2007/2/28

宗教に関心をもとう掲示板最後の日  
引き続き水無月氏からコメントを頂戴し、瑠璃堂氏からはトラックバックを頂戴した。だが、しかし、今日はちょっと別の話題に転換したいと思う。非礼の辺はお許し願いたい。

さて、今日はタイトルからして大仰な感じが否めないであろう。

わたくしは独白に徹しているものだから、掲示板とはあまり縁がない。だが、ブログをはじめる以前には、掲示板に投稿していたことがあって、宗教に関心をもとう掲示板にもお世話になっていたのである。
人によっては、そこらじゅうの掲示板に出まくっていて、しかも同じ文章を貼り付けまくっているような人もいる。わたくしは資源のムダではないかと思うが、まあ、人それぞれなのだろう。
ともかく、わたくしの場合はかつて掲示板に投稿していたといっても、あちこちというわけではなく、全部あわせても十箇所くらいだったと思う。もちろん同じ文章を貼り付けるようなことはしなかった。
そういうわけで、わたくしの数少ない投稿先の一つが宗教に関心をもとう掲示板だったのである。ゆえに、かの掲示板には多少なりとも思い出があるので、閉鎖になることは少し残念な気分なのである。

しかし、ホームページそのものは継続されるらしい。

考えてみれば、もともと掲示板というのはホームページに付随するものだったはずである。人気のあるホームページでは、読者の反響を拾う手段として掲示板を設ける。逆に人気のないサイトは掲示板を設けても誰も投稿しない、ゆえに最初から掲示板を設けないような人もいるわけである。いずれにしても本来、掲示板はオマケみたいなものであって、サイト全体の一部分に過ぎないものではなかったかと思う。

もちろん、掲示板そのものがメインのサイトもある。茶寮掲示板などはまさにそれであろう。

しかし、宗教に関心をもとう掲示板の場合はあくまでサブの位置付けであって、メインではない。では、メインは何か?

かのサイトの正体は日蓮正宗正見山知道寺ホームページであり、宗門関係の資料が豊富に揃っていることで高い評価を得ている。 今回の掲示板閉鎖の知らせを受けて、創価学会の沖浦氏、よしりん氏などがわざわざ挨拶を書き込んでいるくらいである。それほどに評価が高いのである。

掲示板での思い出・・・

・・・といっても、取り立てて書くほどのことはない。もし、当時のやりとりを保存しておられる人がいるならば、それを公開してもらったほうがいいだろう。わたくしは自分の投稿の下書きが辛うじて残っているくらいで、わざわざ掲示板のやりとりを保存するまでのことはしていないので、今となっては忘れてしまっていることのほうが多いくらいである。ゆえに思い出を書こうにも書けないのだ。

実は、思い出は書けないけれども、現在進行形のことで書けることが一つだけある。

わたくしはなるべく、時間のある時は御書の拝読をするように心掛けている。ところが最近は怠けグセがついてしまって、時間があってもボケッとしているだけで御書を読もうともしないことが多いのである。これはひじょうにマズイ状態なのだが、わかっていてもどうにもならない、まあ、そういうことは誰しも経験のあることだろう。

そこで一つ工夫を凝らしてみた。

知道寺ホームページの中に御書要文集がある。そのPDFデータを携帯電話に入れて、いつでもどこでも拝読できるようにしたのである。
不謹慎ながら、夜中にふと目が覚めた時など、寝そべりながら拝読している。あるいは外出中だとか、 ちょっとした空き時間など、いつでもどこでも拝読が可能なのである。
わたくしの使っている携帯はけっこうな大容量なので、他にもいろいろ入れてあるが、今現在はおもに御書要文集を閲覧しているわけである。

それにしても要文というのは、ひじょうにありがたいものだと思った。これについては明日にでも書くつもりである。

2007/2/27

踏んだり蹴ったりの日  
昨日は踏んだり蹴ったりの日だった。水無月氏と瑠璃堂氏からコメントを頂戴したわけであるが、わたくしの心境を申し上げれば、頭を刎ねられ・・・死骨を刎ねらる、といった感じである。まあ、それは誇張が過ぎるにせよ、なかなか厳しいものがあるのは事実だ。いずれにしても両者のコメントはいつもながら的確であり、真摯に受け止めるべき内容である。

一過性の指導で終わってしまうと・・・

ご指摘のとおりである。
しかし、こうしてブログに取り上げることで注目されるのだから、顕正会の首脳部だって気にするはずである。普通の人が読み飛ばしてしまうような部分にいわばメスを入れている。それは機関紙を真面目に読んでいない会員に再認識を与えると同時に、購読していない一般人にも正確な情報を提供していることになる。さらに水無月氏からのコメントが力を発揮する。
つまり、首脳部にしても、どうにかしないといけないという気持ちはあるはずなので、こうして周囲から注目をあびれば改善の方向に動かざるを得ないはずなのである。

ゆえに、瑠璃堂氏の指摘するごとく、折伏に際しての注意事項が機関紙に掲載されたことはひとつの進歩なのである。
もしこれで、元の木阿弥になるようならば、ますます顕正会の信用は失墜する、会員にも失望を与えることになるだろう。どうにもこうにも、改善せざるを得ない状況になりつつあるのだ。

