2006/12/29

愚見爆発  
わたくしは一昨日の投稿で、大聖人の御立場は末代幼稚であられる、と書いた。

顕正会員であればこれを、御本仏を貶める大謗法の言葉と受け取ったかもしれない。
あるいは多少なりとも教学の身についている人であれば、いわゆる御謙遜の表現として、もしくは示同凡夫の辺として、理解しているかもしれない。そういう人にとっては言わずもがなのことであるが、まあ、初心者向けという意味ではわたくしの書くことにも多少の価値はあるだろう。
わたくしは日蓮本仏信者である。ゆえに大聖人を貶めることなどするわけがないのである。

生仏一如ないし凡聖一如という言葉がある。
本尊抄にそのままの言葉があるわけではないが、本尊抄の前半部分において御教示あそばす事柄は、まさにそれなのである。

問うて曰く、十界互具の仏語分明なり。然りと雖も我等が劣心に仏法界を具すること信を取り難き者なり。今の時之を信ぜずば必ず一闡提と成らん。願はくは大慈悲を起こして之を信ぜしめ阿鼻の苦を救護したまへ。答へて曰く、汝既に唯一大事因縁の経文を見聞して之を信ぜざれば、釈尊より已下の四依の菩薩並びに末代理即の我等、如何が汝が不信を救護せんや。然りと雖も試みに之を云はん・・・

・・・十界互具之を立つるは石中の火、木中の花、信じ難けれども縁に値ひて出生すれば之を信ず。人界所具の仏界は水中の火、火中の水、最も甚だ信じ難し。然りと雖も竜火は水より出で竜水は火より生ず、心得られざれども現証有れば之を用ゆ。既に人界の八界之を信ず、仏界何ぞ之を用ひざらん。尭舜等の聖人の如きは万民に於て偏頗無し、人界の仏界の一分なり。不軽菩薩は所見の人に於て仏身を見る、悉逹太子は人界より仏身を成ず、此等の現証を以て之を信ずべきなり。


我等が劣心に仏法界を具する
尭舜等の聖人の如きは・・・人界の仏界の一分なり
不軽菩薩は所見の人に於て仏身を見る
悉達太子は人界より仏身を成ず


先日も紹介したとおり、大聖人はこの文脈中において、御自身を「末代理即の我等」と仰せになられるのである。
本尊抄の冒頭には「夫一心に十法界を具す」とある、これはまさに生仏一如、あるいは法界一如ということだが、大聖人はそうした中で御自身を最下位に置かれていらっしゃる、それが理即の意味である。
あるいは「予が如き者」とも仰せられる。これまた、然於病者ないし而謂不美の文脈から御規定あそばすのである。

これらは御謙遜ないし示同凡夫と言われるが・・・わたくしはもっと平たく、大聖人は高いところから見下ろしているのではなく、われわれとまったく同じ場所にいらっしゃる、凡夫の目線で実相を御覧あそばされている、ということではないかと思っている。
これはとりもなおさず皆成仏道を意味するのだろう。御自分を最下位に置く、自分より下はない、その自分が成仏できるのだから成仏できない人などいるわけがない・・・

日蓮が流罪は今生の小苦なれば、なげかしからず。後生には大楽をうくべければ、大いに悦ばし。

開目抄のいちばん最後のくだりである。
御自身のことを仰せになられていることが注目されるところで、ひるがえって本尊抄の最後を拝すれば、自ずと共通項が見出せるはずである。

一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと、太公・周公の文王を摂扶し、四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり。

さらに撰時抄の末文も心して拝したいと思う。

霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等、梵釈・日月・四天等、冥に加し顕に助け給はずば、一時一日も安穏なるべしや。

大聖人が末代幼稚であられることは疑いないところである。そして御本尊の相貌を拝すれば、その末代幼稚がど真ん中に位置することも、疑いようのないところであろう。


ワラシナ氏のコメントは辛辣である。わたくしに対してではなく浅井先生に対してであるが、さらに厳しく言うならば、佐渡以南に位置する顕正会の会館・事務所は冷暖房を撤去すべき・・・とするのが道理であろう。
佐渡に会館が建ったとして、そこだけ冷暖房を入れないのはおかしな話だと思う。佐渡よりも寒いところは大目に見るにしても、佐渡よりも暖かい地域であれば、暖房設備など言語道断であるはずなのだ。
しかし、わたくしはそこまでする必要はない、というか、大聖人のお振る舞いをマネするにしても、そんなことまでマネすることを大聖人が望んでいらっしゃるわけがないと思うのである。
示同凡夫の辺として大聖人は凡夫のお振る舞いをあそばしているが、それはタワムレで凡夫のマネをしたというようなことではなく、そこに法義上の重要な意味があったわけである。逆にわれわれが大聖人のマネをする場合、それが単なるモノマネであってはいけないはずなのだ。
もっとも、そこまでガチガチに考えず、もっと単純に考えて、あんまり暖かいところで勉強しても身に入らない、ということはあるだろうから、御書を学ぶ姿勢としてはわりと合理的なのかもしれないと思う。


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