2007/3/31

法水写瓶における総別  
何も足さない、何も引かない・・・

これはかつてウィスキーの宣伝文句として一世を風靡したセリフであるが、まさに法水写瓶を考える上で好都合の言葉だと思う。

一器の水を一器に移すということは、一見すると量的な意味に思われる。しかし、それは間違いだ。いわゆる無量なのである。
ゆえに法水写瓶は質的な意味である。何も足さず、何も引かず、同質のものを伝えていく。それが大聖人よりの清浄の法水をそのまま伝えることなのである。

日蓮正宗ではこの法水写瓶を、日興上人の御徳を表現する言葉として使用しているが、広義には全人類に当てはまることだと思う。
イメージとしては、大器(大聖人)より小器(全人類)に分々に応じて法水が潅がれる、大器は如意宝珠なるがゆえに小器がいくつあっても困らない、無量無辺広大深遠とはこのことである。

しかし、これは間違いだと思う。

一器(大聖人)より一器(一信徒)に全分の法水が潅がれる、これが正解であろう。
例えば子供が七人いて、全員に同じだけの財産を相続する場合、七等分しなければならない。ようするに七分の一ずつしか受け取ることができない。これが世間の常識である。
ところが仏法では全員が七分の七ずつ受け取ることができるのだ。これが如意宝珠の意味である。

我等具縛の凡夫忽ちに教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全体うけとる故なり。経に云はく「如我等無異」等云云。法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり。

日妙聖人御書であるが、この御文の直前にも如意宝珠のことが出てくるので確認されたい。

しかし、こうして見ると、唯授一人の血脈相承が意味をなさないように感じるかもしれない。何しろ如我等無異なのだから・・・

ここで写瓶の説明をネット上の大辞林から引いてみよう。

〔仏〕〔瓶(びん)の水を他の瓶にうつしかえる意〕仏教の奥義を師から弟子にもれなく伝えること。写瓶相承。

現実問題として、日妙聖人はそれほど御法門に詳しい人ではなかった、権実相対すらよく理解していなかったと言われている。では、なぜに大聖人は上掲のごとくに仰せられるかといえば、これは申すまでもなく信心の血脈の上からの御教示なのである。
例えば最蓮房は大聖人にお会いしてより、わずかの期間で潅頂を受けている。これは最蓮房が教学に堪能で、法門の領解が存外に早く進んだからだと思われる。しかし、それは唯授一人の血脈ではなく、あくまで信心の血脈である。
してみると、もしかしたら法門の領解とは関係なく、大聖人より潅頂を受けた者が他にもいたかもしれない。日妙聖人が、阿仏房が、千日尼が・・・

日妙聖人への大絶賛の御指南を拝するならば、じゅうぶん考えられることだと思う。

広義における法水写瓶は法門の領解・練達に左右されない。逆に狭義におけるそれは左右される。
日興上人は大聖人の御法門をすべて学びつくし、最後にいわゆる内証法門を授かったのだろう、それが唯授一人ということである。われわれの場合は何一つ満足には法門がわかっていない、いわんや内証法門を授かるどころの話ではない。しかしながら大聖人は大慈悲を垂れたまい、全瓶を潅いで下さるのである。

ただし、広狭の差はあれ、次の御文は誰もが心して拝するべきであろう。

器に四つの失あり。一には覆と申してうつぶけるなり。又はくつがへす、又は蓋をおほふなり。二には漏と申して水もるなり。三には汙と申してけがれたるなり。水浄けれども糞の入りたる器の水をば用ふる事なし。四には雑なり。飯に或は糞、或は石、或は沙、或は土なんど雑へぬれば人食らふ事なし。

秋元御書である。飲み物をわざわざ汚れたコップに入れて飲む人はいないだろう。大聖人もまた、われわれの信心が不純であれば、そこには潅いで下さらないのである。
まれに猊下の醜聞を耳にすることがある、あるいは資質を問うような文章も目にする、まさに器が問われているのだろう、猊下ともあろう立場であればそのような厳しい眼差しがそそがれて当然ではある。
だが、わたくしは思う。自分はどうなのかと。はたして大聖人の御頷きをたまわれる完器なのかと。

大聖人に、この者は汚れている、穴が開いている、などと思われてしまったら一巻の終わりである。

2007/3/30

疲労困憊ブログ  
今朝は昨日にもまして「お早い独白」である。それはともかく、お暇庵氏より訂正のコメントが入った。ここには一々の文言を挙げないが、どうやら単なる勘違いのようである。しかし、普通の人なら当体蓮華抄などという御書は名前すら知らないだろうから、これにて氏がタダモノではないことが、よりいっそうクローズアップされた格好である。ましてや朝の出掛けのわずかの時間にコメントを入れていらっしゃるというのである、内容からして常人のなせるワザではないことは明らかだ。

