2007/5/31

ドーナツにこだわり過ぎた文章  
しかし、ここでうっかりすると、肝心の大聖人の御書にご無沙汰してしまって、本末転倒ということにもなりかねない。

一昨日の拙文からである。

どういう意味かというと、日蓮大聖人を研究している人は研究範囲を広げていくにつれてドーナツ化現象を起こしてしまう危険性がある、という意味である。
実際、そのような傾向の人がいる。誰とは言わない、いや、言えない。人のことを言っている場合ではないし、実はわたくし自身がいちばん危ないかもしれないのである。

しかし、良いほうの名前であれば、あげてもいいだろう。わたくしの知る範囲では、おそらく在野の研究者としては魯ひと氏がもっとも熱心であり、ひじょうに中身の濃い研究をしておられるように感じられる。しかも守備範囲が広い。いったいどれほどの文献を渉猟してきたことか、想像を絶するものがある。
そして魯ひと氏のスゴイところは、どれほど研究範囲を広げても、最後は必ず御書に戻ってくることである。というよりは、どの場面においても常にベクトルが大聖人へと向かっているのだ。ドーナツ化現象の心配はほとんど見られない。

からぐらの会 からぐらねっと からぐら文庫 からぐらの風

わたくしの「お気に入り」には、「からぐらねっと」で今も登録されている。それ以前には、「からぐらの会」と称していたようである。ともかく、ずいぶん古くからネット上で活躍しているようだ。そして他の創価学会員と一線を画している点も見逃せない。

 からぐらのページは自由にリンクを張っていただいて結構ですが、相互リンクの件は、ご容赦ください。編集方針の所で述べていますように、当ページは魯ひと個人の見解や主張を述べています。かならずしも、三色旗サイトや仲良しグループを志向するものではないからです。

わたくしの心配は、はたしてこういう人は創価学会員としての人生をまっとうできるのだろうか・・・ということである。仲良しグループを志向するものではない。これは立派であるが、いわゆる破和合僧だと見なされかねない。また、出る杭は打たれるごとく、創価学会の中枢から睨まれないかという心配もある。顕正会だったら間違いなく除名になることだろう。
ただ、わたくしのほうから氏のことを弁護しておくと・・・いや、わたくしが弁護するのもどうかと思うが、ともかく御書全集の発刊の辞を読むがいい。

剣豪の修行を思わせるが如きその厳格なる鍛錬・・・

まさに、この戸田城聖氏の言葉を説の如くに実践している、それが魯ひと氏である。仲良しクラブに堕してしまっているインターネット上の創価学会員は、一分なりとも爪の垢を飲むべきと思う。

ところで、ちょっと思い出話を書くと、確か以前、からぐらコラムというのがあった。そこで総在一念抄の真偽論が展開されていて、当時のわたくしには何がなんだかさっぱり理解できなかったのだが、何となく知的好奇心をくすぐられ、ワクワクするような気持ちで何度か読み返した記憶がある。今はどこにも掲載されていないようで残念である。今ならわたくしも多少は理解できるだろうと思う。

さて、最後にドーナツ化の話に戻って締めくくろう。

魯ひと氏にドーナツ化の心配はほとんどないと書いた。ほとんどないということは、多少はあるという意味になる。以下はアゲアシ取りの気味がなくもないが、いちおう、わたくしの素直な感想を書いておこう。

 編集方針としては、客観性を重視し、筆を押さえるため、「日蓮大聖人」「日興上人」といった尊称はつけません。「日蓮」「日興」とします。歴史上の人物もこれに準じます。

 ただ、直接、間接に受ける学恩に思いを致し、近代の諸氏に関しては、「○○氏」(僧侶の場合は○○師)とします。これは、大石寺であると、身延山であると、等に関わりません。「博士」「教授」といった肩書はお許しください。


最新の記事の中には、堀日亨師や山上弘道師といった表記が見られる。なるほど、学恩ということか・・・
しかし、理由はどうあれ、大聖人には尊称を付けないのに、その末流には敬称を付けている、これには違和感をおぼえざるを得ない。どうしてもドーナツの形が思い浮かんでしまうのである。もちろん、これはあくまでわたくしの感覚であるが・・・

さらにアゲアシ取りを加えておこう。

魯ひとの日蓮とその御書研究

大聖人の尊称を削ってしまったのだから、当然に御書も御を抜くべきではないのか?

いずれにしても正直に告白しておこう。魯ひと氏はわたくしの遥か彼方にいて、こちらがどれほど歩みを速めたところで、追い付くことは不可能である。ゆえにこのような他愛のないアゲアシ取りに終始しているわけである。

たまにはドーナツでも食べようかな?

