

顕正会への疑問というサイトがある。
そこには掲示板が二つあって、第二掲示板に相当するであろう場所において、山田元紀氏がサイトの運営者である深道険山氏に議論を挑んでいる。山田氏についてはよく存じ上げないが、どうやら元創価学会員であり、現在はどこにも所属しておらないようである。特に正本堂問題に熱心であり、どちらかといえば顕正会の主張にきわめて同調的である。
そんなわけで、深道氏とは真っ向から対立しているのだが、その議論の粘り強さは驚異的である。ヘタな顕正会員よりもよく勉強しているし、ひじょうに着眼点がいい。

最も注目すべき大切なことは、国柱会が登場し宗門との確執があった後に、なぜ、「国立戒壇」という言葉が宗門に残ってしまったのかということだ。これを、考えると不思議でならない。宗門は国柱会をはねのけたが、その相手が使っていた「国立戒壇」という言葉をそれ以来、時の猊下が使用してきたという事実が不思議ということなのである。

これはすごい。

わたくしは思うのだが、この人は自分でサイトを立ち上げて、そこで己れの主義・主張を世に問うべきではないだろうか?
何もわたくしは、氏が顕正会寄りの主張をしているから応援したい、などというつもりは毛頭ないのである。ようはひじょうにもったいない、掲示板に埋没させてしまうには、もったいなさ過ぎるのである。

ヘンな話、わたくしには顕正会員の発言にウンザリしているところがある、また、それと同時に顕正会批判者の発言にもウンザリしているのである。すでに批判者も被批判者も言っていることがマンネリ化している、その先例が法華講員と創価学会員の応酬なのだろう、今まさに顕正会の場合もそうなりつつあるのではなかろうか?
ゆえに、山田氏のような立場での発言は、ひじょうに貴重だと思うのである。

なお、冒頭の図は、昭和四十一年版の折伏教典に載っているという話であるが、「ここに注意」というのは当然ながら山田氏の加筆であろう。


同日追記:どうも図の表示がうまくいかない。いろいろと工夫しているけれども、どうしても型崩れしてしまうのである。読者にはご不便をお掛けして申し訳ない。

2006/11/27

根源の師と本従の師の距離  
建治二年の曾谷殿御返事に次の二文を拝する。

法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし。

返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。

根源の師とは上行菩薩のことである。本従の師は申すまでもなく釈尊である。

根源と本従ではどちらが根源か?

いや、これは誘導尋問的でよくないかもしれないので、折衷案を提出しておこう。

根源と本従ではどちらがより本源的であるか?

両者から一字ずつ取っているから公平であろう。
わたくしの思うに、もしこの御書に本未有善・本已有善の概念があるものと判断するならば、根源のほうがより本源的な意味を有するはずである。なぜなら本従は本已有善の気味があるからだ。つまり即身成仏ではない。歴劫の気配が濃厚なのである。

しかし、上行菩薩はあくまで釈迦如来から付嘱を受けている。この点は動かない。ゆえに「根源の師」の師匠は釈迦如来である。

つまり、本従の師よりも根源の師のほうが本源的な意味があるけれども、根源の師の師は本従の師なのである。まったく、ややこしい話である。

おそらくはこれが古今能所不二ということなのだろう。あるいは類聚翰集私などには互為主伴という言葉が出てくる、これも同じような意味なのだろう。

法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。

これを拝しても上行菩薩が仏と同格であることは明瞭である。また、曾谷入道許御書の次の一節なども、ひじょうに味わい深い。

濁悪の衆生、此の大士に遇って仏種を殖うること、例せば水精の月に向かって水を生じ、孔雀の雷の声を聞いて懐妊するが如し。

2006/11/26

一仏一切仏の適切なる表現方法  
今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は悉く舎利弗なり。舎利弗は即ち釈迦如来、釈迦如来は即ち法華経、法華経は即ち我等が色心の二法なり。

昨日の投稿に付した「法界一如と同体異名の距離」というタイトルを、はたして読者は理解できたであろうか?