またしても難解なコメントが寄せられた。今度は如月氏であるが、つくづくモッタイナイことだと思う。ともかく難し過ぎて手も足も出ない、困ったものだ。

そうした中で、総在一念抄のことが出ていたので、氏のコメントとは別のテーマになると思うが、書いておきたい。

若し爾らば本迹は只久近の異なりにして其の法体全く異ならず。是を以て天台釈して云はく「本迹なりと雖も不思議一なり」云云。

この天台の釈の扱いがひじょうに難しいのである。
一致派・勝劣派という分類がある。大雑把にいえば身延派がいわゆる一致派で、日蓮正宗が勝劣派になるのだと思う。
この御書はどちらかといえば一致派に都合がよくて、勝劣派には都合が悪い。ゆえに真偽を論ずるとすれば、おそらくは勝劣派が偽書説を主張するのではないかと思われる。全集に未収録であることも、あるいはそのような理由からだったかもしれない。
ところが平成新編ではこれを収録したのである。昨日触れた当体蓮華抄をはじめとして真偽未決扱いになっている御書も少なくないし、はっきり偽書と断定されてしまった御書もある。そうした中で総在一念抄が収録されたということは、現今の大石寺ではこれを真書としていることになる。
創価学会員の如月氏もまた、これを真書としているごとくである。

さて、そうすると、上掲の御文を踏まえた上で、一致・勝劣の問題をどのように捌くのであろうか? ぜひともご教示をたまわりたいものである。


しかし、どういうわけか、このところのわたくしは疲労困憊している。あるいは次々に難解なコメントが寄せられるので、それが大きなプレッシャーになっているのかもしれない。そういうわけで、書きたいことはいろいろあるのだが、考えがよくまとまらないのである。ゆえに今日は、今後の展望をかねて、話の輪郭だけをダラダラとつづっておくことにしよう。

十日前に法水写瓶の話を開始した。これは法華講員と創価学会員の掲示板でのやりとりに触発されて、自分なりの考えを書いてみたいと思ったからである。実はほぼ同時期に、開眼のことが話題になっていた。おそらくはこちらのテーマのほうがより深刻なのだろう、ようするに開眼されていないものはニセ本尊であると法華講員が言う、何を言うかと創価学会員が反論する、双方いずれも譲らない、いや、絶対に譲れないところなのだろう、ゆえにいつまで経っても埒が明かないわけである。
わたくしもこの問題にクビを突っ込みたくなってきた。法水写瓶の話の次にでも書こうと予定していた。
開眼そのものは法主の専権事項なのだそうである。だったらクビを突っ込むべきではない。わたくしは言いたい放題、書きたい放題のようでいて、それなりに己れのブンザイをわきまえているつもりなのである。しかしながら、法華講員と創価学会員の議論を見ていると、何をやっておるものかという気持ちにもなる。もし法主の専権事項であるならば、それで議論は打ち切りなのである。ところが法華講員も多少なりとも教学に自信のある人は、いろいろと御書を引用したりしてウンチクを傾けているのである。だったらわたくしも何か書いてもいいだろう、というような気持ちになってきたのだった。

でも、やっぱり開眼はやめておいたほうが無難かもしれない、それこそ大怪我の元だから・・・

とりあえず、法水写瓶の話がまだ中途半端な感じがしているので、明日はきっとそれを書くであろう。



平成二十二年十二月三日追記:誤字を訂正した。

2007/3/29

羨望と嫉妬  
インスパイア?

う〜ん、意味がわからん。ネット辞書によれば、「思想・感情を吹き込むこと。鼓吹。」などと書かれている。しかし、お暇庵氏のコメントは、その文脈からして異なることを言わんとしているように感じられるのである。まあ、これはひとまず保留にしておこう。
それにしても難解なコメントである。専門家同士ならば話がよく通じるのかもしれないが、シロウト相手には通じない話である。
また、つくづく思うことは、拙ブログのコメント欄に埋没させるのはひじょうにモッタイナイ、ご自分でサイトを立ち上げて発表されたほうが世のため人のために有益なのではないか、ということである。

文中、一箇所だけ疑問に思ったところがある。一箇所ということは、他にはまったく疑問がないという意味ではなく、ほとんど理解できていないので疑問すら生じない、そういう意味である。
さて、その疑問の箇所であるが、当体蓮華抄云々のくだりである。平成新編ではこれを、真偽未決書として収録していない。ゆえにお暇庵氏がそれを挙げておられることに違和感を覚えたのである。
おそらく真偽未決ということは、大石寺の中でも意見が分かれていて真書とも偽書とも決しかねたわけであろう。つまり、真書だと主張する人もいるのだろうし、偽書とする人もいるのだと思われる。わたくしには判断能力がないので、さしあたっては平成新編収録の御書を真書と拝している。逆に言うと、未収録の御書はアヤシイと思ってしまっているわけである。
ところがお暇庵氏はこれを、どうやら真書と拝しているようなのである。いったいその根拠はどのようなものであろうか、ということをお聞きしたいところである。

それ以外は難し過ぎて対応できない、それが現在のわたくしの実力である。


如月氏より、詰問(?)があった。

回答を申し上げる。揶揄ではない。わたくしとしては尊敬の念こそあれども、揶揄などという気持ちは毛頭ないつもりだった。
しかしながら、尊敬などと書くと、歯の浮くお世辞にしか聞こえないかもしれない。これでは心証を悪くする一方だかもしれないので、もう少し正直なことを書いておきたい。

わたくしは氏に対して、羨望ないし嫉妬のような気持ちが多少なりともある、これが正直なところだ。

例えば、スポーツの世界ではベテラン選手にとって若手は脅威なのである。若手がどんどん伸びてくる、やがては抜かされる時が来る、ひとたび抜かされてしまったならば、ほとんど挽回することは不可能なのだ。これはスポーツだけの話ではない。ありとあらゆることに通じる話である。
もちろん、わたくしは独白の世界に浸っているのであって、必ずしも同じ土俵に上がって戦っているわけではない。ゆえに若手の台頭を脅威だのなんだのと考えるのは、おかしなことだとは思う。あるいはこれが勝ち負けに執着する顕正会員の悲しきサガなのだろうか?