それにしても重なる時は、いろいろなことが重なるものである。

2007/02/25-22:55 三遊亭円楽さん、引退を表明=「10割バッターでなくては」と決意
 落語家の三遊亭円楽さん(74)が25日、東京・国立演芸場で落語会「国立名人会」に出演後、引退を表明した。円楽さんは、この日、約45分間にわたり古典落語の名作「芝浜」を上演。「及第点の出来ならともかく、納得できる結果ではなかった。生き恥をさらすのは嫌。わたしたちは10割バッターでなくてはいけない」などと決意の理由を語った。
 円楽さんは、2005年10月、脳梗塞(こうそく)で入院し、昨年5月、1983年から続けてきた日本テレビの人気番組「笑点」を降板。最近はリハビリを続けながら高座に上がっていた。



金総書記、世襲断念か?・韓国メディアが報道
 【ソウル=鈴木壮太郎】韓国の聯合ニュースは25日、中国・北京の外交消息筋の話として、北朝鮮の金正日総書記が子息への権力継承は困難と判断し、集団指導体制に移行する準備を進めていると報じた。
 同ニュースによると、北京の外交消息筋は25日「金総書記は長男の金正男氏を後継者に指名したが、数年前に心変わりし、集団指導体制の導入を準備している」と語った。父子3代の権力世襲は名分がなく、北朝鮮権力層内部にも反対意見があるためで、特に経済再建に失敗した場合の批判を懸念、すでに軍部中心の集団指導体制を試験的に稼働させたという。(07:02)


上は時事ドットコム、下は日経ネットからの引用である。

あんまり説明の必要はないだろう。
少々語弊があるにしても、顕正会の会長はしゃべるのが商売である。実際、浅井先生は弁舌に長けている。事実かどうか知らないが、御遺命守護の戦いでは舌鋒鋭く、創価学会の大幹部を閉口せしめたと言われている。また幹部会員たちは浅井先生の発言を、先生の裂帛の指導・・・などと表現する。
けれども病気であるとか、年齢的な限界も想定し得るであろう、いずれは先生の弁舌にも衰えがやってくる。弁舌だけではない、頭脳の衰えもあるだろう。
さて、先生は引き際を心得て、自らいさぎよく退く時が来るのであろうか? それとも誰かが引導を渡すのか? そもそも先生に引導を渡すことなど可能なのであろうか?

もう一つの北朝鮮の話題も象徴的である。
集団指導体制というのは水無月氏のコメントと符合する。顕正会の批判者たちは、しばしば北朝鮮と顕正会の類似点をあげつらうけれども、このニュース報道が事実なら、北朝鮮のほうが先進的ということになるだろう。顕正会は北朝鮮よりもタチが悪いことになる。

まさに踏んだり蹴ったりの一日だった。

だが、わたくしは希望を捨ててはいない。

逆に、こうした報道が顕正会の改善のきっかけになれば、いいのである。

2007/2/26

無自覚会員減少計画  
 付け入るスキを与えるな

 ただし、顕正会の前進を恐れる池田大作が、今後さらに顕正会の前進を妨害してくることは疑いなく、悪人たちに付け入るスキを与えてはなりません。
 そこに男子部は、いま一重の用心をし、戦いを進めていきたい。
 これまで先生は、悪人に付け入る口実を与えないため、折伏に際しての諸注意をしばしば下さいました。大事なことゆえ、全員でこれを再確認したいと思います。

 一、たとえ親切心であっても、引き止めようとして相手の体に触れてはいけない。これは「暴力を使った」などの口実に利用される。
 二、謗法払いは原則として本人にやらせる。こちらが捨てる場合にも、必ず本人の了承を取ってから行うこと。
 三、認知症の人を入信勤行の対象にはしないこと。その人に信心を勧めお題目を唱えることを勧めるだけでよい。
 四、相手がどうしても入信の決意にいたらぬ場合、余韻を残して次の機会につなげよう。
 五、ゲームセンターなどで折伏対象者を探してはいけない。
 以上、悪人に付け入るスキを与えぬよう充分注意し、堂々そして力強い折伏を進めていこうではありませんか。


水無月氏のコメントにあった幽霊会員という言葉が気に入った。これはおそらく、ひじょうに汎用性の高い言葉であって、そこらじゅうで使われているに違いないが、考えてみればこれほど顕正会によく当てはまる表現もあるまい。俗に幽霊といえば、成仏しないで彷徨っている状態をイメージするところである。顕正会では正しい信心を実践しなければ成仏できないと主張しているわけだから、まさに文字どおりの幽霊会員ばかりを擁しているのが顕正会ということになる。水無月氏のアドバイスどおり、幽霊会員の掘り起こしをするべきだろう。これは単に組織のためというよりも、皆成仏道の意味からして顕正会には重大な責任があるとしなければならない。