わたくしのつもりでは、法界一如というのはナンデモアリの世界であるから、拡大解釈していくと尊信の対象が無限に増えていく、ようは拡散してしまって何を信仰してもよいことになり、そうすると一種のインフレみたいなもので、一仏あたりの価値が思いっきり下落してしまうのではないか、ということなのである。
すでに産湯相承では、十羅刹と天照と釈尊と大聖人を並べてしまっているわけであるし、また、上掲の御義口伝では舎利弗を参入させてしまっているのである。
創価学会員は御義口伝が好きであるが、おそらく上掲の御文を引用することはないだろう、わたくしにしても正直「なんだこれは?」という思いである。そもそもわたくしは、あまり御義口伝を引用したことがないのである。実際のところ当ブログでは、過去にほとんど引用していないはずである。
ようするに上掲の御文は極端な例としてあげさせていただいたわけであるが、わたくし自身はその正しい拝し方を知っているわけではない。おそらくは法界一如の意味があるのだろうと思って、それを言わんがために掲げさせていただいたわけである。

あるいは心仏及衆生・是三無差別ということも、これはこれで相当の悟りなのであろうが、うっかりすると個々の価値を下落させることになりかねないのである。この延長線上にあるのがいわゆる凡夫本仏論なのではあるまいかと思う。

法界一如というのは、こうした側面を持っている。

一方の同体異名・・・わたくしはこれを「仏と聖人同体の口伝」のつもりで書かせていただいたわけであるが、これはいわゆる主師親の三徳において釈尊と大聖人は同体であるとの文脈が拝されると思う。大聖人は諸御書で、三徳兼備の仏は釈尊一仏であるとの御意を御示しになると同時に、御自身もまた三徳を具備されていることを御宣言あそばしている。
つまり、法界一如の意味ではあらゆる存在がそこに含まれてしまうけれども、主師親の三徳においてはきわめて限定的、突き詰めれば釈尊と大聖人しかおらない、他に該当者はいないはずなのである。

ゆえに、法界一如と同体異名は違うのではないか、そこには相当の距離があるのではないか・・・と考えたのである。

我が釈尊法華経を説き顕はしたまひしより已来十羅刹女と号したてまつる。〔生仏法界一如の口伝〕十羅刹と天照太神と釈尊と日蓮とは一体異名にして、本地垂迹の利益広大なり。日神と月神とを合して文字を訓ずれば十なり。十羅刹女と申すは、諸神を一体に束ね合はせたる深義なり。

昨日は唱法華題目抄や日眼女釈迦仏供養事を引用したが、ここで改めて産湯相承事を拝すると、もう一つの重要な要素が見えてくると思う。
「十羅刹女と申すは、諸神を一体に束ね合はせたる深義」とは、まさに「一仏一切仏」と符合するし、「釈尊は天の一月」ともよく馴染むのである。先にわたくしは、法界一如を拡大解釈していくと尊信の対象が拡散してしまって価値が下落するとの意味を書いたが、大聖人のおかれてはそんなことは百も承知であられるのである。
つまり、大聖人は尊信の対象を一仏に統合することを御考えになられているわけで、当然のことながらその一仏とは釈尊に他ならないのである。
そして三徳具備の辺において釈尊と大聖人は同体である・・・これが産湯相承における結論なのであろう。

ちなみにわたくしは、法界一如・一仏一切仏から、大聖人のあらわされた御本尊の相貌を想起する。

実際のところ唱法華題目抄では、一仏一切仏は妙法の二字にそなわることを御教示あそばす。また、同時にこの御書には、御本尊の原型とも拝される御指南が存するのである。

ただし、一つだけ注意すべき点がある。
それは日眼女釈迦仏供養事においては、釈迦の仏像をもって一仏一切仏の義を御教示であられることである。法界一如・一仏一切仏の義理は曼荼羅本尊こそよく馴染むものと思うが、現実に造像を称賛せられる御書が残されている以上は、これを簡単に片付けるわけにはまいらないであろう。

2006/11/25

法界一如と同体異名の距離  
ウィンズ氏よりコメントをもらっているので、今日はじゃっかんそれを意識した内容になると思う。

至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。

これは当体義抄の有名な御文で、先の御大会式の講演にも引用されている。そして同抄の次の段には、昨日の投稿にて引用した総勘文抄と同趣旨の御文がある。

問ふ、劫初より已来、何人か当体の蓮華を証得せしや。答ふ、釈尊五百塵点劫の当初、此の妙法の当体蓮華を証得して、世々番々に成道を唱へ、能証所証の本理を顕はし給へり。今日又中天竺の摩訶陀国に出世して・・・