ともかくわたくしには、いたずらに馬齢を重ねてきたという、慙愧の念がある。だから若い人を羨ましく思ったり、嫉視したりもするのである。

まあ、しかし、実際にはけっこう同じような心境の人もいることだろう、むしろこれが原動力となって、前進できればいいのである。ところが世の中には、八つ当たり的に若い人をいじめてしまうような人もいる。これはいけないことである。わたくしの場合はそこまで悪い人間ではない、と自分では思っているのだが・・・

今日はここまで。

・・・というか、今日は何にも書いてないじゃないか?

2007/3/28

法水写瓶と受職潅頂  
富士川氏が守備範囲の広い人であることは承知していたが、古神道が飛び出したことにはビックリ仰天である。わたくしにとっては、まったくわけがわからない世界であり、どのように応じてよいものか、さっぱりわからない。だが、経王殿御返事の一節については、あるいは近日中に触れることになるかもしれない。
それから如月氏のコメントを拝見して、案外に若者だったので、これまた驚いた。ずいぶんと物知りであるし、李白の詩が出てきたと思ったら、今度は何やら昔のテレビがどうのこうの、それから松本佐一郎とか荒木清勇とか、おそらくは稀覯本であろうものを、次々と読破しておられる。
そういうわけで、瑠璃堂氏からは興奮して眠れないとの苦情(?)が寄せられたけれども、わたくしもまた大興奮である。

ああ、今また富士川氏からコメントが入った。日亨上人は御隠尊と呼ばれるのを嫌って、周囲の者に「おじいさん」と呼ぶように言い付けたのだそうである。しかし、実際にはどのように呼ばれていたのだろう、まさかオジイサンとは呼べないだろう、たとえ本人の希望だとしても・・・

さて、昨日の文章であるが、タイトルと本文とが一致していないように感じた人がいたかもしれない。普通なら、タイトルに潅頂とあるわけだから、本文中に潅頂という言葉が出てきてもおかしくないのだが、まったく書かれていないのである。いったい作者は何を考えてタイトルを付けているのだろうか?

http://diary.jp.aol.com/ganko/687.html#comment

実は一週間ほど前のお暇庵氏のコメントに、潅頂という言葉が出てくるのである。そしてこれは、一般の辞書にも出ているくらいだから、案外にメジャーな言葉だということになる。ネット辞書で調べると・・・あれ? おかしいなあ? 出てこないぞ?

よくわからないが、潅頂ではなく灌頂で検索すると出てくる。どうも納得がいかない。

実は平成新編御書検索で調べると、潅頂は二箇所しかヒットしない。しかも一つは潅頂王という王の名前のようであるから別のことだとすると、一箇所しか存在しないことになる。そんなはずはない。そこらじゅうにあるわけではないが、それなりの頻度で御書に出ているはずなのである。
そこで灌頂に切り替えて検索してみる。すると十八件のヒットがある。ようは字体の問題だったのだ。わたくしの所持する平成新編の第二刷では、間違いなく潅頂である。それをなぜに御書検索では灌頂としているのか不明であるが、ともかく話を先に進めよう。

潅頂は一般の辞書にも出てくるほどメジャーな言葉であり、また、御書中にもそこそこの頻度で出現する。しかし、大聖人は潅頂を、全般的にはあまりいい意味で使用されていない。ようするに真言宗における潅頂を批判する意図で、取り上げている場合が多いのである。
では、潅頂は否定されるべきことなのかと言えば、けっしてそうではない。有名な御文としては次の最蓮房御返事がある。

何となくとも貴辺に去ぬる二月の比より大事の法門を教へ奉りぬ。結句は卯月八日の夜半寅の時に妙法の本円戒を以て受職潅頂せしめ奉る者なり。

また、このすぐ直後にあらわされた得受職人功徳法門抄にも、注目すべき御文がある。

釈迦既に妙法の智水を以て、日蓮の頂に潅ぎて面授口決せしめ給へり。日蓮又日浄に受職せしむ。

ようするに、受戒と潅頂はほぼ同義・・・厳密には違うのかもしれないが、まあ、類義語の範疇には入るのだろうと思う。それで昨日のタイトルに付けたわけである。

ところでこの日浄は最蓮房のことだとされている。そして一説によると、この最蓮房は日興上人なのだという。これはひじょうに面白い説である。
どうしてかというと、先にわたくしは、大聖人は全般的に潅頂をいい意味で使っていない、と書いた。おそらく肯定引用としては、この最蓮房関連だけではないかと思う。つまり、最蓮房の正体が日興上人だとすると、まさに唯授一人のきわめて有力な証拠になるかもしれないのである。

しかし、一般的には最蓮房=日興上人の説は、あまり人気がないようである。そこで日興上人と最蓮房は別人と考えてみる。すると、どうなるか?

