2006/12/26

愚見開陳  
瑠璃堂さん、重ね重ねのコメントありがとうございます。それからウィンズさん、他門からも二箇相承を認める学者が出始めているとのこと、これはひじょうに興味深い話ですね。

さて、わたくしはこれまで、観心本尊抄についてはあまり多くを語ってこなかった。それはまさに分不相応なるがゆえである。
しかし、たまにはハメを外して、思い切って書いてみようと思う。わたくしがトンチンカンなことを書いたところで大勢には影響ないだろうし、それがまた独白ブログの面目でもあるからだ。

日蓮本仏論から曼荼羅正意への流れで本尊抄を拝する・・・これが法太郎氏の斬新さと思われるが、わたくしはこれまで逆に考えていた。
本尊抄を拝する限り、大聖人を御本仏とする直接の根拠は見当たらない。本尊抄は曼荼羅正意である。そして、その曼荼羅をあらわす御方は大聖人に他ならない。ゆえに大聖人を御本仏と仰ぐのではあるまいかと・・・

しかし、本尊抄をただちに曼荼羅正意と断定することは案外に難しいようで、わたくしの場合は大聖人を御本仏として拝しているものだから、そこから自然と曼荼羅正意に読めてしまうという傾向があるのかもしれないと思う。そうするとまずは大聖人を御本仏であると確定させないことには、曼荼羅正意には至らないことになる。なるほど法太郎氏の着眼はひじょうに鋭いものがある。
いちおう開目抄から御本仏との結論が導き出せるものとして、そこから本尊抄に入っていけば自ずと曼荼羅正意に結びつくものだと考えよう。これがいわゆる人本尊開顕・法本尊開顕という教学的な結論となるものと思われる。

しかし、わたくしの実力では本尊抄を拝しても法本尊開顕のことが容易には見えてこない・・・それは当たり前といえば当たり前なのであるが、わたくしには別のことが強く迫ってくるのである。おそらくはそれが、往いては法本尊の何たるかを示すものなのだろう。

本門の四依は地涌千界、末法の始めに必ず出現すべし

本尊抄には「出現」というキーワードが繰り返し出てくる。仏像出現も悩ましい御表現であるが、それ以上に四大菩薩の出現は悩ましい。本尊抄の後半においては、この四大菩薩の出現がことさら強調されている。
大聖人の御書を順番に、すなわち年代順に拝読していくと、いわゆる佐前佐後に大きな変化を見つけることができる。どうも大聖人は上行等の四菩薩について、初期においては意識的に触れないようにしておられたのではと勘ぐりたくなるくらい、ほとんどその御記述を拝することはできない。そして、ここに来て、ようやく本尊抄に至って、上行等の出現に言及あそばす・・・ゆえにものすごくインパクトがあるのだ。

これがわたくしの偽らざる感想である。

地涌千界出現のイメージが強まるにしたがって、思わぬ錯覚を生じるようになった。あるいはこれこそ大聖人の御計算ないし術中(?)なのではと思うのだが、はたして一般には次の御文をいかように拝するものであろうか?

地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり

己心の釈尊とはわれわれの己心に住する釈尊・・・いわゆる人界所具の仏界であろうと思う。
わたくしには、地涌千界はわれわれの眷属なのだと、地涌千界がこの現実の世界に出現してわれわれを守る働きをするのだと、このように思えて仕方がないのであるが、どうであろうか?

しかし、文脈上は必ずしもそうはなっていないわけで、ここでの菩薩は己心の菩薩とするべきが一般なのかもしれない。ともかく地涌千界の出現を明かされるのは後段のことだから、初めて読んだ場合にはこの段階で出現に思い至ることは絶対にあり得ないのである。ようは繰り返し拝読しているうちに、そのような錯覚が生じてくるわけである。

大聖人はそこまでの効果を期待して本尊抄を構成あそばした・・・

わたくしはじゅうぶんにあり得ることだと思っている。


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