わたくしは今まで幽霊会員という表現を使ったことがなかった。別に理由があってのことではなく、ようはボキャブラリーが貧しいからである。
当然ながら、これまでに同趣旨のことは書いている。自覚のない顕正会員・・・これがわりと好みの表現だった。
百万までの戦いでは、自覚のない会員ばかりを増大させてきた。これ以上、無自覚会員を増やしてどうするのか、ゆえに百万以降はどれだけ内部を充実させることができるか、それが最重要課題であろうと思う。

だが、現実はどうか・・・

冒頭は顕正新聞第1059号に載る、浅井男子部長の文章である。一月度の班長会での発言をまとめたものだと思われる。
これはけっこう画期的な指導である。何が画期的かといえば、正直に顕正会の現状を示しているからである。ようはダメな部分をさらけ出している。そして改善しようとの前向きな姿勢があらわれている。これは大いに評価すべきことだと思う。

ようするに、一番目のことは拉致・監禁まがいのことをやっていたことを告白しているわけであるし、次の謗法払いは昨年の十一月末の事件が示すとおりであるし、三番目はこれまでに認知症の人を入信させて問題になったことを明かしているわけである。認知症の人には失礼だかもしれないが、これこそ自覚のない顕正会員となる可能性が大きいわけで、逆に言うと認知症ゆえに御し易い、入信の成果をあげやすいからターゲットにするというイヤラシサが滲み出ているところでもある。さらに四番目の余韻を残すというのは、これまた本人がやる気になっていないにもかかわらず、ムリヤリ入信勤行に突入していくパターンがいかに多いことかを物語っている。ゲームセンター云々は、まさに行きずりの対象者であり、本当に相手を救いたいと思って折伏するのではなく、ただ単に成果をあげることだけが目的化してしまっていることを暴露しているのである。

実に正直ではないか!

こういう書き方をすると、ずいぶんイヤミっぽく感じられるかもしれない。しかし、そのようなつもりは毛頭ない。
わたくしとしてはこれを一過性の指導に終わらせてはいけない、その場限りのポーズだけで済ませてはならない、顕正会全体でこのルールを厳守していくべきであると思っているのである。もしこれで折伏の成果が激減したとしてもそれでいいではないか、デタラメな折伏で数だけ増やしてどうするのか、というのがわたくしの言いたいことなのである。

今回の男子部長の発言は、顕正会の現状をかなり克明にあらわしていると思う。そして現状を打破するための厳しきルールも明確である。これを厳守すれば折伏のペースは落ちるかもしれないが、結果的には組織の立て直しの近道になるはずである。

2007/2/25

居心地のいい空間をめざして  
水無月氏は昨日のコメントにおいて、顕正会の問題を要領よく、まとめて下さっている。

早い話が入会者は使い捨てであると・・・

これはしかし、まだ良心的なコメントであろう。入会者のみならず入信者すべてが使い捨ての対象である、会員は浅井の欲望を満たすための道具に過ぎない・・・などという痛烈な批判もあるのだ。

それにしても潜入とは・・・この人はタダモノではない。はたして創価学会の中にそのようなセクションがあるのか、それとも個人的にそこまでの興味を懐いておられるのか、そこまではわからないが、ともかくすごいことである。逆に言えば、顕正会もまんざら捨てたものじゃない、ということになるだろうか?

大幹部の中に創価学会出身者が存在するかどうか・・・水無月氏はいるわけないとおっしゃる。

存在するか否かで議論してもあまり意味はないので、少し話を発展させてみようと思う。
そもそも大幹部とはどのような定義に基づくものか、それがはっきりしていない。わたくしのつもりでは、いわゆる隊長・区長・支区部長・地区部長以上であるが、そうするとそれだけで百人以上になる。もし、この中に一人も創価学会出身者がいないとすると、これは異常であろう。
仮に一回の折伏法戦で一万人の入信者を数えるとして、はたしてその中に創価学会からの入会者が何人含まれているか・・・ここがはっきりしないと困るのであるが、ともかく千人からの入会者がいたことにしよう。おおむね平均値としてコンスタントに一割程度が創価学会からの入会者であると。
だとすれば、百人の大幹部の中には、十人前後の元創価学会員が含まれていると考えられる。

さて、実際はどうなのであろうか?

残念ながら、わたくしはこの詳細を調べるだけの材料を持ち合わせていないので、ここで話は終わりである。
もし水無月氏の言うごとく、まったくいないのであれば、これはこれで顕正会の構造的欠陥を示すほどの大問題であろうと思う。このことは顕正会の首脳部こそ、よく知るべきである。まずは平成十六年の諫暁書の次の文章を思い出すべきであろう。

私は八百万学会員を救いたい。

顕正会員の生き甲斐というのは、真面目に活動してステイタスが上がっていくことである。おお大げさに言えば、世法上の地位は最低であっても顕正会の中で出世できればシアワセであると・・・全員がそうだとは言い切れないにしても、傾向としてはそれが見て取れると思う。
もう話は見えたであろう。大幹部の中に創価学会からの入会者が一人もいないとすると、暗黙のうちにも学会崩れはダメであるとのレッテルが形成されてしまっている、そういう内部世論が醸成されている、ということが考えられるのである。
もしそうだとすると、完全なる自家撞着である。創価学会員を救いたいと言ったところで、創価学会出身者はシアワセになれない、それが顕正会という組織だからである。すでに書いたごとく、顕正会では組織上の地位が上がっていくことに生き甲斐を求める人が多い、しかるに入会者は地位が上がらないことを決定づけられている。まるで同和問題のごとくではないか?