写瓶と潅頂はセットであると、お暇庵氏は言っておられる。わたくしもそうだろうと思う。
そうすると、法水写瓶は必ずしも唯授一人ではないことになるのだ。
しかし、だからといって大石寺が困ることはないだろう。おそらくは狭義と広義の違いがあるのだと思う。つまり、広義においては全人類が法水の潅頂を受けることができる。わたくしの思うに、ここでも一器の水を一器に移すがごとくは変わらない、大聖人はすべての人に等しく大聖人が御持ちの全瓶を潅いで下さるのである。

http://diary.jp.aol.com/ganko/690.html

ここに書いたごとく、別しては歴代上人に法水写瓶されていく、だが、総じていえば、全人類に写瓶せられていく、それはあたかも如意宝珠のごとくである。

2007/3/27

潅頂ということ  
日々更に決意氏より質問のようなコメントを頂戴した。その件に関しましては、ご想像にお任せ致します・・・これがわたくしの回答である。ずいぶんブッキラボウであるが、これが当ブログの伝統(?)なので、ご了解願いたい。

わたくしは当ブログにおいて、個人情報に関することはいっさい書かないようにしている。その理由はいくつかあるのだが、最大の理由はわたくしの正体が顕正会にバレてしまうことを恐れるゆえである。しかしながら、長い間にはついウッカリと、書いてはならないことを書いてしまっているかもしれない。この先にしても、何かしらヤバイことを書いてしまうかもしれないのだ。

ゆえに饒舌にならないように、気をつけながら書いている。ある意味、そのスリルがわたくしの原動力なのかもしれないと思う。

さて、お暇庵先生・・・いや、これはお叱りを受けたので使わないことにするが、さりとてお暇庵氏と呼ぶのもどうかと思う。ひじょうに困ったものである。
確かに先生という響きには、揶揄というか軽侮のようなものが含まれている場合が少なくない。その意味では使わないのが得策かもしれない。ただし、言い訳を書いておくと、明らかに軽侮の表現として使うのであれば、センセーと表記することになるだろう。その代表的な事例は「浅井センセー」である。批判サイトには必ずと言っていいほど、この表記が使われている。とても尊敬の念がこもっているようには思えない。
そういうわけで、わたくしが先生と申し上げるのは、先生だけである。だれかれ構わず先生と呼ぶわけではない。

ところで、先生と呼ばれる側の心理を観察してみると、これがまたひじょうに複雑である。
先生と呼ばれることを積極的に嫌う人がいる。別に呼びたい人は呼んでもいいし、呼びたくない人は呼ばなくてもいい、別にどっちでもいいという、いわば中間派がいる。また、積極的に呼ばせようとする人もいる・・・自分のことを先生と呼ばないのは怪しからん、ということらしい。

イエスの方舟というのがあった。よくは知らないが、この教祖は先生と呼ばれるのを嫌う人だったらしい。先生だけでなく、その他もろもろの尊敬表現を信者に使わせなかった。では、どのように呼ばれていたかというと、信者は彼のことを「おっちゃん」と呼んでいたのだそうである。

どうだろう、浅井先生に彼のツメの垢を煎じて飲ませるべきなのだろうか?

ちなみにわたくしは、浅井先生の批判をたくさん書いているが、浅井センセーと表記したことはただの一度もない。おそらく今後もないだろう。なんだかんだ言っても先生なのである。

さて、

私が「日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給ひぬ。」に触発されたのは、色々書きましたが、この頭(こうべ)の大事に頭頂孔を示しまして、本宗の授戒を何故に頭に作法するかという事を書きたかったからです。つまり頭頂孔から仏種(戒体・法体)を心田に下す大事を厳虎さんからのレスポンスとして期待したのですが、残念でした(ははは)、長くなりました、本日は此処まで。

ああ、やっぱり先生だ、この人は・・・

これで終わりにしてもいいのだが、比較的新しい顕正会員には何がなんだかさっぱりわからないだろうから、もう少しだけ書いておきたい。

正直、ウッカリしていた・・・というよりも顕正会員のわたくしに期待するのが間違いなのだと開き直っておこう。
入信勤行と御受戒の、根本的な相違をご教示なのである。顕正会員は御受戒を知らない。それはわたくしにしても同じことである。
入信勤行と御受戒は単に名称が異なるだけで、意味合いは同じである・・・などと思ったら大間違いである。その儀式の内容からして異なるわけだが、いわゆる儀式というのは化儀と呼ばれる次元のことであるから、多少の相違は致し方ない・・・などと思うのもまた大間違いである。お暇庵氏は御受戒を大聖人の御金言に基づいて論じておられる、つまりは純然たる化法に属することだとおっしゃっているのである。
詮ずるところ、顕正会員の頭には大聖人の御魂が宿らない、という痛烈な破折なのであろう。

なお、富士大石寺へ帰ろう掲示板に、次の文章がある。

その後私は、日蓮正宗に入るために必要なことの説明を受けて、願書に記入し、署名・捺印した。
そして、妙観講本部に程近い日蓮正宗寺院に向かい、御住職の御導師の下、御受戒を受けた。
読経・唱題の後、御宝前に呼ばれ、御住職から御本尊様を頭頂に当てて戴いて、戒文を受けた。
(一切の謗法を捨てて、正法を保つかどうかを問う三ヵ条の戒文で、御住職の戒文を聞いて、大変厳粛な気持ちになった。今は戒文は暗唱してしまったが、ここには書かない。日蓮正宗未入信の方は、将来必ず実体験すると思うので、その時に御自身の耳で聴いていただきたいと思う。私は今でも時々、その時頭に戴いた御本尊様の感触を思い出す)
私はこうして、理境坊信徒・法華講妙観講支部の一員となった。


顕正会員にも御受戒の様子がいくらか想像できると思う。かく言うわたくしも、こうして情報を収集しているのである。

2007/3/26

連想ゲーム  
イトマゴイという言葉をご存知だろうか?