中天竺摩訶陀国というのだから、やはりこれも釈尊のことを指しているとしなければならない。

ゆえにわたくしは、釈尊と大聖人を同体異名とするのがいちばん具合がいいと考えているのだが、では上行菩薩はどうなるのか、大聖人は上行菩薩の再誕ではないのか、といった疑問が生じてくる。

百六箇抄の冒頭には、

本地自受用報身如来の垂迹上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮・・・

との御宣言がある。

また、産湯相承事には、

本地自受用報身如来の垂迹上行菩薩の御身を凡夫地に謙下したまふ。

との仰せを拝する。そして同御相承の後半には、

十羅刹と天照太神と釈尊と日蓮とは一体異名

とあり、またそれより数行後にも添え書きのような感じで、「仏と聖人同体の口伝」と書かれているのである。
ゆえに、大聖人が上行菩薩の再誕であることと、釈尊と大聖人が同体であることは、矛盾しないのであろう。何しろ同じ文章の中に二つのことが書かれているわけであるから、もしこれを矛盾というならば、大聖人に矛盾があることになる。あるいは執筆者の日興上人の責任か?

上掲の「・・・一体異名」の脇には、やはり添え書きがあって、「生仏法界一如の口伝」と書かれている。
これはまた難しい概念である。あるいは御本尊七箇相承の「法界即日蓮、日蓮即法界」と同義なのかもしれないし、唱法華題目抄に拝する「一仏一切仏」もまた、大いに関連のあるところなのかもしれない。
生仏法界一如ということは、極論すれば「なんでもあり」の世界である。当然、ここに上行菩薩が含まれても一向に差し支えないことになるだろう。このことは、日眼女釈迦仏供養事を拝すれば、すべて合点がいくのではないか?

法華経の寿量品に云はく「或は己身を説き或は他身を説く」等云云。東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏、上行菩薩等、文殊師利・舎利弗等、大梵天王・第六天の魔王・釈提桓因王・日天・月天・明星天・北斗七星・二十八宿・五星・七星・八万四千の無量の諸星、阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神・一切世間の国々の主とある人何れか教主釈尊ならざる。天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり。例せば釈尊は天の一月、諸仏菩薩等は万水に浮ぶる影なり。

「上行菩薩等・・・教主釈尊ならざる」である。

しかし、ウィンズ氏の疑問のごとく、なるほど、これでは釈尊は自分で自分に付属したことになる。これはどういうことであろうか?

この辺はわたくしの頭で考えてもどうにもならないので、このくらいでやめておこう。

2006/11/24

我本行菩薩道と即座開悟の距離  
堀ノートのコピーを某ジャーナリストから数十万で買った・・・

富士川氏が情報通であることは承知しているけれども、しかし、いったいどこからそんなネタを仕入れてくるものか、不思議である。あんまり知り過ぎた男になると生命が危険なのではないかと、少しばかり心配にもなる。

JUMP氏のおっしゃる致命的はまさにそのとおりだと思う。
ただし、この路線変更というのが意識的になされたものか、それとも自然にそうなってしまったのか、ここがポイントだと思う。つまり、意識的なものであれば、今後、意識的に軌道修正することは可能だろう。ところが自然に、いつの間にか気がついたら会員のレベルが低下していた・・・となると、もはや手の施しようがないのかもしれない。

釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき。

さて、今日もまた御大会式の講演をベースに書いていきたいと思う。

思いっきり端折ってしまえば、ここでの釈迦如来は日蓮大聖人の御事である、というのが結論のようである。
寿量品には、我本行菩薩道・・・云々とある。これは寿量品にしてなお歴劫の気味を感じさせるところであり、上記の総勘文抄のいわゆる即座開悟とは明らかに懸隔がある。
つまり、釈尊は我本行菩薩道、大聖人は凡身即仏身の即座開悟、ゆえに大聖人こそが御本仏であると・・・

これはまさに端折りに端折った説明であり、見る人が見ればツッコミどころ満載であろう。

一つ言えることは、この我本行菩薩道は日蓮宗系統でも頭を悩ますところらしく、ずいぶんと苦労している様子がうかがえるのである。ようは大聖人の御指南と法華経との間に齟齬がある、これはどうしたことかと。
逆に言うと、日寛上人がこの文を根拠に本因初住の文底を御指南あそばされたことは、ひじょうに説得力のあることなのだろう、ゆえに他門では頭を悩ましているのだと思う。
しかし、問題がないわけではない。総勘文抄の御文はそれほど単純なものではないのである。

釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき。後に化他の為に世々番々に出世成道し、在々処々に八相作仏し、王宮に誕生し、樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便の教を儲け衆生を誘引す。

普通に拝読すれば、これは大聖人のことではなく、釈尊のことを示しているのである。
つまり、われわれが引用する場合は最初の一文で切ってしまって後ろの文章、すなわち「後に化他の為に」以下を引用しない場合が多いけれども、「王宮に誕生し」云々は明らかに釈尊のことを意味している。ゆえに「釈迦如来五百塵点の当初」云々もまた、文脈上は釈尊のことを指しているとしなければならないだろう。
このことをどのように拝するのかが問題である。とりわけ顕正会の場合は御書がないので、意図的な切り文だとの批判を受けることになるのだ。

いちおう、わたくしなりの結論を申し上げておくと、産湯相承に拝するごとくの同体異名がいちばん具合のいい捉え方ではないかと思う。大聖人と釈尊は同一人物であると。
このように拝するならば、総勘文抄でも不都合は生じないはずで、釈尊は五百塵点の当初、凡夫の御身のままで即座開悟した・・・この釈尊は衆生を化導するために何度も出現し、最後は王宮に生まれて・・・云々と、ようはここに大聖人を入れる必要はないのである。なぜならば同一人物だから・・・

もっとも、こういうことを書いていると、己我の転生はない、などという難しいことを書いてくる人がいるかもしれない。
けれども、わたくしが言いたいことは、釈尊の生まれ変わりが大聖人であるという意味ではなくて、衆生を誘引・化導するその働きそのものに主眼をおいての同体異名である。そして今、末法における仏はいわゆる三十二相の荘厳仏ではない、もっとわかりやすく言えば、金ピカの仏ではない、ということなのである。

わたくしは申すまでもなく凡夫である。底下の凡夫である。底下のうちでも最低であろう。そのわたくしにとって、荘厳をきわめた仏などはまったく魅力がない。むしろ凡夫の姿を現じている仏にこそ、魅力を感じるのである。

2006/11/23

複雑な文章構成  
昨日の富士川氏からのコメントは、ご自身の経験を踏まえられた説得力のあるものだった。

それにしても、摧尊入卑に近い、とのことであるが、この「近い」という言い回しが微妙である。
確かに、強敵を伏して始めて力士を知る、とか、浅きは易く深きは難し、などの御指南を拝するならば、いたずらにレベルを下げ過ぎるのも問題であろう。ようは今後にかかっているのだと思う。いつまでも初心者向けに終始しているようでは、すでに浅井先生自身のレベルも相当であると言わざるを得ないことになるだろう。ここでの相当は「その程度」くらいの意味である。
誤解を承知でわざと表現させていただければ、如我等無異でなければならない。つまり、今は初心者向けでいいにしても、最終的には先生のレベルまで全会員を引っ張りあげないといけない。

かく言う、わたくし自身は、偉そうに書いているわりには大したことないのである。なぜならば、ずいぶん昔に次のようなコメントを頂戴しているからである。

世間から顕正会員は馬鹿だと思われたくないので、恥ずかしい内容を披露するのはご遠慮ください。

http://diary.jp.aol.com/ganko/104.html#comment

換言すれば、このコメントのヌシは、わたくしの言動を摧尊入卑だと言いたいわけである。

はっきり言って、顕正会員が馬鹿だと思われる分には問題ないのである。わたくしがブログを書こうが書くまいが、すでに顕正会員のレベルは周知のことだからである。
何が問題かと言えば、わたくしがこうして文章をつづることによって、富士大石寺に迷惑をかけることなのである。事情を知らない人は日蓮正宗系統をジッパヒトカラゲで見ているわけで、そうするとわたくしのようなアホウも同じ系統だと見られている・・・いや、一読して除外しているかもしれない・・・それなら気が楽でいいのだが・・・ともかく、顕正会員の馬鹿さ加減などは今さら驚くに値しないが、日蓮正宗に迷惑をかけることだけは何としても避けなければならないと思う。