しかしながら、今日の話は仮定に仮定を重ねた上での推論であることに、ご注意願いたい。

浅井先生にしてもウソで救いたいなどとは書かないだろうし、現場の顕正会員だって同じ気持ちのはずである。
ただし、ここで容易に想像し得ることは、創価学会員が正義に目覚めて顕正会の活動に加わってくる、活動の中でわからないことや疑問に思ったことを先輩幹部に聞く、実はこの質問が幹部にとっては脅威なのである。なぜならば、無宗教だった人が顕正会に入信してくるのとはわけが違って教学上のことをよく知っている、ヘタすれば顕正会の大幹部すら知らないようなことを知っている、それが入会者なのである。そうすると幹部としては、何となく意図的にイジワルな質問をぶつけられているような気分にもなる。ようは煙たい存在なのである。

つまり、こうした事情を勘案すると、ややもすれば創価学会出身者は疎ましい存在であると見られてしまう傾向が、なきにしもあらずなのである。そして、それが長年にわたって積み重なると、気がつかないうちに悪弊となって組織に染みついてしまう。メタボリック同様、蓄積されてしまった悪弊はなかなか解消できない。それが現在の顕正会の姿なのではあるまいか?

もし創価学会員を救いたいのであれば、もっと居心地をよくしないといけないだろう。というよりもそれ以前に、創価学会出身者はダメであるという、無言のレッテルを貼ってしまっていることに気がつかないといけない。
そんなことはない、そんなことはしていない、そこまで言うなら証拠を出せ、などと強弁するのではなく、現実の定着率に鑑みてどうしたら定着させることができるか、それをわかり易く言えば居心地をよくすることなのである。ゆえにどうして居心地が悪いのか、それをよく分析するところからスタートしないといけないだろう。

おそらくは今日のブログに、そのヒントとなることが散りばめられているはずである。

2007/2/24

顕正会崩れの愚癡日記  
水無月さん、如月さん、どうも恐れ入ります。

顕正会への批判、わたくし自身への批判、いずれも歓迎します。まったく遠慮はいりません。ある意味、打たれなければ強くならない、いや、別に強くなりたいわけではありませんが、自分では見えているつもりでも実は見えていないことがたくさんある、こうした時には人から言われて気がつく場合もありますので、人の意見には素直に耳を傾けるべきだと思っております。

以下は独白モードです。

そうそう、水無月氏のコメントを拝して、ウッカリしていたことに気がついた。学会くずれ、というフレーズをすっかり忘れていたのである。
浅井先生はこれを昨年七月の本部会議の席で言った・・・と水無月氏はコメントに残しておられるが、どうもそのような文言は見当たらないようである。あるいは会議の本番中にはそのような発言があったけれども、新聞掲載の段階で消されたということなのだろうか?
いずれにしても、わたくしの記憶では先生は他の場面で何度か、学会崩れ、という表現を使っているはずである。平成十六年の九月か十月の総幹部会では、四悪人ということを言っていた。ところがその後すぐに、一凶三悪に変更された。それはともかく、この悪人の一人に大草氏があげられていて、先生は氏のことを学会崩れであると説明していたように思う。

この「学会くずれ」はブログのネタに書こうと思っていたのである。

わたくしは一昨日、創価学会からの入会者はダメ・・・これほど人を馬鹿にした話はない、という意味のことを書いたけれども、すでにして学会崩れという表現そのものが侮蔑的な気味を感じさせるところだと思う。
先生としては顕正会に敵対している人間を指して学会崩れと言っているわけだから、それが侮蔑表現であったとしても顕正会側としては困らない・・・しかし、厳密には配慮に欠ける発言だかもしれないと思う。なぜならば、顕正会にも創価学会からの入会者が多数いるからである。
もちろん先生は、正義に目覚めたものを学会崩れとは言わないし、思ってもいないはずである。しかし、受け手は必ずしもそうは受け取らないものである。創価学会から顕正会に入会した人の中には、学会崩れという言葉に過剰反応する人がいるかもしれないのだ。ゆえに、そこまで配慮して、この表現は使わないほうがいいのではないかと思う。

それにしても水無月氏は顕正新聞をよくチェックしている。わたくしも同様に感じていることだが、「正義にめざめて」の登壇後がどうも芳しくないのである。やはり顕正会の実態を知るに及んで、失望してしまうケースが多いのだろう。
だが、大幹部として活躍している人が皆無というわけではない、今現在も創価学会出身の大幹部が存在する。ただし、あまり本人はそれを言いたがらない傾向がある。ゆえに知られていないだけであって、実はかつて創価学会員だったという幹部はけっこういるのである。

なぜ、言いたがらないか・・・もしかしたら学会崩れというレッテルが怖いのかもしれない。だとしたら、浅井先生の「学会くずれ」発言は、ほぼ失言に近いということになるだろう。