お暇庵氏より、お暇乞いのようなコメントを頂戴したのはほんの数日前・・・それがなんと昨日、再びコメントをいただくことができた。
ウヌボレを承知で言えば、わたくしもどうやら氏のメガネに叶うような水準になりつつあるのかもしれない。しかし、氏のコメントを拝見すれば、その差は歴然である。おそらくは師匠と弟子の関係くらいに考えるべきなのだろう。今後はお暇庵先生とお呼びしたいと思う。

先生は五行について書いておられる。

ちなみに五行道では、世界の根源要素を木・火・土・金・水と分けそれぞれ肝臓・心臓・脾臓・肺臓・腎臓と配当し、魂・神・意(智慧)・魄・志の心が宿るとしています。

そして文末には、西洋学問に染まった現代人にはおいそれと理解の進まぬことである、との意味を書いておられるが、わたくしはそれ以前に、大聖人の用語例からして理解ができかねているのである。
まず、わたくしは昨日、魂魄という言葉を使った。これは申すまでもなく、開目抄に出てくる言葉なのである。はたして大聖人は五行に則った意味で魂魄と仰せられたのであろうか?
また、昨日は乙御前御消息と高橋入道殿御返事を引用したわけだが、今一度、再掲させていただくと、

日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給ひぬ。

日本国の王となる人は天照太神の御魂の入りかわらせ給ふ王なり。

とある。ここからさらに連想ゲームを続けると、

此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず。只偏に釈迦如来の御神我が身に入りかわせ給ひけるにや。

との撰時抄の御文が出てくる。これは顕正会員でも真面目に先生の・・・ええと、ここでの先生は浅井先生であるが、先生の指導をちゃんと聞いている人なら記憶にあるかもしれない。これは昨年の御大会式において引用された一節なのである。
ちなみに、撰時抄では御神を「みたましい」と読むのであるが、どういうわけか法蓮抄では「みたま」とルビが振ってある(御文の引用は省略する)。
それにしても、この四つの御書がいずれも建治元年であることには、不思議な符合を感じる。大聖人におけるマイブームであろうか?

ともかく順番に示すと、御神(みたま)、御神(みたましい)、御魂、頭、となる。

高橋入道殿御返事の御魂にはルビがないので、「みたま」なのか「みたましい」なのかは不明であるが、それはさておき法蓮抄・撰時抄との違い・・・すなわち神と魂との違いに注目しないといけない。あるいは魂魄ということも、わたくしはそのままワンセットで魂魄と考えていたが、厳密には魂と魄に分かれるもののようである。
つまり、五行の上からすれば、神と魂と魄を別々に考えないといけないことになる。
はたして大聖人がそこまで考えられて御表現あそばしておられるのかというと、どうもそうではないように感じられてならないのである。

いや、これは何もお暇庵先生に楯突いているわけではなく、ひじょうに素朴な疑問なのである。


それからこれは少し話が変わるが、連想ゲームのついでに申し上げると、観心と肝心がわからない。同音なので何となく同じような意味に捉えてしまっているけれども、はたして同じことなのか、それともまったく別のことなのか、それがよくわからないのである。
本門寿量品の肝心・・・ここでの肝心は肝要という言葉にも言い換えられると思う。俗にもカンジンカナメといった表現がある。これは一番大事なところを意味するわけであろう。

では観心はどうか?

教相・観心という、たてわけがある。教観相対とか教観不二というのも、教相と観心の関係をどのように捉えるかを示したものなのだろう。わたくしは・・・というか、おそらく日蓮正宗系統では教相・観心を、文上・文底の意味で捉えているのではないかと思う。

しかしこれは、ひょっとしたら本門寿量品の肝心・文底秘沈の大法・・・この連想からくるのではなかろうか?

確か日寛上人の御指南にあったと思うが、肝心ないし肝要というのは文底の異名であると・・・その上で、教相・観心がもし文上・文底であるとしたら・・・ここで観心と肝心は合体することになる。

わたくしはこれまで何となく雰囲気的に観心を捉えてきた。けれどもこのことは、もっとよく考えてみなければならないようだ。

2007/3/25

左京日教の再誕?  
興味深いコメントを頂戴した。

大聖人の血液型はAB型なのだそうである。そんなことまで研究している人がいるとは驚きであるが、はたしてどのようにして調べたのか、そこが知りたいところである。
さしあたって血液型が問題になるのは、輸血などの緊急の場合だとか、いわゆる認知の時くらいではなかろうか?
それからもっと身近なところでは、血液型による性格診断とか占いのようなことがあって、これが案外に根強いというか、日常生活でもしばしば、アイツは○○型だからどうだのこうだのといった会話がなされたり、雑誌などには必ずと言っていいほど占いが載っていて、その占いの種類はいろいろあるわけだが、それに血液型がコラボされているようなことが少なくないのである。
わたくしは今現在、血液型などはまったく気にしていない、あるいは星座占いだとかも気にしない、そういうのはかえって煩わしいと思っている。いちおうはわたくしにも星座があるし、血液型もあるので、かつては雑誌などを見るとついつい読んでしまうことがあった。しかし、今は無視している、自分には関係ないことだと思っている。
そういうわけで、大聖人の血液型がどうであろうと、今のわたくしには関係ない、それで大聖人への見方が変わることはまったくないのである。
それにしても話のタネとしてはひじょうに面白い、いったいどこからそんな話を仕入れてくるものか、それがまた興味深いところである。