 「文底秘沈」
 真実の因位の修行は、名字凡夫における修行でなければならない。その真の因行は、寿量品の文底に秘し沈められている。これが文底秘沈といわれる最大深秘の大法です。
 このこと、開目抄には
 「一念三千の法門は、但法華経の、本門寿量品の、文の底に秘してしづめたまへり」
 と説かれている。まことに重大な御法門で、富士大石寺の御相伝による以外には絶対にわからない。
 では、寿量品の何れの文の底にこの大法が沈められているのか。
 古来、他門の学者が、あるいは「如来秘密・神通之力」の文だとか、あるいは「是好良薬」の文だとか、あるいは「通じて寿量一品」だとか言っているが、これらはわからないで言っているのです。寿量品のいずれの文の底に秘し沈められているかといえば、それは
 「我本行菩薩道・所成寿命・今猶未尽・復倍上数」
 の十八文字。この本因初住の文底に、実に久遠元初の仏と法が秘し沈められているのであります。
 ゆえに日寛上人はこう御指南下されている。
 「本因初住の文底に、久遠名字の妙法・事の一念三千を秘沈し給えり」と。


妙観講ビデオを改めて視聴すると、いろいろの発見がある。

克衛のいわく、日有上人には間違いがある、それを日寛上人は破折されている、研究教学書の九巻を読めばわかる、云々と。

ビデオの冒頭、開始まもなくに上記のごとくの発言があるので、ご確認になられるといいだろう。
ここでは具体的に日寛上人が日有上人のどこをどのように破されているか、克衛は語っていないけれども、どうやら文底秘沈のことらしいのである。わたくしはその具体的な文言を存じ上げないが、日有上人は如来秘密神通之力の文底だと御指南になっているそうである。日寛上人においては上掲のごとく我本行菩薩道の文底だとされているので、ようは意見が食い違っている・・・このことを克衛は言わんとしていたのだと思われる。

また、同ビデオにおいては、当家御法則文のことが話題になっている。
この文が日寛上人の御指南なのかどうか、この一事で勝負を決しようとしたものか、克衛はここで包丁持って来いなどと、訳のわからないことを発言している。ようするに言わんとするところは、当該御文は左京日教の類聚翰集私に出てくる言葉であって日寛上人の言葉ではない、ということなのである。
ビデオを視聴すればわかるが、このあたりはヒッカケ問題のような雰囲気があって、わたくしはあまり好ましくないと思っている。

この二つの話題は、近年になって再燃している。なんと、かの有名な邪義破折班のサイトにこの話題が出てくるのである。

松岡幹夫の傲慢不遜なる十項目の愚問を弁駁す

法華講員はしばしば次のようなことを言う。

しょせん顕正会の主張は戒壇論くらいのもので、それ以外はすべて創価学会などから情報を入手して宗門を誹謗している、云々と。

しかし、必ずしもそうではなかったのである。妙観講ビデオは平成元年であるから、顕正会の主張は創価学会系の松岡氏などよりも遥かに先行していることになる。この点、法華講員は認識を改める必要があるだろう。

もっとも、顕正会員のレベルは年々低下して、とてもじゃないが平成元年当時のレベルを維持できているとは言い難いのであるが・・・

2006/11/22

平易の秘訣  
 初住本因と元初本因

 だが、ここに大事なことがある――。
 それは、この本因は初住本因といって、まだ元初本因ではないのです。すなわち初住の位において仏になる原因の修行をしたのであって、名字凡夫の位における真の修行ではない、ということです。
 初住というのは、因位といってもすでに相当に位が高い。釈迦仏法では、菩薩が修行して妙覚の仏に成るまでの階位を、五十二位に分けて説いている。それが十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚です。
 この中で、初住は十住の初めで、この位は不退位といって、その前の十信に比べれば相当に高いのです。


これは顕正新聞第1051号に載る、御大会式における浅井先生の講演の一部である。文章の途中なので読み取りにくいであろうが、それはお許しいただきたい。

ウィンズ氏のコメントによれば、浅井先生の解説はわかり易い、けれども、それよりもさらにわかり易いのが猊下の御説法である、とのことである。
これについては特に異論があるわけではない。
しかし、少しだけ、わたくしなりの意見を加味させていただければ、日如上人の御事はよく存じ上げないので日顕上人の例で申し上げると、さすがにズブのシロウトには難しい・・・だが、基礎教学をしっかりと身に着けた上で拝聴するならば、これほどすばらしい御説法は他にない、ということだと思う。
いかんせん、わたくしを含めて多くの顕正会員は、まだそこまでのレベルに達していないものだがら、どうしても難解な御説法に感じられてしまうのである。