それから如月氏のコメントであるが、やや抽象的な気味があって、わたくしのような愚鈍には容易に理解しがたい文章である。
どうやら、わたくしにケンカを売っていると誤解されないように、わざとオブラートに包んだような書き方をされたようである。別にケンカを売られても買わない、いや、貧乏だから買えないのであるが、ともかく遠慮なさらずにもっとズケズケと書いてくださってけっこうである。

恐らく日本の一般社会の市民にとって理解する事は容易ではない

具体的にどのような部分が理解されないのか、ちょっとわからないけれども、輪郭的にはまさにそのとおりだと思う。

日本の・・・云々、いわんや世界をやであろう。

2007/2/23

公平を期して  
わたくしは昨日、顕正会の主張する御遺命守護の戦いには構造的な欠陥があって、それはかなり深刻であると書いた。

何が深刻かというと、顕正会は定着率が悪い、そりゃそうであるデタラメな折伏をやって入信報告書の数ばかり増やしたところで信心に目覚めるわけがないのである。そうした中で、創価学会からの入会者はちょっと事情が異なる。いちおうは仏法のことがわかっている。ヘタすれば、顕正会員よりもよほど教学に長けているかもしれないのである。ゆえに彼らが入会してくれば即戦力となって、うまくすれば創価学会員を芋づる式に入会させることができるかもしれないのである。
つまり、創価学会からの入会者はそこらの三毒強盛の素凡夫とはわけが違って、仏法の道理がわかっていて、それで正義に目覚めて顕正会に馳せ参じてくるのだから、いわゆる雪崩現象が起きてもおかしくないのである。ところが実際は、そこまでの動きは見られない。
顕正会では、今にも創価学会が崩壊するかのようなことを言っている、ずいぶん昔から言っているけれども、なかなかそうはならない。
それどころか正義に目覚めて入会してきた、いわば仏法の道理をわきまえているはずの人たちが、やがて顕正会に失望して去っていく現実がある。これは明らかに、デタラメな折伏でムリヤリ入信勤行に持ち込んだパターンとはわけが違うのだ。

ゆえに深刻だというのである。

しかし、昨日も書いたように、全部が全部ではない。創価学会からの入会者で長く活躍している人もいることを忘れてはいけない。公平を期するために、これを強調しておきたいと思う。

顕正新聞第1059号には、一月度の各部班長会の記事が出ている。その中に、不当逮捕と戦って、と題する婦人部員の記事があった。いつの逮捕事件かというと、昨年十一月末に報道された例のお守り切断事件である。
この時、女子部と婦人部から二人ずつ合計四人の逮捕者が出たわけだが、これで全員が各種の集会で登壇し、そしてそれが顕正新聞に掲載されたことになる。
四人とも逮捕くらいでは微動だにしない重厚な信心であることの証明であろう。また、この逮捕をきっかけに、さらに信心を深めることができたと感激を述べている。俗に言う、火に油を注ぐ、といったアンバイであろうか?

ところで今回の記事に出ている婦人部員は、昭和五十五年に創価学会・法華講を経て顕正会に入会したのだという。

思えば入会より二十六年、今までの私は顕正会員とは名ばかりで、いやいや先輩に言われたことをなす信心で、広宣流布を見つめて戦う信心に奮い立つことができませんでした。

この人の役職は組長である。また、こうした記述からしてもそれほど活躍をしてこなかったように思えるが、しかし、現実に逮捕・勾留されているのである。もちろん、顕正会の戦いに連なっていての話である。
つまり、二十六年の間には紆余曲折があったにせよ、今もこうして顕正会員として活躍しているし、今回の事件を契機としてさらに信心を深めることができたことが、顕正新聞の記事から読み取れるのである。

平均すると入会者は、顕正会に失望して去っていくケースが多いように感じられるが、必ずしも全部が全部ではないことを、直近の顕正新聞の記事から紹介した。


さらに付言すると、この人の紹介者は今もなお班長として健在であり、逮捕・勾留中には子供たちの面倒を見てくれたというのである。

これをもってこれを思うに、強ちには定着率が悪いとは言えないのかもしれない。

2007/2/22

御遺命守護の戦いの構造的欠陥  
山田元紀氏は顕正会シンパである。だが、厳密には違う。おそらくは妙信講シンパなのだろう。つまり、かつての妙信講の主張を支持しているのであって、必ずしも現在の顕正会を支持しているわけではない。

昨日はそんなようなことを書いた。

これを特殊な例だと思ってはいけない。例外だと思って他人事のように考えてはいけない。これは正義にめざめて顕正会に馳せ参じてくる創価学会員全般に、当てはまる問題だからである。

折伏理論書改訂版の加筆部分というのは、いわゆる御遺命守護の戦いである。また、平成十六年の諫暁書にも、相当の紙数を費やして御遺命守護の戦いが記されている。それ以前にも、例えば一般書店に並べられた平成二年の諫暁書などは、御遺命守護の戦いそのものである。
これらの書籍を読んで正義にめざめる創価学会員がどのくらいいるか、わたくしにはまったく見当がつかないけれども、ともかく顕正新聞などには「正義にめざめて」と題する記事がコンスタントに掲載されていて、諫暁書を読んで創価学会の間違いに気付いた・・・みたいなことがしばしば書かれている。