心臓移植の話も興味深いものである。ようは心臓の提供者の記憶が被提供者に蘇えったというのだ。これはどの程度のレベルなのか、そっくりそのままダウンロードされたのか、断片的に一部の記憶だけが移されたのか、詳細を知りたいところである。また、移植を受けた人の記憶はどうなってしまったのか、上書きされてしまったのか、それとも従来の記憶と提供者の記憶の両方を、つまりは二人分の記憶を保持しているのか、気になるところである。
しばしば言われていることだと思うのだが、こうした事例が物語ることは、必ずしも脳=心ではない、それほど単純ではないということなのだろう。

日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給ひぬ。

わたくしにはこの御文の意味がイマイチわからないのであるが、頭というのは脳のことなのだろうか?

ようするに、大聖人の頭脳には釈尊の頭脳のすべてがダウンロードされている、いわゆる如来一切諸有之法ないし宣示顕説云々、教主釈尊の一大事の秘法はすべて大聖人に移されたのだと。もしくは実質的に同じ頭脳の持ち主として、釈尊と大聖人は同体異名であると・・・
しかし、これは人間の知性はすべて脳に集約されているとする現代的な解釈からの読み方であろう、はたしてこれが正しい拝し方なのかどうかといえば、はなはだアヤシイような気がする。さりとて別の拝し方も思い当たらないのだが・・・
もし日蓮が頭ではなく、日蓮が魂魄とでも御表現あそばしておられれば、ひじょうにわかり易いのであるが、大聖人が頭とされている以上、それに重要な意味があるのだろう。今のところ、わたくしにはわからない、というのが結論である。

以上は脳科学との関連から、たまたま思い浮かんだ御金言をもとに論じてみたわけだが、これは法水写瓶の話題にも応用が利くようである。

歴代法主の頭には日蓮大聖人かはらせ給ひぬ。

不勉強のわたくしは知らないが、きっと同趣旨のことはすでに言われていることなのだろう。また、この乙御前御消息とほぼ同時期の高橋入道殿御返事にも、ひじょうに興味深い御文がある。

日本国の王となる人は天照太神の御魂の入りかわらせ給ふ王なり。

これまた応用すると、

富士大石寺の法主となる人は日蓮大聖人の御魂の入りかわらせ給ふ人なり。

さすがに日蓮正宗でも、ここまでズバリとは言わないのかもしれない。いろいろウルサイ人が多いので・・・

しかしまた、なぜに顕正会員のわたくしがこんなことを書いているのだろう?

もしかしたら、わたくしには左京日教の御魂が入り込んでいるのかもしれない。

2007/3/24

科学的考察の限界  
このところ、どういうわけか創価学会員からのコメントが多い。初見参の人もいるので、改めて当ブログの方針を申し上げると、ひと言でいえば独白ブログだということである。ゆえに創価学会員の得意な「対話」とは、対極に位置するものと考えていただきたい。ようはこれがわたくしの作戦であり、こうして都合の悪いコメントをやり過ごすのである。

如月氏からのコメントには李白の詩が引用されていて、何がいい気分なのかわからないが、何となく独白っぽいところが好ましい。わたくしに話し掛けないコメントは楽でいい・・・と思ったら、違っていた。
初代講頭の戦前の事業とか白須郁三氏など、そんなことを現役の顕正会員に聞いてもわかりはしないだろう。何しろ二十年選手のわたくしですら知らないのである。現在、活動している人の大半は会員歴十年未満だろうから、知っているわけがないのだ。そもそも浅井先生だって、そんな昔のことは知らないに違いない。
逆に、そんな昔の情報をどこから仕入れてくるのか、教えてほしいものである。

さて、にっち氏より初コメントを頂戴したわけであるが、まあ、大体こんな感じのブログなので、お手柔らかにお願いしたい。

史的考察と科学的事実・・・

これはまた、たいへんな方のお出ましである。
まず、史的考察について申し上げれば、これはもっともわたくしの不得意とするところであり、お手上げ状態である。史的考察のためには、あらゆる史料を渉猟し尽くさないといけない。それこそ些少の史料だけで結論を出そうものならば、大間違いを犯すことになるだろう。わたくしは富士宗学要集すらも所持していない、その程度の人間なのである。ゆえに史的考察などという大層なことは、おそらく死ぬまで不可能だろうと思っている。
次に科学的事実であるが、これまたわたくしは科学者ではないので大層なことは何も言えないのである。ただし、にっち氏にしてもおそらくはそのような専門家ではないのだろう、わたくしの思うに現代人の一般教養レベルにおける科学的知識に鑑みて法水写瓶とはナンボノモンであるか・・・というようなことではないかと思う。わたくしもいちおうは現代人であるから、多少の教養はあるつもりである。ゆえにこれまでにも、現代感覚との乖離ないし齟齬みたいなことを、いろいろな場面で書いて来たし、昨日の投稿でもまた、その一端を示したつもりだった。