2007/5/30

衆人環視の独白  
今日は久しぶりにコメントを下さったウィンズ氏へのお返事を兼ねて書くことになる。

その前に、お暇庵氏からのコメントであるが、今日の話題には織り込むことができなかったので、お詫び申し上げておく。そして瑠璃堂氏のコメントであるが・・・まずはここから入りたい。

人材資源の液状・流動化現象

この表現は見事である。そしてまた、「顕正会の近未来を掌握するのは・・・浮動・中間層」といった表現もけっこう的確だかもしれない。
昨日はドーナツ化現象ということを書いたわけだが、表現はいろいろ可能なわけで、実は過去にも同様のことを書いている。それは顕正会における組織の空洞化という問題についてだった。まさにドーナツ化と意味を同じくするところであろう。そして組織の空洞化と表裏一体なのが、いわゆる信心の空洞化ということだと思う。

ウィンズ氏が心配して下さっていることは、まさに信心そのものである。
まず、わたくしが顕正会員であり続けていることがいけない。すでに過去に話題に上がっているごとく、顕正会では会館安置の本尊に疑惑がある。つまり、いわば中心となるべき本尊がニセモノかもしれないと疑われているわけで、なるほど、これは顕正会のドーナツ化を象徴していることかもしれないのだ。
ましてや、ウィンズ氏にはわたくしの信仰姿勢が二乗のごとく見えるのだろう、それではドーナツそのものではないかということになる。

二乗は虚空と見る

大聖人の御書にドーナツという言葉はないが、まさに上掲の御金言はそれを示唆して余りあると思う。

昨日のオチに、わたくしの頭の中はカラッポである意味を書いたけれども、それは年々老化が進んで物覚えが悪くなったことや、頭の切れが悪くなったこと、ようは冴えてないことを言わんとしたわけである。
しかし、どんなに頭脳明晰であっても、そこに信心がなければ、ドーナツと変わりがない。ウィンズ氏の指摘はまさにそこにあるのだろう。このようなコメントを下さることは、とてもありがたいことである。

結論を言えば、わたくしが宗門にて御授戒を受けることはない・・・もちろん現時点では、である。

しかし、このことをネット上であれこれ書いても仕方がないであろう、それこそ対面を遂げて直接話し合うべき事柄だと思う。もっとも、こんなことを書くと、ではお会いしましょう、などというコメントを寄せてくる人がいて面倒なことになりそうだが、ともかく今の段階ではそのような気持ちはないと申し上げておきたいと思う。

いずれにしてもインターネットの発達した現代に生きることは、一長一短があるにせよ、わたくしにとってはありがたいことだと思っている。

なぜならば・・・

・・・これが正真正銘の独白だったら、ほとんど面壁九年の世界であって、もはや助かる術はなかったに違いないからである。独白ブログとはいえ、こうして第三者にさらされていることで、多少なりとも切磋琢磨することができているわけだし、また、諸先輩からのアドバイスを頂戴することで、極端な逸脱をせずに済んでいるのだろうと思っている。

ともかく、わたくしは過去の投稿を一切いじくっていない。改竄だとか抹消とかはまったく考えていないので、わたくしの方向性に狂いが生じてくればそこにハッキリとあらわれることだろう。文証顕然というわけである。
ゆえに、その時にはわたくしの自己矛盾をあばくコメントを下さればいい、わたくしがそれにどう対応するか、それで結論が出るに違いないのである。
いずれにしても、もはや度し難いということになれば、その時にはコメントすら下さらなくなるだろう、ようは誰も相手にしなくなる。

こうしたことまで含めて、すべてが公開されているわけであり、衆人環視の中での出来事なのである。

2007/5/29

ドーナツ化現象に悩む巌虎独白  
さて、今日はどのような話が展開されるか、想像できるだろうか? タイトルだけで話が見えたらスゴイと思う。

当ブログが多少なりとも読者に刺激を与えることができているとすれば、タイトルにもその一因があるだろうと自己分析している。
ブログを書くに当たって、まずタイトルありきの場合と、先に本文を書いてからタイトルを付ける場合とがある。わたくしの場合は本文を先に書く場合がほとんどである。なぜならば行き当たりばったりで書いているものだから、最初にタイトルを決めてしまうと内容が限定されてしまって本文を書きにくくなる。ゆえに、ともかく筆に任せるままに本文を書いてしまって、あとからその内容にふさわしいタイトルを考えるのである。
最初にタイトルを決めてしまうと云々・・・逆もまた同じことが言えるわけで、最初に本文を書いてしまうと、稀にはタイトルに悩むことがある。どうも相応しい表題が思い浮かばないのである。そういう時はどうするかというと、わざと思いっきり意味不明のタイトルにしてしまうのである。
おそらく・・・というか、読者は普通どうしたって最初にタイトルを読むだろう。それから本文を読む。すると、あれ? いったいタイトルの意味はなんだろう? ってなこともよくあるはずである。これがある意味、刺激的なのだと思う。