浅井先生の場合は、それが天性のものなのか、それとも計算ずくのことなのか、ひじょうにシロウト受けのよい講演なのである。その秘訣とも思われることが今回の講演に垣間見えるので、わたくしなりにそこの部分を解明してみようと思う。

上掲の文章にあえてツッコミを入れるとしたら、「相当に位が高い」「相当に高い」という部分の「相当」とは如何なる意味か、である。
現代人の言語感覚では、これを「ひじょうに高い」というふうに受け取ると思うがどうだろうか?
ただし、ここでの文脈上の意味からは、「それなりに高い」とか「そこそこ高い」くらいの意味にしかならないと思うが、これまたどうだろうか? なぜならば、五十二位中の最初の十信をクリアした段階が初住なのであろう、スタート地点からゴール地点までを俯瞰すれば一目瞭然のごとく、初住はスタート地点に近いのである。ようは十信よりは高いけれども、まだ先は長いのである。

つまり、相当に高いという意味がやや曖昧というか不明瞭になっている。現代人の言語感覚ではひじょうに高い、べらぼうに高いという意味に受け取るだろうと思われる、けれども文脈上はじゃっかん違う意味に受け取れるようになっている。

しかし、これにはそれなりの意味があるのだ。まさに浅井先生の講演が平易であることのヒミツをここに垣間見る思いである。

しかしながら、それを理解するためには、宗門側の次の文章を読む必要がある。

 「後々の位」の「位」とは、大乗菩薩の五十二位という「位」です。 つまり釈尊の仏法は歴劫修行を経て、行者が位を次第に進め、最後の妙覚の位に至ることを説いています。 その五十二位の最初は十信から始まります。 しかし十信位はまだ不退転の位ではなく、次の段階である十住の初め初住位が不退転の位となります。 この初住位が釈尊仏法の 本因、すなわち成仏の為の根本の因ということになります。 初住位こそは五十二の位が設けられた菩薩行の出発点なのです。 そこで寿量品には「我本行菩薩道(がほんぎょうぼさつどう)」と説かれていますが、文上から拝すればここに一往 本因初住位を認めることが出来ます。

 しかしこの「菩薩道」とは、天台の立てた六即(ろくそく)位では、最極である究竟即の一歩手前に位置する「分真即」という、非常に高い位です。 したがって、真実の 本因がどこにあるかを究めるには、その位に至った本源をさらに求めなくてはなりません。


これは榎木境道先生の著書である。これまた読み取りにくい引用かもしれないが、あまり長くなり過ぎてもいけないので、もし必要ならばリンク先をご覧になっていただきたいと思う。

http://www.geocities.jp/hokkeko_jp/nichikan_1.htm

誤解のないように申し上げておかないといけない。
何もわたくしは榎木境道先生の著書が難解であると言っているわけではない。当該著書は未読であるが、前著とおぼしき「富士門流の歴史」は拝読させていただいて、今も手元にある。ひじょうにすばらしい本である。わたくしは顕正会の中堅幹部クラス全員に読ませたいくらいに思っている。

それはともかく話を戻して、「天台の立てた六即・・・非常に高い位」というのが注目されるところである。つまり、浅井先生の講演では天台の六即を省略している、ゆえに「相当に高い」云々が不明瞭なのである。

では、なぜにこれを説明しなかったのであろうか?

単刀直入に言えば、煩瑣を避けたのである。
初心者には聞き慣れない、それこそはじめて聞くような単語がたくさん出てくる、するとそれだけでチンプンカンプンになってしまうのだ。先生はそれをよくわかっているから、なるべく難しい用語を使わない、使うにしても必要最小限にとどめているのである。

別の言い方をすれば、浅井先生は話を端折るのがうまい・・・

これがために、ある程度のレベルに達している人には物足りないように感じられることもあるのかもしれないが、逆に初心者にとってはひじょうにわかり易いのだ。今回の講演などは本来ならば一級教学部員の勉強すべきレベルのものである。それにもかかわらず、おそらくはズブのシロウトが読んでも、じゅうぶんに大意がつかめるのではないかと思う。

浅井先生の講演が平易であることのヒミツをおわかりいただけただろうか?