如意宝珠であるとか、阿那律の御器などを、はたして科学的事実として認めることができるのかといえば、それはほとんど不可能に属することだろう。これをどうするかである。

わたくしのつもりでは、これらを仏語として信受するのであれば、同じく法水写瓶もまた信受すべき道理となるだろう、ということだった。
しかし、おそらくここで問題になるのは、如意宝珠や阿那律の御器は昔の話であって今はそれが存在していない・・・存在していれば面白いが残念ながら存在しない、ところが法水写瓶は存在する、このゆえに猊下は尊信の対象となるわけだろう、だが、これを科学的に調べたらいったいどのような結果が出るか、ということなのだと思う。法水写瓶は厳然と存在する、今も厳然と存在するのである・・・と主張するのであれば、それが現代科学の検証にどこまで堪え得るかとの追求があって当然である。

法水写瓶そのものは譬喩であるから科学的検証は不能である・・・というのが、おそらくは妙観講あたりの言っていそうなことである。わたくしは別のアプローチから論じてみたい。

悉達太子は人界より仏身を成ず、此等の現証を以て之を信ずべきなり。

大聖人はここで明確に現証と仰せになられている。ようするに釈尊の成道は譬喩ではなく、人間が仏になったという事実・・・ようは厳然たる史的事実だということだろう。これを科学的事実として証明できるのか、である。
これまた、大昔の話であって今現在、釈尊は存在しないのだから検証不能ではある。だったら常住此説法はどうなるのか、はたして譬喩なのか、である。

信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱へ奉れば凡身即ち仏身なり。

これは逃げ道のないところである。
いわゆる当位即妙・不改本位の御法門からすれば、ここでの仏身はいわゆる色相荘厳を意味しないとするべきかもしれない。それはそれで構わないのであるが、これは今すぐにでも検証ないし実験の可能なことである。にっち氏のコメントにある言葉を借りれば、脳科学の分野から見て何かしら大きな変化が生ずるのか、これがひじょうに興味を惹くところである。もし明確な変化が、それも有益な変化が認められれば、それこそ広宣流布は一気に進むことであろう。

逆に、御書を拝すれば、いたるところに謗法の害毒が説かれている。これまた検証可能である。例えば念仏を唱えたとして、はたしてどのような変化が生じるのか、脳科学からのアプローチで有害な変化が認められれば、話は早い。

このような観点から、わたくしは科学的事実ということに絶対的な信を置くわけにはいかないと思っている。まさか法水写瓶だけに科学的事実が求められるわけではないだろうから、あれやこれやと追求していくうちに結局のところは信仰そのものを全否定することになりかねないと思うのである。

いや、もちろん、科学を否定するつもりは毛頭ない。だが、言い古されてきたことではあるが、信仰者の立場から言えば科学はしょせん未熟である、ということなのである。

2007/3/23

御隠尊ヌケガラ説の是非  
お暇庵氏には先日来、種々の懇篤なるコメントを頂戴し、かつまた今朝方にもコメントをくださいましたこと、まことにありがとうございました。大事なことがぎっしり詰まっていて、わたくしの能力では消化し切れない状態になってしまっていることを申し訳なく思うものです。また、正統派云々ですが、確かに型にハマらない自由闊達なところが某カルト教団(?)と異なるところだと思いました。逆に言うと、現今の法華講は型にハマり過ぎている、いや、そうではなくてお暇庵氏のような人もいらっしゃるわけで、さらには他にもさまざまのキャラがいるのだとおっしゃるわけですから、わたくしが知らないだけなのでしょうね。ようは層が厚いのだと思いました。

さて、層が厚いといえば、創価学会である。
昨夜は、日々更に決意氏よりコメントを頂戴した。この人は以前、日々決意と名乗っておられたと記憶している。いつの間にか改名せられた。バージョンアップしたわけだろう。ともかくスゴイ名前だと思う。
たまたまヅラ系氏との一件で、コメント欄に登場されたごとくである。どうやら創価学会員でわたくしのブログを読んでくださっている人は他にもけっこう存在するようであるが、コメントをせずにそっと見守っている場合がほとんどのようである。なにしろこちらが独白を決め込んでいるものだから無理もないのだが・・・
わたくし自身としても、創価学会員から攻勢を掛けられたらひとたまりもないので、静かに閲覧してくださるのはありがたいことである。


法水瀉瓶のことで検索していたら、グーグルの第一位に妙観講のサイトが出てきた。

http://www.myokan-ko.net/2006/10/post_4.htm

どうやら創価学会では、御隠尊モヌケノカラ説を唱えているらしく、それに妙観講のほうで破折を加えているのがリンク先の記事である。

一器の水を一器に移すが如く・・・いわばこれが法水写瓶の端的な説明だと思う。
ところが創価学会ではこの言葉尻を捉えて、水を次の器に移してしまったら前の器はカラッポになる、だから御隠尊は「もぬけの殻」である、と主張しているごとくである。
確かに一理はある。世間の例では現職の総理大臣と過去の総理大臣の関係がそうだし、会社の社長なども同様であろう。引退後も隠然たる力を持つ場合もあるが、それは例外的なケースであって、制度的には力を有さないものだと思う。
この事例からすると、御隠尊には何の力もないことになるが、実際はどうなのだろうか?