さて、今日はまずタイトルありきである。表題を決めてある。そしてほぼ話の構想もできている。ただ本文は、今これから書くところである。

れん氏よりコメントが寄せられている。また、その前には虚空老人氏からのコメントがあった。両者の共通する点はきわめて専門的であることだ。
しかし、専門的過ぎるのも考えもので、当ブログのコメント欄はドーナツ化現象が著しい。
どういう意味か?
ようは現役顕正会員からのコメントが絶滅してしまったことである。

そもそもわたくしは落ちぶれ顕正会員として、顕正会およびその会員へのメッセージの意味を込めて書き綴ってきたのである。
確か昨年の今頃は、現役会員と思しき人からのコメントがまだ寄せられていたと思う。ちょうど新聞購読の推進月間でもあって、いわゆる多重購読の問題なども書いたりしていた。それに対する顕正会擁護の立場からのコメントがいくつかあったと記憶しているが、どうもそれ以降は会員からのコメントが来なくなってしまったようなのである。
つまり、現状では法華講員や創価学会員、あるいは無所属の人などからのコメントが主流となってしまい、肝心の顕正会員からのコメントが来なくなってしまった・・・これがドーナツ化現象の意味である。

なんか、さみしいなあ・・・

しかし、これはある意味、わたくしの反映でもあるのだろう。ようするに外側の現象だけを見るならば、顕正会員に疎まれている、忌避されている、ともかく現役会員がどんどん遠ざかっていく、それが当ブログの状況であるけれども、実はその根本にわたくし自身の本当の姿が隠されている・・・つまり、わたくし自身が顕正会に距離を置いてしまっている、顕正会からどんどん心が離れていってしまっている、ということなのだろう。相手のせいばかりにはできないのだ。

もはやコメントは期待しない、期待するほうが間違っている。ただ、わたくしとしては、一人でも多くの顕正会員に読んでもらいたいという気持ちに変わりはない。ゆえに、コメントはともかく、今ひそかにでも読み続けている会員がいれば、ぜひともそれを継続してほしいと思う。わたくし自身も可能な限り、ブログを続けていくつもりである。

さて、ドーナツ化ということは、いろいろなテーマに応用できる。

日蓮大聖人を研究している人はたくさんいる。今では在野の研究者とも言うべき人もたくさんいて、その熱心さには驚嘆すらおぼえる。
で、こういう人たちは押しなべて研究範囲を広げていくものであり、日蓮正宗で言えば歴代上人などの御筆記を学び、さらに他門の文献なども渉猟していく。あるいは時代をさかのぼり、伝教を皮切りに叡山の諸論師の文献を読んだり、さらに中国にわたって天台・妙楽などを学んだり、果ては月氏にまで手を広げる人もいる。また、大聖人と同時代の、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちへと目を向ける人もいる。
まったくスゴイものである。

しかし、ここでうっかりすると、肝心の大聖人の御書にご無沙汰してしまって、本末転倒ということにもなりかねない。

誰とは言わないが、いや、言えないけれども、周囲の研究ばかりにご執心で案外に御書を読んでいないと思われる人もなかには存在する。御書の研鑽を積んだ上で外に広がっていった人はまだ救いがある。しかし、ろくすっぽ御書を読まずに、いきなり外に手をつけてしまった人は、取り返しのつかないミスをしたのではなかろうかと思う。

ようするこれは、ドーナツ化というよりは、ドーナツなのである。

最後にくだらないオチを付けておこう。実はわたくしの頭の中こそドーナツ化の波が押し寄せていて大変なのである。いや、もちろん、もとよりドーナツだったのであるが、さらにそれがどんどん拡大しているのである。

2007/5/28

万事休載  
今日はお休みとさせていただく。

松岡農相が自殺した。これはけっこう衝撃的である。もはや何も書く気がしなくなった。

わたくしは松岡氏のことをよく知っているわけではない。ゆえに特別な思い入れみたいなものがあるわけではない。けれども、何の問題だったか・・・そう、それすらちゃんと記憶していないくらいなのだが、ともかく何かの問題でずいぶんと叩かれていることは承知していた。大変だなあ、政治家は・・・などと他人事のように見ていたのである。
どうもわたくしの見たところでは、野党やマスコミからの追求に対して、暖簾に腕押しのごとく、のらりくらりと追求をかわして、とうとう逃げ切ったかに見えた。大臣になるくらいの人はそれくらいのことは屁のカッパなのだと思った。そもそも図太い神経の持ち主でなければ政治家などにはなれないだろうし、そうした海千山千のツワモノたちとのしのぎ合いを制して大臣の椅子を手に入れたわけだろう。