しかも顕正会に入会するや、それまで折伏の意欲もなかった学会員が、たちまちに広宣流布の命になる

と浅井先生はいう。

ここまではケッコウである。だが、この先が問題なのだ。

正義に目覚めたはずの人が、どういうわけか、また眠りに入ってしまうのである。
もちろん、これには個人差がある。ゆえに顕正会員になってすぐに眠ってしまう人もいれば、しばらくはめざましい活躍をしていて、やがて力尽きてしまうような人もいるし、なかにはずっと活躍している人もいないわけではない。だが、わたくしの感触としては、続かない人のほうが圧倒的に多いと思う。

この理由について、いわゆるクチコミ指導では、次のようなことが言われていると思う。

創価学会に長くいた人は罪障が深い。命が濁っている。ゆえに素直になれない。創価学会で間違った信心指導を長年受けてきたものだから、顕正会での指導を素直に聞けない。素直に戦いの流れに身を任せることができない。等々・・・

こうした指導はおそらく文書化されていないと思う。はっきり言って、これでは創価学会からの入会者はダメだと言っているのに等しいことになるだろう。これほど人を馬鹿にした話はないに違いない。

ゆえに、このような指導は大っぴらにはされないわけであるが、ともかく正義に目覚めたはずの人がどういうわけか退転してしまうという現実があるので、それに対するもっともらしい理由付けが必要になる。それが罪障が深いだとか長年の間違った指導がどうのこうのという話になるわけである。

創価学会から顕正会へ入ってきた人が途中で挫折してしまう理由は人それぞれであろうが、おそらくは顕正会の実態を知って失望してしまうパターンがいちばん多いのではないかと思う。

山田氏の場合は最初からわかっているから今の顕正会には見向きもしない。
事情を知らない人は顕正会こそが御遺命堅持の唯一の団体であると思って馳せ参じてくる。だが、事情がわかってくるとだんだん失望してきて、ついには退転することになる。
結局のところ、顕正会から遠ざかってしまうわけだから、同じことなのである。

では、いったい顕正会の何に失望するのであろうか?

もちろん失望の種類は人それぞれであろうが、平均すれば昨日書いたごとくであろう。ようするに、妙信講と顕正会は違うのである。本来ならば妙信講の延長線上にあるべき顕正会が、どこかで脱線してしまって今は延長線上におらないのである。
ところが浅井先生はことあるごとに御遺命守護の戦いを宣伝する。いわばそれが先生のウリであるから、当然といえば当然なのであるが、しかし、もはやそれは遠い過去の栄光に過ぎないのである。

御遺命守護の戦いは宗史に燦然と輝くものだかもしれない。だが、それと今日の顕正会とでは、ギャップがあまりにも大きいのだと思う。ゆえに誰もがそのギャップの大きさに落胆せざるを得ない、そういうパターンができてしまっているようなのである。

これはある種のジレンマなのだろう・・・妙信講の偉大さを宣伝すればするほど、顕正会への失望が大きくなるのだ。

この構造的な問題はかなり深刻である。

2007/2/21

顕正会の最大のライバルは妙信講?  
水無月さん、富士川さん、いつもながら恐れ入ります。今日は時事ネタとのコラボをやりますので、引き続きご贔屓をたまわりますよう、よろしくお願い申し上げます。


過日、ウィンドウズの基本ソフトが新発売された。その時のニュースで小耳に挟んだ言葉が面白かった。

Vistaの最大のライバルはWindows XP

ビスタの最大のライバルはXPなのだそうである。
確かにそのとおりだと思った。何しろわたくし自身、それほど購買意欲が起きてこないのである。別に今のままでもさしたる不便はない。というよりも、そもそもが使いこなせていないのである。わたくしの場合は、こうして文章をつづるだけであるから、それほど高性能のパソコンは必要ないのだ。永遠に今の機種でも構わないくらいである。

似たような話はいくらでもあるだろう。
例えば、自動車会社などにありがちな話だと思う。某メーカーの看板車種・・・まあ、ご想像にお任せすることにしよう・・・満を持してフルモデルチェンジした、ところが不評だった、というようなことがあるのだ。おそらくは旧型のイメージが強烈過ぎてそれに負けてしまっているのだろう。
今の安倍首相もまた、けっこう似ているかもしれない。安倍さんの最大のライバルは小泉さんという見方もあるのだ。支持率だの何だの、すぐに小泉前首相を引き合いに出されてしまう。さらに評論家のなかには小泉再登板を予想する人もいるくらいだから、安倍さんもツライところである。
いわゆる純文学の世界では、自作を打破して新境地を拓くことが要求されていて、これがひじょうに困難なことなのである。ゆえに実際のところ、芥川賞を受賞してそれっきりの人も少なくないようである。俗にいう一発屋である。