2006/11/21

改善の予兆  
富士川氏、はぐれ雲氏よりコメントを頂戴しました。ありがとうございました。

ここ数日は我ながらずいぶんと乱暴なことを書いてしまっているので、今日は少しばかり気を引き締めて書きたいと思う。

今年も残り一ヶ月有余となった。早いものである。
わたくし自身はさしたる変化もなく、気がついたら一つ年を取っていたというテイタラクであるが、ネット上においてはそれなりに動きのあった年だったと思う。茶寮掲示板が出来たこと、そして向上委員会の発足である。
もともと櫻川氏は個人サイトを持っておられたが、それとは別に新たなコンセプトのサイトを立ち上げた・・・それが向上委員会である。また、茶寮掲示板はこれまで皆無に等しかった現役顕正会員による顕正会員のための掲示板である。

櫻川氏における新たなコンセプトというのは、氏の文章を読めば一目瞭然のごとく、顕正会に対してかなり批判的な意見を書いていらっしゃる、これが従来とは違っているところである。
茶寮掲示板もまた、批判的意見をタブーとせず、むしろ本音の語り合いで顕正会の問題点を抽出し、そこから改善の方途を見出していこうとしているわけである。
いずれにしても、顕正会には改善すべき点が少なくない。本音ではそう思っている人が少なくないはずなのである。
だが、その本音を語れる場所がない。ゆえに、その声なき声をネット上において結集して、やがては大きな潮流にしていこうとの試みが向上委員会であり、茶寮掲示板なのであろう。

はたしてこれらの試みは成功したのだろうか?

もちろん、そんな短兵急に事が成ずるわけもなく、今はまだ序分の段階と言うべきなのだろう、これからが本番である。

だが、一見すると顕正会そのものには目立った変化があらわれていないように見えても、委細に見るならば、あるいはこれは変化のあらわれなのでは?と思えることもないわけではない。

今回の御大会式における浅井先生の講演は、まさにその疑いが濃厚である。

今回の講演はべらぼうに難しいとの評判である。
いや、ネット上で活躍している面々はそれぞれ独自に教学を学んでいるだろうから、その面々にとってはさほどでもないのかもしれない。だが、今の一念信解路線における顕正会員にとっては、超難解の講演だったと思う。
例えば、初住本因と元初本因・・・わたくしもさっぱりわからなかったくらいであるから、初心者はなおさらであろう。今回の講演のメインテーマは、日蓮大聖人が久遠元初の自受用身であられることの説明だったわけであるが、上記の二つの本因のあたりがとりわけ難しいところだと思う。

わたくし自身、あまり理解できていないものだから、うまく書けない。よって今日のところは話を端折ってしまうが、実はこれ、一級教学試験レベルの内容なのである。

前にも紹介したことがあるが、冨士の三百四号に平成元年当時行なわれた一級教学試験の優秀答案が載っている。例えば、第二問は次のごとくである。

下種の一念三千は、何れの文底に在るかを説明せよ。

そして優秀答案として、男子部の小峰勝彦君の解答が載っている。その冒頭にいわく、

結論から云えば、「本因初住」の文底である。

云々と。

初心者にとってはその用語からして耳慣れないものがたくさん出てくるものだから、それでチンプンカンプンになってしまうところがある。
けれども、顕正新聞の最新号に載っている浅井先生の講演は、けっこうわかり易くなっていると思う。この辺が先生の力量というか面目躍如なのであろう、難解の法門を平易に語れる技術・・・これは天下一品である。

なんだ昨日までとは打って変わって、ずいぶんと先生を持ち上げるじゃないか?

いや、今日はそういう話ではない。
ようするに茶寮掲示板や向上委員会などでしばしば指摘される顕正会員のレベル低下を、顕正会の首脳部もそれなりに気にしているのではあるまいか・・・という話をしたかったのである。言い換えれば、本部でも掲示板や向上委員会の言動に注目している、目を光らせている、そしてそれが今回の先生の講演に反映しているのではないかと・・・

もし、わたくしの想像が正しいとすると、茶寮掲示板ないし向上委員会はいまだ目的を達成したわけではないけれども、途中経過としては上々のデキなのではなかろうかと思う。


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