それが自殺してしまったのである。

わたくしには、もはや言葉がない。

2007/5/27

刺激の賞味期限  
虚空老人氏には、重ね重ねのコメントを頂戴しましたこと、まことにありがとうございました。ご承知のごとく、当ブログは独白を主体としておりますので、以下は普段どおりに書かせていただきたいと思います。また何かお気付きの点がございましたら、その折にはご指導下さいますよう、お願い申し上げます。

刺激・・・

人は刺激を求めている。それも贅沢なことには適度な刺激を求めている。強過ぎても弱過ぎてもいけない。
ところが人は刺激に慣れてくる。やがては刺激を感じなくなる。そして新たな刺激を求める。

あっと驚く発見・・・

これも刺激を意味するのだろう。
妙本寺には未だに調査の進んでいない古文献があまた存在するとも聞く。そこに新たな発見があるかもしれない、あっと驚く大発見が・・・
なるほど刺激がある。ある意味、その発見が吉と出るか凶と出るか、ようは自分の信仰にとってプラスとなるかマイナスとなるか、それは五分五分の確率なのだと思う。これはものすごく刺激的なことである。

しかし、この刺激に対する感受性には個体差があるわけで、わたくしのような初心者にとっては軽度の刺激でも、じゅうぶんに感じるのである。すでに書いたように、やがてはそれに慣れてしまい感じなくなる、不感症になってしまうのだ。そこでまた、より強い刺激を求めることになる。
刺激の種類ということもある。
たとえば、わたくしは日本文学というものを真面目に読んだことがない。ゆえに今からでも何かしら、たとえば宮沢賢治でもいいだろう、真面目に取り組んでみたら、そこには新たな刺激が待っているかもしれない。もちろん、まったく何も感じないかもしれないし、それ以前にまともに通読できるかどうかもわからないのであるが・・・

わたくしはこれまで、仏教関係の書物といえば、大聖人の御書以外はほとんど読んだことがなかった。
それはもうそれだけで、じゅうぶんに刺激的だったからである。実は今もこの基本は変わっていない。当面はこの方針を変えるつもりはない。ある意味、御書を拝して感じるものがなくなったら、わたくしにとってそれは信仰の消滅を意味することだろう。
そんなわけだから、ほとんど他の書物は読まない。ただし、ネット上に存在する資料は、気が向いたら読む。もっとも、気が向いたら・・・などと言うようでは、単なるモノグサに過ぎないことを露呈しているようなものだが・・・

ゆえあって、このところ少しずつ日我の文献を読み進めている。これはこれで刺激的であり、わたくしなりの発見があった。

問て云はく代々諸聖霊等にも金の打ち様、題目を唱ふる事、本尊御影等と一徹なる事如何、答て云はく当流の意は信心に私無しと云ふ名目の深意を探るべし、或は我師と本尊と各別と思ひ、或は我親はしたしく仏は通しと思ひ、若し我か身と仏と公私の替を存じ、他の信者と我か身と各別と存ずるは正信に非ず、又私の信、己調の信なり、事の十界互具の仏誰をかよそに存じて我か身に別に執せんや、仮令六万非多・単己非独で一仏の本尊も南無妙法蓮華経の日蓮なり、又多仏も此くの如きなり、代々も南無妙法蓮華経日蓮、諸聖霊も南無妙法蓮華経日蓮と廻向申し信を取り定むる処こそ私なき信心なれ、爰にこそ観心の本尊なれ、全く自他隔障を存じ、公私の上下に執しては凡聖一如の十界皆成の正理にいたりがたかるべし、此の筋大切なれども粗之れを示すのみ。

先日は御酒に関する部分を取り上げたのだが、今回はいちばん最初の項目すなわち勤行次第の事に出てくる文章である。
大事なことがいっぱい詰まっていて、わたくしの能力では太刀打ちできない。だが、一つのことを手掛かりにして、いろいろ思索をめぐらせることは可能である。

六万非多・単己非独

これは・・・すぐに気がついた。

今から半年前に、ゆえあって類聚翰集私を読んだ。なぜ読んだか、それはブログを詳細に追えば判明するだろう、いつものパターンである。自分から積極的に読んだわけではなかったのだ。