ウィンドウズの場合、XPの完成度が高く、いわば飽和点に達している意味もあるのだろう。ゆえにビスタの最大のライバルというわけである。

ちなみに、これの言い出しっぺは、当のマイクロソフトの副社長なのだそうである。なかなか冷静な自己分析である。

さて、話は変わるが、次の二文をご覧いただきたい。

三大秘法をねじ曲げてしまっては、日蓮大聖人の仏法ではありません。
「無作三身」が「有作三身」の創価学会になってしまっている。
その証拠に、ことさらに、戒壇を矮小化する、板曼荼羅をも矮小化する、これ、破戒とも言うべきかも知れません。



顕正会に完全に洗脳されているね、答えるのもわずらわしいよ。
狂気に洗脳された姿をそうやってさらけ出せばいい。あなたのくだらない理屈をだらだらという姿を見て、ああ、顕正会は怖い団体だと思う人が一人でもいれば、あなたの発言も価値あるものといえますからね。


山田元紀氏と深道険山氏のやりとりである。

上掲は両氏の膨大な応酬の中から、わたくしが勝手に取り出したものであって、二つの文章は正確には対応していない、そこをご承知ねがいたい。

細かいことは一切省くことにしよう。
一読すれば、顕正会員と創価学会員の議論だと、誰もが思ってしまうに違いない。けれども、実はそうではないのだ。深道氏が創価学会員であることは誰もが知るところであるが、一方の山田氏は顕正会員ではないのである。
なんだか、ずいぶん不思議なやりとりではないだろうか?
山田氏は、顕正会に完全に洗脳されているね、とまで言われてしまっているのである。ところが顕正会員ではないのだ。いったい、どういうことなのだろうか?

わたくしは思う。インターネットに親しむ人であれば、顕正会の実態を知らないはずはないのである。おそらく山田氏もよく知っているのだと思う。
もし顕正会を全面的に信頼するならば、いわゆる「正義にめざめて」そして「正しき師匠・正しき団体に馳せ参ずる」べきなのである。しかし、山田氏はそうはしないのである。なぜならば、それは顕正会がダメな組織であることを、イヤというほどよく知っているからではあるまいか?

つまり、山田元紀氏はかつての妙信講に正義を見出しているのであって、現在の顕正会に正義はないと思っている・・・いや、それは言い過ぎにしても、すでに今の顕正会はかつての妙信講ではない、すっかり異質化してしまっていると、おそらくはそう感じておられるのだろう。

はたして顕正会の中枢には、自己分析のできる人がいるのだろうか?

2007/2/20

トイダは大ウソツキだ!  
ただ、「顕正会作戦」なぞ、浅井会長の妄想以外の何モノでもありません。言い出しは浅井氏なのですから、万一の際の立証責任は浅井氏にあります。

水無月氏のコメントであるが、はたして浅井先生の妄想なのかどうか、そこは不明にしても、立証責任云々はまさにそのとおりだと思う。ゆえに創価学会側の態度が注目されるのである。法的手段にでも打って出れば面白い。是非とも実現してほしい。

顕正新聞第1058号の三面大見出しには、

顕正会弾圧は池田大作の恐怖心から
曽ては「法主」を使い、今は公安を動かす


とあり、さらに文中には次のごとくある。

 私は言いたい。
 もし池田大作に確信があるならば、法論対決によって正邪を決したらどうか。このような手の込んだ謀略をする必要はないではないか。
 国立戒壇が間違いで、正本堂こそ御遺命の戒壇だという確信があるならば、私と堂々と法論したらいいではないか。
 彼は、私の法論申し入れを三度にわたって逃げている。法論対決ができないからこそ、卑劣な讒言で公権力を動かすのであります。


わたくしは上で、創価学会が法的手段を取れば面白い、ぜひ実現してほしい、と書いた。これはこれで創価学会側の奮起を期待したいところであるが、それとは別に、池田氏の奮起も期待したいと思う。
法的手段というのは世法上の対決である。いわゆる法論は、まさしく仏法上の対決である。やはり世法レベルよりも仏法レベルの対決こそ本意とするべきところで、浅井先生の発言もそこに主眼があると考えられるのである。

先年、浅井先生は日顕上人へ対決を申し入れた。しかし、実現を見なかった。顕正会側の言い分としては、阿部日顕は逃げた、しまいには猊座からも逃げ出した、などと主張しているわけであるが、一方では実現不能を見越してのパフォーマンスであるとの見方もある。
わたくしはどちらが本当とも判断がつかないが、ヤジウマ根性的には見てみたかったと思っている。猊下との法論は無理にしても大草氏との法論なら実現可能であろうから、浅井先生としては不満であろうけれども、そこは辛抱してでも実現すべきところだと思う。

同じくヤジウマ根性として、顕正会と創価学会とのトップ法論を見てみたい、これは誰もが思うところではないだろうか?