わたくしは次の御文などに重要なヒントがあると思う。世間と出世間には共通する部分もあるが、共通しない部分もある。であれば、世間の事例のみならず出世間の事例からも考察を加える必要があるだろう。

譬へば如意宝珠は一珠も無量珠も共に同じ。一珠も万宝を尽くして雨らし、万珠も万宝を尽くすがごとし。

釈迦仏の伯父に斛飯王と申す王をはします。彼の王に太子あり、阿那律となづく。此の太子生まれ給ひしに御器一つ持ち出でたり。彼の御器に飯あり。食すれば又出でき、又出でき、終に飯つくる事なし。

もはや説明の要はないであろう、これが法水写瓶を考える上での重要なヒントとなる事例である。いや、ヒントではなく、ほとんどこれが答えと言ってもいいくらいである。

日顕上人から日如上人に法水が移された。普通の概念では、日顕上人には何も残らない、文字どおりのカラッポの器である。ところがそうではなく、御隠尊の器にはなおも水が満々と湛えられている。たとえ御隠尊が十人いても百人いても同じである。汲めども尽きぬ泉のごとく・・・それが大聖人を根源とする法水なのである。

もちろんこれを現代の自然科学をもって証明することは困難なことであろう。

しかしながら信仰次元としては、じゅうぶん過ぎるくらいに納得のいくことだと思う。

2007/3/22

汚泥不染?  
昨日から今日にかけて、お暇庵氏から多数の懇篤なるコメントを頂戴した。力の差は歴然である。

ヅラ系氏のコメントには、もしわたくしが創価学会員だったならば法華講員など一捻り・・・などということが書かれていた。そして、これはお世辞ではない、力の差は歴然、とも書いておられる。
しかし、お暇庵氏のコメントを拝見すれば、どうしたってわたくしの稚拙さは否めないのである。
つまり、ヅラ系氏とわたくしは五十歩百歩であり、ほとんど竹膜を隔つ(?)の関係だと思われる。対して、お暇庵氏のいる位置は、遥か彼方と申し上げる以外にない。それほどに力の差は歴然なのである。

お暇庵氏は申すまでもなく法華講員であろう。
法華講員といえどもピンキリであるが、お暇庵氏はなかでも最上級に位置するのではないかと思われる。また、必ずしも正統派の法華講員という感じではなく、リベラルというか、仏教全般に造詣が深く、それがコメントにもあらわれているように感じられるのである。
わたくしの言う正統派とは、宗門の出版物を中心に・・・というか、基本的にはそれしか読まない人が正統派だと思う。お暇庵氏の場合は、明らかにその領域からはみ出していると思う。タイプは異なるにしても、法太郎氏に近いものがあるだろう。

それにしても、ヅラ系氏は変わり者である。
いや、これはご本人がかつてそのようなことを言っておられたから書いているのであって、さすがにそうでなければズケズケとは言えないことである。ともかく何が変わっているかと言えば、わたくしのことを評価してくださっていることである。そもそもそれ以前に、わたくしのブログを贔屓にしてくださっていることが、変わり者の証拠である。

あるいは類は友を呼ぶのかもしれない。というのは、何を隠そう、わたくし自身が変わり者だからである。

もちろん、他にもたくさんの人が贔屓にしてくださっている。まさか、だからといって、その人たちがことごとく変わり者というわけではない。

もしかしたら多少なりともわたくしの文章に、人を惹きつける魅力があるのかもしれない。もしそうだとしたら、顕正会も捨てたもんじゃない、ということだろう。ようするに顕正会も、それなりの人材を輩出していることになるからである。

顕正会もそれなりに歴史のある組織である。また、それなりの大所帯でもある。であれば、わたくしのような変わり者を輩出したとしても、それほど驚くに値しないであろう。

なお、誤解のないように書いておくと、わたくしは必ずしも功績のある顕正会員ではない。昔から落ちぶれ顕正会員だったのである。
たいていはある時期にめざましい活躍をしていたとか、かつてはそれなりの役職に就いていたとか、何かしらの取り柄があるものである。わたくしにはそれがない。また、必ずしも教学に秀でていたわけでもない。

これは謙遜などではなく、事実である。

しかし、ある時期に切実な理由があって、どうしても学ばなければならない必要性が生じたのである。この詳細については今のところ書くつもりはないが、ともかく真実を知りたいという欲求がめばえたのだった。

これもまた誇張ではなく、事実である。

証明となるかどうかわからないが、当ブログの愛読者ならば納得していただけることを一つ書いておこう。
わたくしの教学的な視点というのは、案外にというか、おそらくはけっこう独特なのではないかと思っている。この理由は簡単である。顕正会で真面目に勉強してこなかったからに他ならない。ゆえに顕正会的な思考にとらわれない、というよりも、長く在籍していたものの不真面目だったので染まることがなかったのである。

そういうわけで、ゆえあって猛烈に勉強したいという欲求がめばえたのは近年のことである。ところが顕正会はいわゆる一念信解路線まっしぐらになっていたので、もはや得るものがなかった。また、わたくしがどうしても知りたいと思ったことを、教えてくれるような組織でもなかったのである。

・・・今日は思いつくままに書いた。


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