だが、それなりの発見があった。

http://diary.jp.aol.com/ganko/554.html

六万坊と申せばとて六万多に非ず一已独に非ず只表示の釈なれば一人也とも正信ならば六万坊建立に成るべきなり

類聚翰集私である。ようするに日教と日我の著書には、ほぼ同じ語句が存在するのである。

さて、日教の文章ではそこに戒壇のことが出てくる。ところが日我のそれには戒壇のことが書かれていない。これをどのように整理するかという問題があるのだ。
おそらく教学に秀でている人ならば、一読して理解することだろう。逆に初心者にとっては何がなんだかサッパリわからんに違いない。いちおう、わたくしの立場はその中間ということにして、はたしてどの程度まで読み解くことができるか、そこが問題である。

ちょっと自信がないので、すぐに続きを書くかどうかは未定である。

2007/5/26

ホメ殺し戦術?  
いろいろなコメントを頂戴した。

まず、お暇庵氏であるが、これは余裕綽々というべきか、富士川氏との間に確固たる信頼がなければ、とうてい言えることではないと思う。
とかく人間関係は難しい。こちらは冗談のつもりでも、相手はそれを真に受けてしまうこともある。こちらは大した問題ではないと思っていても、相手にとっては大問題の場合もある。やがてはお互いに遠慮して、言いたいことも言えないような関係になってしまうこともあるのだ。
だが、お暇庵氏や中道一実氏には遠慮がない。そこには確固たる信頼関係が築かれているのだろう、ちょっとやそっとで壊れるようなチャチなものではない、それが垣間見えると思う。

ヅラ系氏には、骨を折っていただいた。なるほど仏教事典も必要かもしれないと思った。
ただ顕正会員は、仏教哲学大辞典にあまりいいイメージを持っていないので、もし仏教関係の事典を手元に置くとしたら、他のものを選ぶかもしれない。いや、しかし、どれがいいのか判断がつかないし、現時点では何がなんでも必要としているわけではないので、当面は購入することはないだろう。
ひじょうに虫のいい話だが、ヅラ系氏をはじめとして諸先輩方が情報を下さるので、それで間に合ってしまっているという面もなくはないのである。

さて、ここで虚空老人氏の話題に移ろう。

この人は法華講員である。おそらく当ブログには初見参であろう、だが、そういう感じがしないのである。なぜならば、氏はすでにしてネット上における著名な人物のひとりに数えることができるし、実際のところ各種掲示板にてしばしばお見かけもするし、さらに言えば当ブログでも過去にお名前をあげさせていただいたことがあるのだ。ゆえにひじょうに親近感がある。いや、これは失礼というものだろう。

おそらくはウソみたいに聞えることだろうが、今日はあらかじめ虚空老人氏のことを書こうと思っていたのである。まさかコメントを下さるとは思ってもいなかったので、かえってひじょうに書きづらくなってしまった。そのまま構想どおりに書くのは読者にしても興ざめであろうから、以下はその輪郭的な部分だけをなぞってみたい。

わたくしは富士宮ボーイ掲示板を毎日閲覧している。そこでしばしば目にする言葉に「あ法華講」ないし「ア法華講」というのがある。最初はミスタイプなのかと思っていたが、すぐに意味がわかった。ようするにネット上で活動している法華講員を「アホ」だと言っているわけである。そのほぼ唯一の例外が虚空老人氏ではなかろうか?
富士宮ボーイには、降魔の剣掲示板がリンクされている。あの樋田氏のサイトである。ゆえにわたくしは、いつも富士宮ボーイ経由で降魔の剣に立ち寄っている。
よく知らないが、正義の味方という名前の人が活躍している。創価学会員と対峙しているように見えたので、てっきり法華講員かと思った。そもそも降魔の剣には法華講員と創価学会員くらいしかいないものだと思っていたので、まさか正義の味方氏がそのどちらでもないとは気がつかなかった。
富士宮ボーイには、創価破邪顕正館もリンクされている。そこもいちおうは開くがほとんど読んでいない。そんな調子であるから、顕正館には関連サイトがたくさんあるけれども、めったに開かない。その一つであるところの諸宗法論館もしばらくご無沙汰していた。
で、昨日たまたま、久しぶりに諸宗法論館を閲覧したのである。そうしたところ、ちょうど虚空老人氏と正義の味方氏とで、議論をしている最中だったのである。今も継続中なのか、あるいは尻切れとんぼで終わってしまったのか、それはわからない。ただ、そのやりとりを興味深く拝見していて、ようやく正義の味方氏が法華講員ではないことがわかったのである。

虚空老人氏は紳士的であり、こうした門外の人間との議論を得意としておられる。いや、得意かどうかはわからないが、ともかくひじょうに親切であり、かつまた情熱的である。ゆえに拝見していて気持ちがいいのである。
もちろん、そこには弛みなき研鑽に裏打ちされた、確固たる教学があるのだろう。でなければ、門外の人との論戦など、できっこないのである。

昨日も書いたように、これが日蓮正宗の重厚さであろう。その一翼を担っているのが虚空老人氏である。

さらに屋上屋を架すならば、富士宮ボーイの面々が一目もニ目も置く、それが虚空老人氏である。

しかし、ヘンだなあ? なんでこんなにホメてんだろ?