いったい何の障壁があるかといえば、おそらくは池田氏が乗り気ではないのだろう、さしあたっては他に理由が見当たらないのである。
わたくしは池田氏の気分というか、気持ちがわかるような気がする。逆に言うと、浅井先生が大草氏との法論を回避する気持ちもわかるのである。両者の心情には共通するところがある。早い話、追う立場と追われる立場の違いである。

ところで最近、法華講の樋田氏と創価学会の沖浦氏との間で法論が行なわれるとか行なわれないとか、なんだか知らないが掲示板にはそのような話が出ているけれども、一向に進展しないようである。

掲示板でのやりとりではラチが明かないので、では対面法論をしようではないか、ということだったはずである。ところが法論実現のための条件提示の段階から、一向に話が煮詰まらない。沖浦氏に言わせれば、「トイダ」が逃げているのだそうである。しかし、これまでの法論の実績からして、樋田氏が逃げることは考え難いのであるが、違うのだろうか?
沖浦氏のほうでグダグダと話を引き延ばしている、そういうふうに見えなくもないのであるが、それはわたくしの見間違いであろうか?

ヤジウマ根性としては、ともかく早く法論を実現して、インターネット上に公開してほしいものである。

繰り返しになるが、樋田氏が法論を回避するとは思えない。
埼玉対決の時だったと思う。氏は全国の創価学会会館に法論の申し込みをしたのだという。それに応じたのは、たったの一人だけだった。それが埼玉対決となったわけだが、それ以降、どうやら樋田氏と法論をしようという創価学会員はあらわれないようである。
ようは一連の樋田ビデオを視聴して、勝ち目がないと判断しているのだろう。

逆に、樋田氏のほうは法論したくてウズウズしている、しかし相手があらわれない、それで仕方なく掲示板上での破折シリーズに精を出している様子なのである。

ここまでの文章を読めば、どちらかといえば法華講側に肩入れしているように感じられることだろう。しかし、この際だから樋田氏にも文句を言っておこう、氏は大ウソツキである。

なぜならば、氏のサイトを見るがいい、いったい何年待たせるつもりだろうか?

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顕正会邪義粉砕DVD第二弾。


もう一年以上、このままの状態なのである。

2007/2/19

ババを引いたのは誰か?  
富士川氏のコメントは顕正会の恥部を暴く可能性を秘めた・・・いわば意味深な内容である。

わたくし自身は裏事情に疎く、氏が何を言わんとしているのか、容易には見えてこないのであるが、話を振り出しに戻して考えてみると、そもそも何故にあの地を顕正会の本部に選んだのか、そこから見ていかないといけないようである。

本部の土地をあそこに決めた、たまたま隣接地に空きの建物があった、ゆえに青年会館として使用することにした。
あるいは逆に青年会館を借りることにした、たまたま隣接地に土地が空いていた、ゆえに本部会館を建てるために購入した。
どちらが本当であろうか?
それとも、どちらも間違いなのか?
だとすると他にはどのようなことが想定できるであろうか?

わたくしの思うに、どうして青年会館を購入できなかったのか、それが疑問である。賃借関係よりも遥かに自由が利くはずである。金がないわけでもあるまい。

ここで富士川氏のコメントを踏まえると、顕正会はずいぶん損な取引を強いられているように感じられるのである。
結婚式場の閉鎖は老朽化もさることながら、おそらくは採算の問題もあるだろう。ようは商売なのだから儲からなければ意味がない。もし儲かっていたのであれば、建て替えてでも商売を継続するに違いないのである。
バブル崩壊後、土地の値段は下落する一方だった。オーナーの立場で考えれば、この時期に土地を手放すのは損である。さりとて結婚式場を続けるのもシンドイ。また、転用するにしても、他に適当な商売が見当たらない。テナントを募集したところで、借り手もなかなか見つからない。
こういう時は諦めて、マンション業者にでも売ってしまうのが普通ではないかと思う。実際ところ、わたくしの住む地域では、店舗がいつの間にかマンションに変貌しているパターンが多いのである。

しかし、好都合なことには、誰も見向きもしない老朽化の建物を顕正会が借りてくれるというのである。そうこうしている内に、地価が上昇傾向に転じた。ここで顕正会は突如として青年会館を閉鎖する。

ババをつかまされる、という言葉があるが、どうも顕正会はそんな感じである。
新青年会館の着工がいつになるか知らないが、その前には仮設住宅ならぬ仮設茶寮を設けないといけない。これは二度手間というヤツである。こうなるくらいなら、少なくとも閉鎖する以前に仮設茶寮を・・・ああ、そうか耐震強度の診断が出てからの決断だから、急な話だったわけか・・・
しかし、第二青年会館だって、本当はもっと早くに建設していればよかったのである。それがどういうわけか遅れてしまった。それで歯車が狂ってしまったようなアンバイである。
なんだか知らないが、うまく行かないものである。これも魔の働きであろうか?

この話はこれくらいにしておこう。

ええと、水無月氏からもコメントが寄せられている。
いわく、妙信講解散処分時の実勢は少なくとも半分であると。
すると六千ということになるが・・・
しかし、ちょっと甘い評価というか、過大評価だと思われる。おそらくは、三千人くらいが妥当ではないだろうか?

別に確かな根拠があるわけではない。ただ六千は多い感じがするだけである。

一つ言えることは、妙信講は今の顕正会と違って、個々のレベルがべらぼうに高かった。まさしく一騎当千のツワモノが打ち揃っていた。ゆえに創価学会にとっては脅威ないし驚異だったのだろう。


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