2006/12/17

客観情勢と自己都合のせめぎ合い  
顕正会発足50周年を見つめて

顕正新聞第1053号の見出しである。

今日はこれについて書くが、その前に一つだけ、顕正新聞の前号にじゃっかん不審な点が感じられたので触れておきたい。それは新高知会館御入仏式の記事なのだが・・・

会館の外観写真がどこにも載っていないのである。

大体いつものパターンは、これ見よがしに建物の写真を載せるのであるが、今回は載せていない、これは異例のことではないかと思う。
別にわたくしは、もしかしたら建物は存在しないのではないか、などと荒唐無稽なことを想像しているわけではない。もちろん新会館はちゃんと建ったのだろう、それを疑っているわけではないのだ。
顕正会の会館というのは画一的である。御宝前の様子などはどこも変わらない。御入仏式の記事では、浅井先生が講演している写真が掲載される。今回もそれは載っている。それを見れば御宝前の様子が、どこの会館も似たり寄ったりであることがわかる。
そうすると、建築士の唯一の腕の振るいどころは、建物の外観ということになる。実際のところ、顕正会の会館には派手さはないものの、それぞれ外観に工夫を凝らしている様子がうかがえるのである。ゆえに、どうだと言わんばかりに外観写真を掲載するのが常なのであるが、今回はそれがないのである。

話が長くなってしまった。上記の疑問については、ご存知の方にコメントをお願いすることにして、いよいよ本題に入る。

わたくしは予言者ではないが、十一月度総幹部会の一週間前に次のようなことを書いた。

http://diary.jp.aol.com/ganko/566.html

けっこう不思議な符合だと思う。
浅井先生は先月末の総幹部会において、顕正会が来年の八月に満五十年を迎えることを語っているが、これはおそらくはじめての言及だと思われる。そして次の五十年を展望するがごとくの発言をしている。
もちろん、あと五十年などと言っているわけではなく、次の五十年でも前半のうちに広宣流布を・・・という意味を述べているのであるが、しかし、それでも問題がないわけではなく、今後おそらくは批判勢力がなんやかんやと言ってくるものと思われる。
そこでいつものことながら、他人から指摘されるのはシャクなので、わたくしが先に書いてしまおうと思う。

五十年のうちの前半ということは、やはり延びたのである。今まで、あと十有余年と言っていた、であるから五十年の前半と意味的には一致しないわけではないが、しかし、厳密には一致しないと言わざるを得ないだろう。
つまり、十有余年ということは、どんなに甘く見積もっても二十年未満である。ところが五十年の前半といえば、あと二十五年ということになる。延びたのだ。
こうした細かい理屈を抜きにしても、浅井先生が次の五十年を云々したこと自体が、広宣流布はまだ先のことだという印象を強くするものだと思われるのである。

確か一国諌暁の年には、孤忠四十七年という言葉がよく使われていたと思うが、四十八年とか四十九年ということは一度も聞かなかったような気がする。いや、おそらくは幹部の登壇にそれらしきものがあると思う。だが、それがあまり印象に残っていないものだから、ここに来て唐突に五十年が登場したことに、わたくしは少々驚いているのである。ああ、もう五十年になるのかと・・・

これは浅井先生による計算なのか、それとも行き当たりばったりのなせるワザなのか・・・

今回、はじめて気がついたことがある。
いわゆる第一回の武道館大総会は顕正会発足二十五周年の年だったのだ。その折に、例の「あと二十五年」が発表されたわけである。つまり、浅井先生の皮算用としては、顕正会五十周年を広宣流布の期限としていたわけである。今まで気がつかなかった。

客観情勢云々もあながちウソではないと思うが、しかし、そこに自己都合が見え隠れしていることも否めないであろう。


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