2007/5/25

掲示板の演出はどこまで可能か?  
どれだけ考えても、話を読んでもいまだに、正しい教えとは思えません。
根本的に日蓮系団体の教えはすべて、間違っているんじゃないですか?
まあその中でも顕正会は抜きに出て間っがっているとおもいますが、、、。


富士川一郎氏の仏教掲示板はすでに多くの人の知るところであろう。
わたくしは富士川氏がなぜに今さら掲示板運営に乗り出したものか、それがわからなかったし、今もなお腑に落ちないものを感じている。掲示板というのはフタを開けてみないとわからない、ともかく開店してみないことには、どんなお客さんが来るかわからない、それが掲示板というものである。また、書き込みが低調のまま、結局は閉鎖するような場合もある。
そんなわけで、今現在のような展開は予想だにしなかったことであり、それは当の富士川氏にしても同じなのではないかと思う。

それにしても驚くべき展開である。とりわけ直近の中道一実氏の投稿にはぶったまげた。

わたくしがヘタな説明をするよりも、掲示板をじかにご覧になられたほうがいいだろう。
端折ってしまえば、無宗教者の金沢氏が上掲のごとき投稿をしてきた、これが発端である。わたくしの思うに、信仰者の最大のライバルは無信仰者である。これがもっとも遠い存在なのだ。
ある意味で創価学会などは親戚みたいなものだし、日蓮宗だって同様である。ゆえに相互理解のための共通項がいくつもある。ところが無宗教者ともなれば、そうも行かない。議論をするとなれば、間違いなく苦労することになる。

当然ながら富士川氏も、ひじょうに苦労されているようである。

それはそれでいいのである。掲示板とはそのようなものなのだ。氏にしたって、そんなことは百も承知のことであろう。
ところがである。
本来だったら援護射撃をするべき立場の人たちが、どういうわけか富士川氏につらく当たっているように感じられるのだ。これには驚いたし、正直スゴイと思った。これが日蓮正宗の重厚さではあるまいかと・・・

まず、副管理人のブンザイで・・・このブンザイというのは微妙な表現であるが、まあ、これはさておくとして、ともかくこの副管理人は、金沢氏の意向を受けて新たに独立スレッドを立てたのである。その名称が「日蓮系団体の教えはすべて、間違いか?」というのだから、これだけでもビックリ仰天である。
さらに、これだけでは済まない。議論の途中で副管理人から警告が発せられたのである。それがなんと富士川氏への警告なのである。富士川氏は管理人だったはずである。その管理人へ、副管理人から警告が発せられたのである。

そして今日未明には、富士川君らしくないね、などという中道一実氏の投稿があった。

わたくしは思った、富士川氏をクン呼ばわりするほどの人物とは・・・いったいどれほどスゴイ人物なのか、と。
それと同時に、日蓮正宗の重厚さというか、層の厚さ、奥の深さ、などを思った。つまり、普段ネット上で息巻いているような法華講員は、まだ下っ端なのではあるまいか、その背後にはもっとスゴイ連中が無尽蔵に控えているのではあるまいか、ということである。

あるいはそのように思わせるための演出なのだろうか?

少なくとも、顕正会よりも人材が豊富であることは、間違いないだろう。

2007/5/24

酒飲みにも一分の理  
あなたにとって価値があれば、まずそれで良しと思う。

どなたかは存じませんが、ありがとうございました。今後とも、お気付きのことがございましたら、何なりとおっしゃってください。よろしくお願い申し上げます。

さて、昨日はわたくしの守備範囲から外れて、妙本寺日我の化儀秘訣から引用を行なった。
実は先月の末ごろ、日我に似ているという指摘をヅラ系氏から受けて、いったいどういう人物なのか気になって、少しずつではあるが日我のことを調べていたのである。といっても、大した資料を持っているわけではないので、さしあたってはnb資料室にあるものを読み進めているわけである。その手始めに化儀秘訣を読んでみた。
いろいろ大事なことが書いてある。
そこで、これはもうちょっと気を入れて読まないといけない・・・とは思ったのだが、ともかく集中力がなくてぜんぜんダメなのである。

疑つて云はく仏に酒を挙げ申す時、袈裟の威儀を、はづすと云ふ説あり如何、答へて云はく此の事は中古に見聞に之れ有りと雖も当流に於て此儀式之れ無し、酒は威儀を乱れる者なる故にはづすと云云、若し夫れ程にいむべくんば仏に挙げて所用無きなり、然る間・我家は法水智水信池の水・五躰にうるをひ赤色の心の臓、仏法の智水に酔染したる意持なり、然る間、威儀をみだすとは心得ず、さて大酒をのんで女博等を犯し行学を懈怠せばのむこと無用か、大乗の宗にゆるすことは智水法水を弁へんが為なり、結句悪心悪念を起さば当宗の人なりとも堅く之れを禁ずべきのみ。

昨日の文章の続きである。
まずわたくしは、昨日の文章を含めて日我の酒に対する姿勢に感服した。ひじょうに合理的な思考である。もしかしたら酒を飲まない人ないし飲めない人には実感の持てない部分なのかもしれないし、あるいは酒飲みの自己弁護というか自己正当化のようにしか感じられない部分なのかもしれない。
だが、大聖人御自身が御酒を飲まれたことは文証顕然であるからして、これをどのように拝するかは重要な事柄に属するだろうと思われるのである。わたくしの知る範囲では、大聖人の御指南にここまでの具体的な記述は見られない。つまり、大聖人は御酒を飲まれた、だが、それについて自己弁護めいたことは一切おっしゃらなかった。ゆえに後世の弟子がこれをどのように会通するかということが、要求されて然るべきところなのだと思う。

上掲の文章については、わたくしの力では理解不能のところもある。だが、再掲する以下の部分はひじょうによくわかる。

さて大酒をのんで女博等を犯し行学を懈怠せばのむこと無用か・・・結句悪心悪念を起さば当宗の人なりとも堅く之れを禁ずべきのみ。

合理的と書いたのはこのためである。

さらに言えば、当体蓮華と譬喩蓮華の関係を思わせるところでもある。
そもそも、この当体・譬喩の関係はひじょうに難しい概念であって説明するのに一苦労する、さて、どのように言えばいいのか・・・初心者の人には申し訳ないがちょっと自信がないので省略させてもらうが、ともかくわれわれが信ずるところの御本尊は当体蓮華である。また、日夜唱えるところの御題目もまた、当体蓮華である。
ここで重要なことは、われわれはいわゆる植物としての蓮華を、直接的には南無しないことである。いわゆる神聖視ということも、それほどにはされていない。また、蓮根すなわち食用としてのレンコンを、禁食にはしていないはずである。
いかにも他の宗教では、ありそうな話ではないか・・・すなわち宗教的な意味からの特別視、さらにはタブー視、そしてズバリあれを食っちゃいけない、これを飲んじゃいけない、というパターンである。

これらのことを踏まえれば、自ずと答えが見えてくるのではないかと思う。つまり、小乗経の不飲酒戒は本質を見誤ったがゆえの不合理さを感じさせるのである。一方の、日我の説くところはきわめて合理的であり、現代感覚とも比較的よく馴染むのではないかと思う。

そういうわけで、昨日はじゃんじゃん飲むぞと気炎をあげたけれども、結局はほどほどにしておかないといけないようである。残念・・・

2007/5/23

三毒路線まっしぐら?  
妙本寺日我の云く、

一、酒を仏前に供つる事。
問ふて云はく禁戒の内なり何ぞ仏に供つるや、答へて云はく夫れは小乗一途の立て様なり、夫れ尚人に依つて之れを免す祇陀太子等是なり、大乗の宗は無明の酒を禁じて飲食の酒を禁ぜざるなり、当流に入りては下種の智水と意得是れを挙ぐるなり、酒に酔へる色赤し信心の色深き処をかたどるなり、神道に酒を用る等の事之れを思ふべし。


大乗の宗は無明の酒を禁じて飲食の酒を禁じていないと・・・

なんだ、そうだったのか!

よおし、今日からじゃんじゃん飲むぞ。

2007/5/22

電子化の波の中で  
瑠璃堂氏よりひじょうに難解なコメントを頂戴した。

http://diary.jp.aol.com/ganko/748.html#comment

そもそも文字が発明された当初は、それを木や石に書いたり刻んだりしたのだろうと思う。今になってみれば、これほどの不便はない。たとえば本一冊分の情報量を石に刻んでみればいい、これはヤッカイである。情報を伝達するにしても、それを遠隔地までどうやって運ぶかを考えれば、いかに不便であるかがわかるというものである。
そこで紙が発明された。これなら情報をコンパクトにまとめられるわけで、遠隔地への情報伝達が容易になった。
ちょうど大聖人の時代がそうなのだろう。まさか開目抄を石に刻んで佐渡の地から鎌倉まで運んでいたら、運賃(?)がいくら掛かるかわかったものではない。また、まさか口伝で開目抄ぜんぶを伝えられるわけもないだろうし、紙の発明がいかに大きな出来事であったか、ひじょうによくわかるというものである。

ところが今は、もっとスゴイことになっている。
開目抄はすでにテキストデータ化されており、たとえ世界の果てであろうとほぼ瞬時にこれを受け取ることができるのである。
しかもコンパクトである。たとえばわたくしの携帯電話は、すべての御書を入れたとしても、おつりがくるほどの大容量である。その寸法からしても一冊の御書より遥かに小さい。なおかつ音楽も聴けるし写真も撮れる。それでいて本来は電話なのである。いったいどうなっているのかと思うくらいである。

しかし、逆もまた真なり、なのだ。

この小さな携帯電話にあらゆるデータを入れたとして、それをうっかり紛失してしまったらどうなるか、あるいは水の中にでも落としてしまったら、もしくは車に轢かれて粉々に破壊されてしまったら・・・それこそオシマイである。
ゆえにバックアップということが必要とされているわけであるが、ここでもわたくしはひじょうに悩むのである。たとえば、わたくしのブログは保存するだけの価値があるのかどうか、それこそゴミみたいなものではないのか、という思いがなくもないのである。
一度データ化された文書はいくらでも複製が可能である。いわゆるコピペである。しかし、ぶっちゃけ言えば、ゴミを増やしてどうするのか、ということなのである。
ゆえにわたくしは、掲示板などであちこちに同じ文章を投稿している人を見ると、ひじょうに複雑な思いにとらわれるのである。まさか人様の文章をゴミと言うわけには行かないが、しかし、なかにはあまり程度のよろしくない文章もあるわけで、はたして本人は恥ずかしくないのだろうか、と思わざるを得ないのである。

それはともかく、話を元に戻そう。

より確実性を求めるならば、電子文書よりは紙、さらに言えば板ないし石にさかのぼる発想も必要だろう。少なくとも今日においてはいまだに紙の重要性は否定されていないわけで、おそらく重要な契約に関しては紙の文書をもって行なわれているはずである。これが完全に電子化されるのは、まだとうぶん先のこと、いや、あるいは永遠にその日の到来はないかもしれないと思う。

瑠璃堂氏は、紙文書は利便性やセキュリティー面で甘さを感じる、とおっしゃる。

しかし、メリットデメリットはお互いさまであろう、たとえば辞書などは手元に用意しておけばパソコンないし携帯で調べるよりも早い。実際にパソコンの入門書にも、無理してすべての機能を使う必要はない、辞書や電卓を別に用意して使うのも一つの有効な手段である、などと書いてあるのを読んだことがある。
また、セキュリティについて言えば、むしろわたくしはパソコンのほうが危険ではないかという気がする。単純に表現すれば、電子的な防御機能と物理的なそれの違いである。
たとえば、瑠璃堂氏のノートに書かれている情報を盗むとしたら、氏の家に侵入するしかないだろう。そして仮にノートが金庫にでも厳重に保管されているとしたら、金庫を破壊しないといけない。これが物理的な意味である。まさか透視術を使って、金庫を開けずして情報を獲得するわけにも行くまい。
それに比べると、電子的なセキュリティというのは、ひじょうに脆弱な感じが否めないのである。透視術などというものがあるのかどうか知らないが、電子的な意味で透視術に近いことをやってのける人が世の中には一定以上存在するわけである。

いずれにしても、メリットデメリットはお互いさまであって、手書きのノートの場合は紛失してしまえばオシマイ、あるいは火事で焼けてしまっても同じである。そしてこれのバックアップはけっこう面倒臭い。まさか写本するわけにも行くまいし、コピーを取って複製品を作るのもどうかと思う。それこそ、そこまでの価値があるのかどうか、悩んでしまうことになるだろう。その意味では電子文書のほうが確かに便利である。

人間の頭脳や心というアヤフヤな記憶媒体に向け、どれだけ多くの価値あるモノを残してゆけるかではないでしょうか

一つ言えることは、紙にせよ電子にせよ、こうして文章化する作業によって自分の考えを深めることができるのだろう。わたくしの場合は、本当に深まっているのかどうか、アヤシイけれども・・・


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